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星船爪骨  作者: はじ
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(3)星船爪骨


 授業開始ぎりぎりに教室へと戻ってきた彼女を待っていたのは、刃物のように鋭い視線だった。彼女は俯いてその凶器を防ぎ、そそくさと自分の席へと座り、机のなかにしまった筆記用具や教科書、ノートを取り出そうとしたが、あるはずのそれらは見つからず、彼女の爪が空っぽの机の内側を引っかいた音だけがもれ出てきた。

 いつも同じミスばかり繰り返す学習能力のなさに嫌気を覚える彼女の周囲を、高小低大の笑い声が包む。机から顔を上げれば笑い声の主を探すことができるが、そうしてしまったら自らの敵と相対することになるので、彼女は顔を伏せて手の甲を弱く掻きながら授業が始まるのを待った。

 間もなくして教師がやって来て授業が始まる。彼女に向けられていた多くの意識が黒板へと向かい、乱れていた彼女の心が平静を取り戻す。手の甲をかいていた指を止め、伏せていた顔を上げて彼女も黒板を見つめる一員に加わる。

 教師の右手にある白いチョークが黒板をなぞり、その軌跡が言葉になって板面に記される。生徒たちはそれを見て、自らのノートに同様の言葉を書き写す。それをテスト前に見返して頭に刻む。刻んだそれらは答案用紙に書き出され、教師は紙面に綴られたそれらの言葉が自らの記したものと同様であるか確かめて正否の赤を入れる。

 同じ想いを抱えられたあなたには○を。

 異なる想いを抱いてしまったあなたには×を上げましょう。

 はい、○が欲しいです! ○が欲しいです! わたしも○が欲しいですが、○を得るためのノートとペンがありませんッ!

 仕方がないので肌に書く。○が欲しいです、とかく。残念ながらその解答は○×依然の問題なのだ。肌はノートではない、爪はペンではない。しかし、彼女のノートなんてずっと昔に燃やされてしまっているし、ペンはそれよりも前にいくつもいくつも折られている。もう彼女の身近に書くものなんて爪しか残されてなく、それを受け止めるものは肌しかない。

 彼女にとって掻くことは書くことであり、掻かなければ書けないのだ。

 彼女が書くために掻くためには痒みが必要となるが、それは生まれたときから病の形をとり彼女の肌に宿っていた。

 頭皮から足の甲までほとんど表皮を活動領域とする痒みは、気紛れな地虫のように神出鬼没で、うなじにいたかと思えば、太ももにおり、そうかと思えばヘソの下に現れた。その出現場所に法則性はなく、肌から顔を出せばその頭を爪で引き裂いて殺すという対処に彼女は幼い頃から追われていた。

 痒み自体は基本的にささやかなもので、一掻き二掻きすればおさまるが、血が煮えたぎるような怒りや激しい不安に襲われたときに限り、激烈な棘と鈍い毒を持って肌という肌に隈なく現れた。その痒みだけは数度掻いただけでは殺し切れず、幾度も幾度も爪を立て、浅黒い血液と黄色く粘ついた浸出液が滲み出ても掻き続けなければならなかった。

 激しく掻き毟り損傷した皮膚は火傷のような炎症を起こし、動く度に空気や衣類と擦れてじくじくとした嫌な痛みを寄越すので、彼女はなるべく感情を振れさせないよう日々を淡々と送ろうとする。しかし日常には感情を揺さぶる些細な出来事が蔓延っており、感化されないように冷静でいようとしても、彼女の感覚は敏感に反応し、気付けば人目をはばからず肌を掻き毟っていたことなどしょっちゅうだった。

 無自覚で肌を掻き毟る様子は周囲から見れば不気味この上なく、加えて火傷痕のような皮膚を見てしまえば近寄りがたくなる。《焼死体》《被爆者》といったあだ名を持つ彼女に学友などできるはずもなく、彼女は独り小説や漫画を読み、紙面で目まぐるしく展開する物語を模倣した妄想に耽って一日の余暇を潰した。

 しかしながらそのおかげで、彼女には物語をつくる能力が養われていった。通常であればそれらの物語は、ペンによってノートに記録されていくものなのだろうが、彼女の場合は違っていた。彼女が生み出す物語は肌に記されていった。

 彼女がそのことに気付いたのは、小学校高学年のことであった。台所で夕食をつくる母親を背にしながら、彼女は居間で《シャーマンキング》を読んでいた。《X-LAWS》の《アイアンメイデン・ジャンヌ》が持ち霊の《シャマシュ》で対戦相手の《ナイルズ》を処刑するというショッキングなシーンから思わず目をそらした彼女は、自らの前腕内側に掻き傷を発見する。片仮名の《メ》になっているその形状を見て、この傷が頬にできていたら《緋村剣心》と同じだ、と密かに喜んでいた彼女は、《メ》のすぐ下に平仮名の《し》を発見する。

 偶然生まれた《メ》と《し》という単純な文字の連続。それを偶々だと見逃すことができなかった。《メ》の上にある傷が《夕》と刻まれているように見えたからだ。そして、目を細めてさらに傷跡を追っていくと《夕メしのチャあハんハ》という文章になっているのであった。

《夕飯のチャーハンは》

 彼女は飛び跳ねるようにして台所にいる母親のもとに向かい、夕食を確認する。そこには素麺を茹でている母親がおり、チャーハンどころか米飯の気配すらなかった。

 予知能力に目覚めたとにわかに期待していた彼女は、残念がりながら居間に戻って《シャーマンキング》の続きを読むことにした。そのとき、無意識に手が動き、前腕の《夕メしのチャあハんハ》の辺りを掻いた。彼女は気に掛けずに漫画を読み、夕食の完成を告げられたので素麺を食べた。食後少しだけ漫画を読んで風呂に入ったときに、ようやく前腕にある《夕メしのチャあハんハ》の後に新たな文字が追加されていることに気が付いた。

 彼女は驚いたが、それよりも聖痕のように現れたその文章に魅了された。そこには現実を忘れさせてくれる面白おかしい物語や、個性豊かな登場人物は一切存在していなかったが、彼女が求めているものが確かに刻まれていた。

 肌に綴られていく文字たちは、植物が張る根のように日常生活を送っているといつのまに伸長しており、就寝前にその日一日に書き出された物語を読むことが彼女の楽しみになった。

 書き出される文章量は日によって変動していた。昨日は1287字だったが、その翌日は954字であったり、2802字であったり、0字であったりした。先の展開を少しでも多く読みたい彼女は、どうにかしてその量を増やせないかと、好きな作家の新作を心待ちにする読者のような心持ちで、落ち着きのない日々を過ごしていた。

 その心労は数日で払拭されることになる。ある日の休み時間、彼女がトイレから教室に帰ってくると、教科書、ノート、筆記用具、下敷き、ランドセルといった彼女の私物がまるで神隠しにあったかのように丸ごとなくなっていた。

 消しゴムや鉛筆の数本がなくなることは今までもあったが、ここまで大規模な消失は初めてで、机と椅子だけの痩せ細った姿になった自席の前で彼女はどうしていいものか狼狽えたまま立ち尽くしていた。

 やがて教室のどこかから聞こえてきた押し殺した笑い声で、すべてを察した彼女は、激しい怒りに襲われる。頭が真っ白になり、対して視界は真っ赤に染まり、その紅白で怒りの歌合戦をしたくなったが、彼女はまぶたをギュッと閉じて我慢した。

 目を開けたとき、彼女は保健室のベッドで寝かされていた。保健の先生から彼女が血まみれになるまで全身を掻き毟ったという話を聞いた彼女は、ふとあることを思い立ち保健の先生の目を盗んで腹部に巻かれた包帯を解いた。

 彼女の思った通り、肌には今までにないほどの膨大な文字が綴られていた。それを発見したとき、皮膚下に隈なく張り巡っていた怒りは、新たな物語を読める幸福で上書きされて収束し、彼女は白く清潔なシーツを血と浸出液で醜く汚しながら食い入るように物語を読んだ。

 その出来事によって、書き出される文章の量は感じた怒りの大きさに比例すると思った彼女は、さらなる怒りを求めた。初めは身近な家族の些細な言動に過剰に反応して怒りをあらわにした。話しかけてきた父親に怒鳴り返し、母親がつくった夕食をこんなの食べたくないと蹴飛ばした。その矛先は家族から離れてクラスメイトへと波及していった。物を隠されれば近くにいる無関係の子に毒づき、心配して声を掛けてきた担任にはお節介だと言い返した。道端であいさつしてきた見ず知らずの老婆には舌打ちで応戦し、公園の砂場で能天気に遊んでいた子どもに物陰から石を投げつけた。テレビの先にいる俳優や女優、アニメのキャラクター、大好きな《シャーマンキング》の主人公《麻倉葉》にすら苛立ちを覚えようと奮闘したがどうしてもそれだけはできず、好きなものに対しても怒りを覚えようとしてしまった歪んだ自分自身に最も怒りを感じるようになった。

 鏡に映った醜い自分の容姿に憎悪し、こんな腐ったみたいな見た目だから性格もひん曲がってしまったのだと罵詈雑言を吐き散らかした。今までしてしまった悪行の数々を壁に頭をぶつけながら謝罪し、壁面に額をこすり付けて嗚咽した。父親と母親のもとに自分なんかが生まれてしまったことを悔やみ、その贖罪にと彼らの視界には決して入らないように暮らした。もう自分が何で怒っているのか分からなくなっていたが、業火のような怒りが静まってから身体に刻まれている物語を読めば、それらすべての感情は鎮火した。

 自らに怒りを向けることで安定した量の文章を生み出せるようになった彼女は、文字をより読みやすくするため、爪を鋭く加工する工夫も凝らすようになっていく。そうして彼女の意識は、どうやって多くの物語を読むかではなく、どうやって多くの物語を書くかということへと移行する。緩やかに進行するその変移は、痒みを取り払う行為にそれ以上の意味を付与した。惨めだった自傷行為を創作という形で落とし込むことで肯定したのだ。

 そのようにして《掻く》ことに《書く》という意味合いが付加され、彼女は《読者》から《作者》になる。作者になった彼女は、無意識に文章をかくようなことがなくなった。書くときは、先の展開などを一旦頭で整理してから行うようにしたことで、彼女は掻くことをコントロールできるようになる。顔や首、指といった人目に付くような個所に痒みが現れた場合は我慢し、それ以外の洋服の下や頭皮といった目立ちにくいところに現れた痒みを取り除いた。

 自制的になれたことで目に見える場所の炎症はおさまっていき、彼女の外見は常人と同等になり前よりも少しは人が寄り付くようになった。

 人並みに平穏な生活を送れるようになったが、今度はまた別の問題が現れた。彼女は物語を誰かに読ませたいという欲求を抑えられなくなったのだ。しかし肌にびっしりと刻まれた赤い茨のような文章を見せれば、きっと相手は彼女を精神疾患だと思って逃げ出すか、そうでなくても逆上させないよう気を使った感想を述べるだけだろう。それでは意味がないのだ。彼女は物語に対する本音の感想を求めていた。

 例えばノートにペンで書くようにすれば読んでもらえるだろうか。真っ直ぐに伸びた鉛筆を生真面目にキリキリと尖らせ、皺ひとつない原稿用紙に綴った物語なら、人は受け入れてくれるだろうか。彼女はそう考えたが、《書く》と《掻く》が一連の動作となっている彼女にとって、もはやそれは彼女がかいたものとは言えなかった。

 ツメくんが彼女の物語を読んだのはそんな矢先のことだった。今まで誰にも読ませたことのない物語を初めて、しかも勝手に読まれ、心構えのできていなかった彼女は顔から火が出るほど恥ずかしかったが、それと同時に嬉しさも感じた。出来得るならばまた読んでもらいたい。そしてどうか感想が欲しい。昼休みのことを思い返しながらそう思っていたときのことだったので、突如として教室の扉を開けて入ってきたツメくんを見て、彼女は仰天せざるを得なかった。

 ツメくんはオドオドした様子で教室を見回し、三十余名いる生徒のなかから彼女を見つけると、まるで迷子が人ごみから母親を発見したかのように顔を和らげる。しかしその笑顔を見せてしまうことを恥ずかしく思ったのか、押し隠すように俯き、机の間を抜けて彼女のところへと歩み寄ってきた。

「よかった、見つかって」

 そう言ったはいいが、彼女は戸惑った様子で視線を左右に振るだけで、いつまで待っても返事をしなかった。無視されて少し傷付いたツメくんであったが、自分と彼女の関係性を思い出し、出しゃばり過ぎたこと反省する。

 登場人物は作者の意図しない行動に出てはいけないのだ。自らの軽率な言動に反省をあらわにしたツメくんであったが、湧き上がってくる欲求を堪えることができなかった。

「あの続きがどうしても読みたいんだ」

 ツメくんにそう言われた彼女は、表情には出さなかったものの嬉しくて仕方がなかった。自分の物語を人に読んでもらえることの嬉しさ、必要とされる快感は何ごとにも代えがたく、もしその言葉を一生言ってもらえるのなら、掻き続けることで皮膚が裂け、肉がこそげ、骨まで削れて消えてしまおうとも、その人のために物語をかき綴り続けたいと思った。

 彼女はツメくんの方へと顔を向けて深く頷き、ゆっくりと席から立ち上がる。黒板に向かっていた生徒たちの視線が、出し抜けに動き出した彼女に集まる。注目されることを好まない彼女であったが、不思議と気分は悪くなく平静でいることができた。

 どうしてだろうと考えるまでもなくツメくんが目に入る。このまま彼が傍にいてくれたのなら、わたしはもう何があっても大丈夫だ。そう思った彼女は、ツメくんの手を引いて教室から飛び出した。

 彼女が去った教室では、騒ぎ一つ起こることなく、教師が記した文字を写し取る作業が遥か未来まで続けられる。そんな事務的で下らない地点から彼女は駈け出す。独りではなくツメくんがいる。自分の物語を求めてくれる彼がいれば、もう彼女に必要なものなどなかった。

 彼女の自宅へと連れて行かれたツメくんは、彼女の部屋に入った瞬間、そのひりつくような空気に慄いた。

 そこにある何もかもがヤスリにかけられたかのように擦り切れていた。古びているとは違う、なにか切迫した神経のように今にもその場で崩壊してしまいそうな、そんな状態が意図的につくり出されたものばかりで構成されているのだ。

 尻込みしまったツメくんを余所に、彼女は自室をするりと横断して窓のカーテンを閉め、部屋から日光を追い出した。細かい布目に濾された陽光は微光となって部屋に染み入ろうとするが、それだけでは暗闇を取り払うことはできない。

 すべてが陰となったそのなかで彼女は制服を脱ぎ出す。首元のボタンを外し、さらにその下のボタンを外すと幼いスポーツブラジャーが顔を覗かせる。彼女は羽虫を払うような粗雑な手つきで残りのボタンを外して上着をはだけさせ、それをするりと脱ぎ落とす。羽毛の着地のような柔軟な音、視界の悪いなかでそれだけがツメくんの感覚に訴えかける。思わず身を竦めたツメくんに言い聞かせるように彼女はスカートのホックを、バチッ、と弾いて真っ白な下着を晒す。そして時間をかけてブラジャーを外して膨らみかけた乳房をあらわにし、下着を脱いで薄らと毛が生えた陰部をあらわにする。

 まだ発展途上の裸体を薄闇に浸した彼女は、佇立したままのツメくんをそのなかへと導いく。薄闇の中央へと連れて行かれたツメくんは、射し込んだ僅かな光だけを頼りにして物語を再び読み始める。それは未開の地を手探りで進む勇気を必要としたが、心許なげに差伸ばされた手を導いてくれる彼女がいてくれたので、安心してまぶたを閉じ、物語に没頭することができた。




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