(2)星船爪骨
今回も担任に選出されてツメくんは満足げであったが、担任による朗読は相変わらず嫌だった。そのため今後このような課題が出される度、ツメくんは見るからにやる気のないものを拵えて提出することに決めたのであった。
自らの能力の端くれに触れたものの、周囲に見せびらかすことを嫌って遠ざけたツメくん。それを契機に国語の授業がなによりも嫌いになり、詩や小説といったものから距離を取るようになった。
そうして時が過ぎ、ツメくんは中学二年生になる。詩や小説には相変わらず近寄ることなく、昼休みに友人たちが《はだしのゲン》や《カムイ伝》《どろろ》《ブラック・ジャック》《火の鳥》といった漫画を求めて図書室に入り浸るなか、ツメくんは書籍に囲まれることを拒み、屋上へと続く階段に一人座り、こっそり持ってきた《WALKMAN》で《ORANGE RANGE》を聴いていた。彼らが生み出す模倣の境界線の一歩先をいった剽窃という表現は、十四歳のツメくんを熱中させていた。先人たちが苦悩しながらつくり上げたものを軽いノリで大胆にかっさらっていく彼らは、とってもとってもクールな大泥棒だったのだ。
そんな中学生の悪のりのような音楽を聴きながらまどろんでいたツメくんの耳に、歪な異音がそっと忍び入る。それはツメくんが聴き入っている音とは異なる音質を有していて、思わず《WALKMAN》の停止ボタンを押し、耳からイヤフォンを外した。
辺りをきょろきょろと見回したが、下層へ向かう階段、その先の廊下にも人影はない。しかし音はのどかな昼休みを毒々しく侵略するようにしてどこかから響いてくる。ツメくんは耳の後ろに手を当てて音を集め、その出所を探る。どうやら音は、屋上から響いてきているようだった。
階段から立ち上がったツメくんは身を反転させ、屋上へと続く重い鉄扉を押し開ける。刈り取られた芝生のような緑色の屋上床。一歩踏み出すと照り返った日光が足元から襲いかかって瞳を焦がそうとする。ツメくんは目を細めて、音源を探る。音は鬼気迫る心臓音のように、病的な貧乏揺すりの正確無比さでツメくんを誘う。熱せられた床は上履きの裏ゴムを溶かして粘着させ、異なる星に来たかのように一歩一歩に重力を与える。
身体の節々に気だるい疲労感を覚えながら奥側へと進んでいくと、屋上を囲むフェンスの前に立って景色を望んでいる女子生徒を発見する。
夏季の衣替えを過ぎたのに冬用のセーラー服を身に付けた彼女は、田園に囲まれた校舎の遥か遠くで霞んでいる都心のビル群から吹き付ける熱風で髪を躍らせている。長くも短くもない髪は、後頭部の少し後方で波を打つ。波は風の形を視覚化し、髪は波の形で感情を示す。上に下に、空に地に、波動する心の流れの不均一さに憤りを感じているのか、彼女はセーラー服の両袖を肘までめくり上げて腕組みをし、十指を蠢かして二の腕を激しく掻き毟っていた。
その指先の爪は鉛筆のように鋭く尖り、肌に幾本もの赤い筋を刻み込む。ガ、ガガガ、ガガリガリ。壊れかけの機械のように鳴るその音が、ツメくんをここまで導いたのだ。
自らに潜むなにものかを爪で掻き出すような女子生徒の姿を見たツメくんは息を飲み、身震いをして横側から彼女に一歩近づく、二歩近づく、三歩目で彼女のすぐ側まで、さらに一歩で肌に接するその寸前まで近づいたが、彼女は一向にツメくんに気付く様子はなく、放心した表情で景色を眺めていた。
それをいいことにツメくんは彼女の腕に顔を寄せ、肌を掻くその様をつぶさに観察する。一つの爪が腕の湾曲に沿って走り、その跡に赤く一本の線が浮き上がる。それにまた別の爪の線が重なり、次第にそれは立体的な文字となる。彼女の肌に生まれていくその文字は、近隣に書かれたまた別の文字と結びつき文章となる。文章はそれを読むものの想像力を媒体として物語を形成し、人から人へと伝わりながら大気へとばら撒かれていく。冷気まとった朝靄から鈴虫鳴いた夏の夜半の果てに憂欝な吐息に快活な呼吸へと、大気に万遍なく広がった物語と現実を判別することは難しく、会話していた友人が物語の登場人物であったことや、平然とした顔で空中を浮遊する《芥川龍之介》の《トロッコ》が現れるなど、たった一つの物語で瓦解する現実の脆さを人々に露呈し、あまりの軟弱さに失望した人々は物語へと逃避した。そうして物語は人々に受け入れられ、緩やかに現実と混濁していった。
その世界では、毎朝乗る満員電車で連続殺人事件が発生し、それを解決するために駆り出される幼稚園児は流暢なンギヤンバー語を話す。その言語を通訳するために雇われたアボリジニの生き残りは、給金の低さを常々兄に訴えているが、そもそも彼には兄どころか家族すらおらず、それ以前に彼自体が存在していない。そのため、満員電車連続殺人事件の犯人を高々に指摘した幼稚園児の言葉は存在しなかったことになり、名声を得ることができず癇癪を起こした幼稚園児は母親と繋いだ手を放し、肩から下げた黄色いバッグからナイフを取り出して乗客の下腹部を刺して回る。乗客は次々に倒れ、血の海と化した車内で幼稚園児は再び犯人の名を叫ぶが、それは自分自身を示しており、そのことに絶望してうな垂れた幼稚園児の両手に母親がへその緒の手錠をかけて身動きを封じる。観念した幼稚園児は抵抗することなく、母親の股座から腹の檻のなかに戻り、そこで手記を執筆する。しかし、六年にも満たない人生しか生きていない彼が半生を振り返るにはまだ尚早で、綴られるのは想像によって生み出された人物の人生である。
その人物はまだ生まれていないので名はない。もしかしたらあるかもしれないが彼はまだ知らない。そして彼は生まれないので永久に自らの名は知らない。知らないものを知るためには調べるかつくり出すかしか選択肢はなく、子宮のなかには辞書が収まった本棚も、ネット回線もないのでググることもできない。そのため、彼にはつくり出す道しか残されていない。
創造の道を行くことにした彼は、自らに見合った様々な名前を考えたが、そのどれもしっくりとこなかった。それならば名前などいらないと、彼は名への執着を捨てる。しかし、それではいつまでも非存在のままであることに気付き、仕方なく《 》と空白を自らに与えた。
《 》となった彼であるが、確固とした名がなければ存在はできるものの生まれることはできないようで、外への進出を拒むように固く閉まった子宮口を前にして生まれることも完全に諦め、生温い羊水に浮きながらこの暗闇の先にある世界を想像することにした。
そこは現実に物語が浸食した不安定な世界。存在と非存在の境界が取り払われた世界で生きる人々は、自らが発する言葉に縋って生活していた。自分の口から放たれる言葉は嘘偽りのない本心であると信じ、そのようにすべての人々が本音だけを語り合えば、世界は徐々に安定した形状に回帰するはずだと信じて疑わなかった。
しかしながら、世界はいつまでたっても不安定なままであり、やがて人々の脳裏に諦観の念が過ぎり始める。そもそも世界は安定したものだという考えさえ揺さぶられ、人々は語らうことを止めて自らに根付いた言葉と対峙することを迫られていた。
「どうしてあなたはそんなにも無意味なんですか?」
京王百草園駅から多摩川のある北東へと少し歩いた住宅地、その手前にある自営業の喫茶店にたどり着いた言葉は、店員から差し出されたおしぼりでごしごしと顔を拭き、それを店員に返してからそう言った。
「不甲斐ないです」
そう返すことしかできないぼくは、おしぼりと一緒に出された水をのどに通して少しでも緊張から逃れようとする。しかし、対面に座った言葉はおしぼりで顔を拭ったはずなのに、むず痒そうなしかめっ面をこちらへ向け、高圧的に唇をとがらせた。
「わたしがいくら壮大で可憐であろうとしても、あなたが確りとしてくれないと、それもすべて、ただの見せかけに、虚飾になってしまうんですよ。いつまでもあなたがそんなふうならば、わたしもそろそろ限界ですよ」
「え、それは……」
「違う相方を探すということですよ」
まったく考えていなかったわけではないけど、いざ面と向かって言われてしまうとぼくは戸惑いを隠すことができず、弁解や反論どころか呼吸すらままならなくなる。言葉からするすると視線を下げ、テーブルの木目をじっと見つめる。水を飲んで落ち着こうにもさっき飲み干してしまったのでそれも叶わない。ぼくの視線をたどるようにしてグラスの飲み口に付いていた水滴が滑り、透明な輪郭を縁取りながらテーブルに着地する。その僅かな振動で、カランと氷が鳴った。その音よりも遥かに大きくぼくの心臓が鳴っていた。
「ほぅら、またいつものだんまりの始まり始まり」
ぼくの焦燥を茶化すように言葉がそう言い、くすくすと笑った。ぼくは手のひらの冷や汗をズボンで拭い、ちらっと上目で言葉の様子をうかがう。笑っている言葉の顔はもうぼくに向けられておらず、メニューに向かっていた。もしかしたら、この笑い声もぼくにではなく、メニューのなかに可笑しな品があり、それを笑っているだけなのかもしれない。
「ご注文はお決まりですか?」
やってきた店員に言葉は「パンケーキとアイスコーヒー」と告げる。
「以上でよろしいですか?」
店員はぼくの方を見ようともせず言葉にそう訊ね、言葉も言葉で「はい、以上です」とぼくの存在を完全に無視してそう言った。
沈黙はそのまま時として流れた。その空白を埋めようともせず黙ってしまったぼくに存在価値などないのかもしれない。
それは嫌だと思って何とか話題を捻り出して口にしようとするのだが、言葉はのどで詰まってしまい、舌だけが死に掛けた虫の足のように空しく口腔を掻いていた。
言葉はそんなぼくに目もくれることなく、店員が持ってきたアイスコーヒーを退屈そうに啜りながら窓先から見えるアスファルトの舗道を眺めていた。
十分ほどして薄暗い店の奥から店員がパンケーキを運んで来る。言葉は自分で注文したというのに大して嬉しくなさそうにそれを受け取り、面倒くさそうにフォークとナイフを手に取って食べ始めた。
ぼくは言葉の食事風景をずっと黙って眺めていた。言葉はまるで一人でこの店に来たかのようにぼくを無視し続けていた。
パンケーキ以下の存在になったぼくが、どんな言葉をかければ気を引けるだろう。どんな言葉を口にすれば、また物語ることができるだろう。どんな言葉になれば、もう一度小説を書けるだろう。
ぼくはそんなことを延々と考えながら、伝票を置いて店を出ていった言葉を見送る。テーブルの隅に残されたこの伝票だけが、ぼくと言葉を繋ぐ最後の証。そう思ってレジで料金を払う。
「818円になります」
どうやら言葉との関係は、千円札で繋げられるようだ、とそこまで読み終えたところで、ツメくんの額にふっと吐息がかかる。女子生徒の腕に書かれた文字を読むことを中断して顔を上げたツメくんの瞳と、彼女の瞳がびしりと合う、視線が衝突し、重なり合う。ツメくんは宵闇のようなその黒目に吸い込まれそうに、吸い込まれてしまいそうに、吸い込まれたくなる。
穿たれた底の見えない穴を縁からのぞき込む好奇心で、彼女に顔を寄せる。
近づけても、
もっと近づけても、
触れても、触れても、
その奥底は見えてこない。
ツメくんは知りたいと思う。
彼女のことを
彼女がかきだす物語のことを
「知りたいと思う」
その声でハッとして、我に返ると目前に男子生徒がいた。驚きを表情に出すよりも先に、自らが書き記している物語の主人公である《星船爪骨》が現前していることに彼女は言葉を失う。物語中で《星船爪骨》の容姿を詳細に描写したことはなかったが、この男子生徒は、自らが文字によって生み出したツメくんであるに違いない。そう確信した根拠は、彼女が作者であるからとしか言いようがない。
そして登場人物から、知りたいと思う、と言われた彼女は、ツメくんが物語の続きを早く知りたいのだと独り合点した。
登場人物の思いに応えるのが作者の勤めだと、爪を肌に突き刺したところで、青空にぽつんと浮いた雲を散らすようにチャイムが鳴り響き、昼休みの終わりを報せる。
その音で現実へと完全に連れ戻された彼女は、めくり上げていた袖を慌てて戻し、校内へと駈け戻っていった。
急いで走り去っていった彼女をツメくんは追いかけようとした。しかし、彼女と見つめ合った際に僅かだが知れた彼女の内面に、既に自分が小説の登場人物として存在していることの衝撃が大きすぎ、踏みだそうとした脚を硬直させてしまった。
チャイムの残響を耳の奥に感じながら、自分が小説内の登場人物、自分が他人によってつくられた存在であることを寂しく思ったツメくんであったが、たとえ現実の人物だとしても父親と母親という他人からつくられることに変わりないと思うと、そんなたいしたことじゃない、と開き直ることができ、脚の硬直もすぐに解けた。
動くようになった脚で彼女を追って校舎のなかに戻ったツメくんであったが、肝心の彼女の行方が分からない。チャイムが鳴ったということは、どこかの教室に戻ったのは確かなのだろうが、それがどこなのか分からない。仕方なくツメくんは虱潰しに教室をめぐることにした。