謎の世界
カオルの胸は張り裂けそうなほど高鳴っていた。
なんてことだろう。あんなに憧れていた妖精の国へ自分は来てしまった。
その上――。
カオルは自分の手を見た。
透き通るような肌。
顔を見たい。
どんな顔をしているのだろう。
どうして自分だけが妖精の姿へと転生することができたのだろう。
謎に満ちた世界。
カオルは後ろを歩くアキオをちらりと見た。
彼はほとんどしゃべっていない。
不安を感じているのだろう。
どうして? こんなに素晴らしい世界へ来たのに、アキオはうれしくないのだろうか。
あの地獄から抜け出すことができたのだ。
カオルは何が起ころうと、この世界から還りたいとは思わなかった。
もし、アキオが還ると言いだしても、絶対にそれを阻止するつもりでいた。
その時、突然目の前に、灰色の城が現れた。
唖然として立ち止る。
こんなに壮大な城が建っていた事に今まで気付かなかった。
「アレイスター城には結界を張ってある。だから、外からは見えない」
「そうなのね…」
フェンネルの後をついて中へと入った。
カオルは結界の中と外の違いを肌で感じた。
それどころかその境目が見える。
後ろを振り向くと、魔法陣の文字まで見えた。
「見えているんだな」
フェンネルが言った。
どきりとして振り向くと、彼はじっとこちらを見ていた。
「ええ」
カオルは答えると、急ごう、とフェンネルが先を急いだ。
城の中は温かかった。
本で見たカントリーハウスと呼ばれる城だった。
通された部屋はロングギャラリーと呼ばれる場所で、高級な家具が置いてある。
二人は、柔らかいソファに座った。
アキオは茫然と部屋の中を見渡していた。
無理もない。
カオルたちの世界では鉄筋のコンクリートの床と壁だけだ。
木材の家具など見たこともない。イスもパイプイスだ。
ソファの柔らかさにうっとりする。
「アキオ、すごく柔らかいね」
「ああ。それに、いい匂いがする」
アキオが小さく答えた。
隣に座るアキオを見ていると、込み上げてくるものがあった。
「アキオがいてくれて本当によかった。助けに来てくれてありがとう」
お礼を言っていなかった事に気がついた。
アキオは首を振った。
「俺の方こそ…」
もごもごと言うアキオを見て、カオルは首を傾げた。
アキオはそれきり何も言わなかった。
その時、二人の前に置いてあるテーブルに湯気の出ている飲み物が置かれた。
茶色い液体に、嗅いだ事のない甘い匂いがしている。
「これは何?」
カオルが顔を上げると、金色の髪のほっそりとした美女が目の前にいた。
「こんにちは」
女性がほほ笑んだ。
「我がアレイスター城へようこそ、城主のローズ・アレイスターです」
ローズ・アレイスター。
カオルは、思わず彼女を見つめた。
ローズの瞳は、青空の色をしていた。
ぼんやりと見つめていると、ローズがふわりと笑った。
「疲れているのね、これを飲んで、おいしいわよ」
カオルは飲み物を手渡されて、そっと鼻を近づけた。
甘い匂い。
アキオもカップを手に取って匂いを嗅いでいる。
カオルは、異世界では物を口にしてはならない事を知っていた。
ファンタジーの本では妖精から与えられた物を食べると、二度と元の世界には戻れないとある。
しかし、この匂いを嗅いで飲まずにはいられない。
カオルは液体を口に含んだ。
鼻孔をくすぐる香ばしい匂いがして、口の中に広がる甘い味を一気に飲み干した。
「おいしいわっ」
カオルが顔を上げると、ローズが言った。
「これはココアよ」
ローズはにこにこ笑って二人の前に座った。
なんて、綺麗な人。
カオルは想像していたローズ・アレイスターと実物を見比べて、いかに自分の想像力がお粗末だったかを恥ずかしく思った。
「あの、ありがとうございます。おいしかったです」
「喜んでもらえてよかった。あなた方の事はフェンネルさまから聞きました。大変だったわね」
ローズは、カオルの手に優しく手を置いた。
すると、入り口近くに立っていたフェンネルが二人に近づいてきた。
「疲れているところ申し訳ないのだが、少し話がしたい」
「はい」
カオルが頷くと、アキオも同時に頷いた。
「君たちは未来から来たと言ったね。君ならもう分かったと思うが…」
カオルのに向かってフェンネルが言う。
カオルは頷いた。
なんとなくだが、フェンネルの言わんとすることが理解できた。
「わたしが知っている本では、19世紀中頃に冥界の扉が開いた事により、世界は一変してしまったとありました。そこで、双子のきょうだいが扉を閉じようとしたが、彼らは殺されて、扉は開いたまま時が過ぎた」
ドアのそばで寄り掛かっていたジョーンズが身を乗り出した。
「その記述は間違っている。なぜなら扉は開いたばかりで、アニスは生きているからだ」
「アニス王女が生きているのね」
カオルは興奮したようにソファから立ち上がった。
「わたしも手伝うわっ。お願い、ここに居させて、元の世界へ還れなんて言わないで、わたしはあの地獄には戻りたくないの。ここに居させてっ」
アキオは何も言わない。
カオルは手を合わせた。
フェンネルとジョーンズは決めていたのか、こくりと頷いた。
「君たちを危ない目に遭わせるわけにはいかない。だから、元の世界へ戻れとは言わないよ」
フェンネルが言った。
「未来の様子が分かった今、我々がしなくてはならないことは、何が何でも扉を閉じることだ。扉が閉じれば未来はきっと変わる」
「では、それまでここにいていいのね」
「君たちがよければ」
フェンネルの言葉にカオルは飛びあがらんばかりに喜んだ。
「アキオっ。アキオ、いいでしょ。ね、あんたも喜んでいるよね」
アキオの顔は硬く何を考えているのか、よく分からなかった。
「アキオっ」
「それで、かまいません……」
アキオは小さく震えていた。
「アキオ、大丈夫よ。わたしがそばにいるから」
カオルはそっと手を握った。
しかし、その手はするりと離れて、カオルは傷ついた。
「どうして?」
アキオはこちらを見てくれなかった。
カオルは唇を噛んだ。
涙が溢れそうになる。
「どうして? アキオ」
「君は俺の知っているカオルじゃない」
アキオの拒否に、カオルは胸が張り裂けそうだった。
「わたしはカオルよ。姿は変わっても、わたしは何も変わっていないの」
二人の様子を見ていたローズが、カオルの肩を優しく抱いた。
「少し休んだ方がいいわ。ね? お部屋に案内してあげるわ」
カオルを立たせて二人は部屋を出て行った。
残ったアキオは俯いているだけだった。
「大丈夫かい?」
ジョーンズがそばに寄って話しかけると、アキオは顔を上げて頷いた。
彼の顔色は悪く、気分も悪そうに見えた。
「気分でも悪いのかな?」
「あまりよくはありません」
アキオが力なく答える。
「さっきの飲み物はおいしかったけど、何だか体が変なんです」
フェンネルがそばに寄って顔色を窺った。
「異世界へ来た事で体がまだ受け付けていないんだろう。カオルはもともと妖精だったのか?」
「いいえ」
アキオは首を振った。
「俺たちはただの人間です。飛ぶことも魔法も使うこともできない。でも…」
アキオは唾を飲み込んだ。
「向こうで…カオルの涙が宝石のような粒になって、それが水たまりになったんです。俺はその水たまりの中から声を聞いたんです」
「声?」
ジョーンズが聞くと、アキオはふと二人を見た。
「信じてくれるんですか?」
「もちろんだよ」
ジョーンズが真剣に答える。
「中にお入り、と言ったんです」
フェンネルとジョーンズは顔を見合わせた。
「僕は何もしていない」
「分かっている」
フェンネルは頷いて、アキオに言った。
「君も休むのだ。疲れている」
「俺は…」
アキオがじっとフェンネルを見た。
「何もできません。無力な人間なんです。でも、カオルは違う。何か見えない力があるみたいだった。でも、俺には魔法も力も何も持っていないんです」
「君はカオルを助けたんだろう」
「助けたというか、彼女は誰とも歩み寄ろうとしない子でした。孤児で両親がいなかったので、俺の家族が彼女を拾って一緒に育てたんです。でも、カオルはいつも一人でいました。だから、俺は少しでも力になろうと思っていたんです」
「君はカオルのそばを離れるべきじゃない。そばにいてあげるだけで、きっと力になれると思うよ」
ジョーンズの言葉を聞いて、アキオが目を瞬かせた。
「君の力はカオルのそばにいてあげることだ。見えない力は誰の心にもある。だから、見える力に頼る必要なんかないんだよ」
「魔法がなくてもここにいてもいいんですか?」
フェンネルが肩を叩いた。
「魔力に頼らなくても、君の中にも何か力が存在している。君が何もないと思い込んでいるだけで、本当の力は引き出せないでいるのかもしれない。君は未来から来たと言った。我々の未来の人間であるならば、無力であるということはあり得ない」
アキオの目に力が宿った気がした。
「俺はここに残る限り、何か手伝いができたらと思っています」
ジョーンズが笑ってアキオの肩をぽんぽんと叩いた。
「ありがとうございました。俺たちを助けてくれて」
「当然だよ。今日はゆっくり休んで、明日からの事を話し合おう」
「はい」
アキオがしっかりと頷いた。