南の領地
その頃、サマークイーンとなったアニスは困り果てていた。
「どうしてなのっ?」
地下牢に入れられて、鉄格子をガタガタと揺らし、はしたない言葉で大声を張り上げた。
「叔父上っ、ここを開けてっ」
門番がうんざりした顔で息をつく。
「アニス王女、いい加減諦めてください」
「嫌よっ」
魔法を使おうと思ったが、南の領地を預かる叔父の力に太刀打ちできず、鉄格子には強力な魔力が張られてあった。
その時、足音がして目の前に叔父のグレインが怖い顔で立っていた。
彼は、アニスの父の弟にあたる。
まさか、南の領地に叔父がいたとは――。
「叔父上、ここから出して」
「お前が妖精の王にした罪を償うのであれば、出してやる」
アニスは南の領地へ入った瞬間から、叔父とこの口論をくり返してきた。
なぜ、叔父が全てを知っていたのか疑問だが、彼はローワンにかけた魔法を解けと言うのだ。
アニスは首を振った。
「わたしは間違ったことはしていないわ」
「お前の驕った考えは危険をはらんでいる。他人の問題に口出しするとは何事か」
アニスは目を吊り上げた。
「ローワンは罪深い男よ。浮気をくり返しラベンダーを苦しめたの。彼を罰して何が悪いの」
「アニス」
叔父は怒りを押し殺した声で言った。
「他人を罰するなど、よくもその口が言えたものだ」
アニスは黙った。
本当は分かっている。
しかし、ラベンダーの苦しみを考えると、どうしても許せなかった。
「反省するまでこの娘を出すな」
門番に命令すると叔父は階段を下りて行ってしまった。
アニスは、鉄格子をつかんだままうなだれた。
本当は、叔父に言われるまでもなく自分の行いに苦しめられていた。
なぜ、あんなひどいことができたのだろう。
アニスは、その場にしゃがみ込んで膝のあいだに顔をうずめた。
過去に戻れるのなら、戻って全てをやり直したい。
しかし、過去になど戻れるはずもなく、後悔の気持ちでいっぱいだ。
どこで道を踏み外してしまったのだろう。
アニスは、薄汚れてしまった自分のドレスを見た。
南へ来てから数カ月、ずっと牢屋に閉じ込められている。
皆、どうしただろう。ジョーンズに会いたい。
ラベンダーにお師匠さま、それに、扉はどうなったのだろう。
みじめな気持ちでいっぱいだった。
アニスは気力を奮い立たせ、もう一度、立ち上がった。
ローワンはどうしているだろう。
その時、自分が動物に変身した事を思い出した。
あの時、タンジーの魔法で、トカゲになったり凶暴な獣になったりした。
言葉も話せず人間の姿になりたいと何度、願ったか。
ローワンには最も憎んでいる動物になれ、と魔法をかけた。
アニスは思い出してから恐ろしさに震えた。
ローワンは今も恐怖を味わいながら生きているのだ。
手で口を覆うと、アニスは全身の力が抜けるのを感じた。
なんてことをしたのだろう。
ローワンはまだ生きているだろうか。
彼と共にいるシスルは大丈夫だろうか。
アニスはいても立ってもいられず、窓の方を向くと、石壁に向かって大きな円を描いた。
「破壊せよっ」
衝撃を与えたがびくともしない。
もう一度試してみたがダメだった。
一度、壁から離れて呼吸を整える。
フェンネルとの魔法の時間を思い出す。
どこかに魔法のつなぎ目があるはずだ。継ぎ目が見えれば、その部分を解くことができるかもしれない。
アニスは息をひそめそっと目を凝らした。
魔法は地下牢全体に張ってあるようだ。
その時、頬に微かな風を感じた。
石壁にわずかな穴が開いている。
アニスは、風を呼ぶ魔法の呪文を唱えた。
「スリッパリーエルム、力を貸して。風を呼び起こして」
南の領地には、たくさんの木々が生息し、アカニレの木も立派に葉をつけている。
アニスが呪文を唱えると木々が揺れて風がざわめいた。
「来るわ…」
アニスが壁から離れると、小さなつむじ風が突進してきた。
壁を打ち砕き、体が自由になったとたん、アニスは瞬時に空へ飛び出した。
だが、すぐに何かに両手をつかまれた。
「あっ」
悲鳴を上げると、叔父の使い魔である狐の精霊ベルが右腕を後ろからつかみ、鋭い目で睨んでいた。
「離してっ」
「アニス王女、あなたは許されない事をしました。グレイン様の元へお連れ致します」
「助けてっ」
アニスは悲鳴を上げたが、誰ひとり助けてくれる者などいなかった。
叔父の部屋へ連れて行かれ、ソファへ座ることも許されず、床にひざまずかされた。
「叔父上、どうしてこんなひどい事をするのですか?」
アニスが顔を上げると、グレインは見たこともないくらい険しい顔でこちらを見ていた。
「わたしがひどい事をしているのだと言うのであれば、それは、お前がしたことと思え」
また、ローワンの事で堂々巡りの話になる。
アニスは唇を噛んだ。
それを見てグレインは大きく息を吐いた。
「アニス」
呼ばれて顔を上げると、グレインの右手が振り下ろされた。
「お前がこの世で最も邪悪としている生き物となれ」
アニスの体に大きな力が加わり、息ができずに倒れた。
少しして目を開けると、自分の手は桃色の小さな四本指と灰色の薄毛が生えた小動物になっていた。
全てが巨大に見える。
自分の体を見て、どこかで見たことのある生き物だと思った。
とたん、アニスは、この世で最も嫌いな生き物であるネズミの姿に変身させられた事を知った。
恐ろしさとおぞましさに息ができなくなり失神した。
だが、すぐに水をかけられて目を覚ました。
――叔父上、どうか、許して下さい……。
アニスはびしょぬれのまま謝ったが、叔父の怒りを解くことはできなかった。
「これからお前には役割を果たしてもらう。南の領地に、結界と守りの呪文を全てかけるのだ。それができたら、お前はアニスの姿に戻れるだろう」
ネズミとなったアニスは、ぶるぶる震えながら涙を流した。
――できないっ。
「できないではなく、するのだ。今すぐにっ」
叔父は怖い顔でアニスを外へ放り出した。
草叢に放り出され、自分の手足も見えないほどの暗闇の中、アニスはうずくまった。
自分の意思で変身したのではなく、他人に魔法をかけられるほど恐ろしい事はなかった。
アニスは恐怖に震えていたが、そばにいる狐の精霊ベルが冷たい声を出した。
「アニス王女、何をしているのです。グレイン様に言われた通りすぐに結界を張るのです」
ベルが鼻先を押し付けて催促をする。
アニスは、小さな手で地面に五芒星を描いた。
そして、小走りで次の地点まで行き、同じように五芒星を描いた。
円周上の五芒星を中心から等距離にして九つ描くと、両手をついて呪文を唱えた。
――ハディト、ラフール、ケイビット、カオス、ババロン、ライラ、ペルデュラボー、エヌビット。
目隠しの呪文だ。
アニスの呪文によって魔法陣が光輝き、作動した。
アニスはこれまで魔法をうまく使えた事がなかった。
しかし、怖さのあまり集中していたのだろうか、強力な魔法陣が描けた気がした。
「それでよいのです」
ベルが真面目腐った顔で言ったが、アニスはまだ自分の体に慣れず、ネズミの姿であることを思い浮かべただけで吐き気がした。
「さあ、次へ行きましょう」
――あなたはどこまでついて来るの?
アニスの問いかけに、ベルが目を吊り上げた。
「あなたはいつ逃げ出すか分からない。完了するまでそばにいます」
――逃げたりしないわ。
「あなたを信じると思いますか?」
ベルの厳しい声にアニスは何も言い返せなかった。
自分の体に限界が来るまで、アニスは結界を張りながら走り続けた。
いつ眠らせてもらえるのだろう。
永遠に続くと思われた作業も、アニスが動けずに気を失っている間だけ休息を与えられた。
アニスは眠っている間にラベンダーの羽の夢を見た。
ラベンダーの美しい羽は、南の領地へついたとたん叔父に奪われた。
羽はどうなったのだろう。
夢にうなされ、アニスは目を覚ました。
自分の事で頭がいっぱいでラベンダーの羽のことを忘れていた。
顔を上げると、ベルが体を丸めてまだ休んでいた。
叔父の使い魔もなぜか一緒に野宿をして、片時もアニスから離れなかった。
――ベル。
アニスが声をかけると、精霊が目を開けた。
「起きたのですか」
――教えて、ラベンダーの羽はどうなったの?
ベルは一瞬、口を閉じて目を瞬かせたがすぐに答えた。
「グレイン様がしかるべき場所で保管しています」
――誰にも盗まれたりしないわよね。
「まさか」
ベルが眉をひそめた。
「厳重に魔法で守られています。なぜ、そんな不吉なことを突然聞くのですか」
――ちょっと胸騒ぎがしただけよ。
アニスはくたくたで思考がまとまらなかった。
ようやく起き上がると、前を向いた。
――領地は後どれくらいあるの?
「これから村へ行きます」
――村?
「南の領地には何ヵ所か村があります。民を守らなくては」
――そうね。
アニスはうつろな目を向けた。
果てしなく続く森の向こうには、おそらく人々が暮らす町や村があるのだろう。
それらをいくつ守れば自分は人間に戻れるのだろう。
今さら、ローワンにかけた魔法を解くなんて言えない。
言える状況ではなくなってしまった。
それもこれも自分で撒いた種だ。
アニスはよろよろと起き上がると走り始めた。
ベルが後を追う。
森のはずれまで同じように結界を張り、村へと続く道へ出た。
境界線に結界を張ってから、村の宿を境にアニスは村全部に目隠しの呪文を張ろうと思った。
動き始めたアニスを見て、ベルが顔をしかめた。
「王女、何をなさるのです」
――この村全体に目隠しの呪文を張るわ。
「無謀です。四分の一ずつにした方がよいでしょう」
ベルの言い分にアニスは一瞬、躊躇した。
自分ではうまくいくような気がしていたのだが、これまで反発をしてばかりいたので、素直に忠告を聞こうと思った。
――分かったわ。あなたの言うとおりにするわ。
アニスが素直に応じたので、ベルは少し驚いた顔をした。
「素直ですね」
アニスは答えずすでに五芒星を描くため走りだしていた。