三、
ルイーナの身体となって一か月。一日の始まりは割りと早い。
群青だった空が灰青色へと変わる頃、小鳥たちの囀りを目覚ましに、悠里はゆっくりと寝台から身体を起こした。
はじめの頃は、朝が来る度にもしかしたら元の身体に戻っているんじゃないかと淡い期待を持ったりもしたが、今は期待半分諦め半分といったところだろうか。きっとそのうちにグレンが何とかしてくれるだろうと呑気に待っている間に一ヶ月が過ぎ、いつの間にかこの状況を受け入れてしまっている自分が悲しくもある今日この頃。
悠里はまだ寒さの残る朝の空気から身を守るようにショールを肩に羽織ると、厚みのあるカーテンを開けた。
明るさを増す大空に雲一つないところを見ると、きっと今日もいい天気なのだろう。
最近やっと部屋から出てもいいというお許しがでたので、今日も外に出れるかもしれないと思うと嬉しかった。
「さて、今日もやりますか」
悠里は空を見上げながら大きく伸びをすると、肩にかけたショールを取り去り、徐に足を開いて柔軟体操を始めた。一、二、三、四、と声を出しながら屈伸したり、身体を後ろに倒して腰を伸ばしたりして徐々に身体を解していく。そして十分に身体が温かくなったら次は腕立て伏せとスクワットと腹筋を身体が悲鳴をあげるまで続ける。これがルイーナの毎朝の日課だ。
特に早朝にしなければいけないわけじゃないのだけれど、前に一度、侍女のサリーにやっているところを見られて随分と驚かせてしまったことがあったので、悠里なりに反省してこの朝の時間にすることにしたのだ。
きっと本来の、生粋のお嬢様であるルイーナなら柔軟なんてしないだろうし、ましてや腕立て伏せやスクワットなどと身体を鍛える必要もないに違いない。
だけど、健康だけが取り柄だといっても過言ではない悠里にとっては、この身体は少々不便すぎた。
このルイーナの身体は貧弱というか、衰弱がひどくて座っているだけで疲れるということが多々あった。気持ち的にはすごい元気なのに身体が気持ちに追いつかないのだ。
ルイーナはずっと寝たきりだったわけだし、普通の人よりかは体力も落ちているだろうが、それ以前にこの身体には体力というものが備わっていなかったように思う。身体の肉付きも悪く、肌つやもなく、全体的に青白い。
まだ十八歳と若い娘のはずなのに、骨と皮しかないような細い手は老婆のようで、例えこの身体が仮のものだとしても、とても見過ごすことはできなかった。
「ふはぁ~」
毎朝の日課を一通りこなして一息つく。床に敷かれた毛足の長い絨毯の上を、寝衣のまま大の字で仰向けになって心地よい倦怠感に浸っていると、トントンとドアを叩く音がした。侍女のサリーが水を持ってやってきたのだ。
「うおっと」
悠里は即座に跳ね起きると、急いで寝台に戻った。掛布を膝にかけて座り、簡単に髪を整えてから返事をした。
「はい、どうぞ」
「おはようございますルイーナ様」
「おはよう」
「最近はお目覚めが早くていらっしゃいますね」
「えぇ、そうね……最近は体調もいいから、目覚めもいいのよ」
まさか早起きして身体鍛えてますとは言えないので、適当なことを言って誤魔化す。内心は冷や汗をかいているが。
「そうですか。そう言われてみれば、今日は特に顔色がよくていらっしゃいますね。それでしたらドレスの色も明るめのものを用意して頂きましょうか」
ぜひそうしましょう、とニコニコ笑顔でサリーが言う。
彼女もルイーナと同じ十八歳だが、随分と落ち着きのある大人っぽい娘だと思う。
悠里の中では十八はまだ子供だという認識の方が強いが、この世界ではもう十分に大人扱いなのだろう。ルイーナだってこの歳で王の婚約者となっているのだから、サリーくらいの落ち着きがあっても不思議じゃないのかもしれない。
「今日も庭に出られますか?」
「えぇ」
「では、朝食が終わったら出ましょうか。アミルにもそのように予定を伝えて参りますので、ルイーナ様はこちらにどうぞ」
「ありがとう」
悠里は寝台から降りると、サリーが用意してくれた水で顔を洗った。
その後いつものように鏡台の前に座れば、廊下で女官のアミルと話をしていたサリーが戻ってきてテキパキと身支度を整えてくれる。その間、隣の部屋ではまた別の女官達が朝食を用意してくれていた。
その完璧な連携と仕事ぶりにはいつものことながら感心させられる。
はじめのころは、何をするにもドキマギと挙動不審で、心細い思いも随分したけれど、こうして平穏な日々を過ごすことができるのは彼女達のおかげなのだ。
朝食を済ませた悠里はサリーと共に庭に出た。
優しい日の光が青々とした芝を照らす。
整列する低木に沿うようにできた散歩道を歩きながら奥を目指した悠里は、目の前に広がる雪のような白い花を見つけて思わず声を上げた。
「サリー見て! ほら、白い花が咲いてる! あ、こっちも! 前に来たときはまだ蕾だったのに。うわぁ、なにこの花弁の形! 可愛い~!」
溢れる興奮を抑えきれず、一目散に花壇へと駆け寄った。走っては危ないですと心配するサリーの声が後ろの方から聞こえた気がしたが、今の悠里には届かない。
二本の指で容易に摘めてしまうような小さな花を、上からも横からも下からも覗いては隅々まで観察する。
「茎は細い割にはしっかりとしてる。これはクレマチスなのかな。私の知ってるクレマチスと少し違うけど臭いもよく似てる。やっぱり世界も違えば花も違うのね。なるほどなるほど」
花壇の前にしゃがみこみながら、ブツブツ呟く。
実は悠里の趣味は園芸と家庭菜園で、あの小さなアパートのベランダにも多くの花やプチトマトなどの野菜を育てていた。
だから正直に白状すると。ルイーナの身体を必死に鍛えていたのは何もルイーナを助けるためだけにしていたわけじゃない。
ただ悠里は、この身体を丈夫にして庭に出たかったのだ。
部屋の窓から見えるのは庭の一部だけで、そのほとんどは木に隠れてしまっているし、部屋から出ることもつい先日までは許されていなかったため、ずっと庭の奥が気になっていたのだ。
そうして毎朝の頑張りが実って、やっと庭に出ることが叶ったのはほんの数日前。
中庭と呼ばれた庭園には人工的に造られた水路に橋がかかり、その奥には扇型の花壇がいくつかあって、その中では小さな花芽が春の到来を歓迎するかのように咲いていた。
この庭に足を踏み入れたその時の感動といったら、それはもう例えようがない。華美すぎず、賑やかすぎず、けれど華やかで静かで、居心地がいい。
こんな落ち着いた気持ちになったのは悠里がこの身体になって初めてのことだった。
だから天気のいい日は嬉しいと感じるし、庭に出ることが唯一の楽しみになった。
しかも今日は、前回見たときは蕾だった花が咲いてるのだ。沸き上がる興奮を抑えられなくて当然である。
「ルイーナ様。あの、ルイーナ様っ」
もっとよく見てみたいのに、サリーがさっきから少し焦ったように声をかけてくる。
「なに?」
無視することも出来ないので、花壇の前にしゃがんだまま振り返ると、サリーは何か言いたげに遠くの方へと視線を送っている。
「え?」
訳がわからなくて、首を傾けつつサリーの視線の先を見上げると、庭の奥の更に向こう側に城壁が見え、その二階の窓に二つの人影が見えた。
誰だろうと思いながらサリーをもう一度振り返ると、サリーが深々と頭を下げている。
ここからではよく相手の顔を見ることも叶わず、あの二人が誰なのか訊ける雰囲気でもなさそうだったので、とりあえず悠里も頭だけは下げておいた。
少し投げやりな軽い会釈になってしまったが、今はあの二人が誰なのかということよりも、この初めてお目にかかる白い花を鑑賞することの方が今の悠里にとっては大事だったのだ。
後々よく考えてみれば、あれが誰だったのか、もう少し頭を働かせていればすぐ分かったに違いない。
けれどこの時の悠里はその考えに至らず、サリーからも何も言われなかったしまあいいか、という安直な思いで、また白い花を眺めては微笑むのだった。
◇
「……なるほどな。珍しく剣稽古をしようなどと誘ってくるから何事かと思えば、コレを見せたかったわけか」
無表情で中庭を見下ろしていた男が、スッと目を細めた。
その視線の先には、蜂蜜色の髪をした女が花壇の前で何かしている。
「陛下。未来の奥方に向かって“コレ”というのは」
「王として相応しくない、か」
「そうは申しておりません。あなた様以外に王に相応しい者などおりません」
「それは、どうだろうな」
感情のこもらない声で吐き捨て、レイアードはその場を離れた。
そのすぐ後を側近の一人であるサイザックがついてくる。
金色に少し茶が混じる髪を撫で付けた壮年のサイザックは、先代王の時から側に仕えており、二十一歳という若さでレイアードが玉座についた後も、サイザックは一番近くでレイアードを支えた。親子ほど歳の離れたサイザックはレイアードにとって、よき相談役であり、よき指導者でもある。
「お待ちください。まだ話は終わっておりません」
「なんの話だ。今から剣稽古にいくのだろう」
「剣稽古など口実ですよ」
あっさり開き直ったサイザックに観念したレイアードは、進めていた歩みを止めた。
吐息してサイザックを見る。
「俺にどうしろと?」
「それはご自身でお考え下さい」
色々と口うるさいサイザックだが、決して己の考えを強制したりはしない。
何事においても、判断し命令を下すのはレイアードの方で、サイザックはそれに従う者。
だから問題は提示しても、答えは教えてはくれない。
他者から命令されて動く方が楽で簡単でいいのだが、レイアードはそれを許されない立場だ。
レイアードはまた吐息し、サイザックが望んでいるだろう言葉を口にする。
「サウローマーリーのアーサー王子が来るのはいつだ」
「十日後です」
「それまでに支度を整えさせろ。晩餐会に同行させる」
「御意」
レイアードは律儀に礼をとるサイザックを避けるようにその場を離れた。
その遠ざかる若き王の背中を無言で見つめるサイザック。
中庭からは明るく澄んだ声が響いていた。