川
「衣笠薫、衣笠薫はいるか」
教壇から教師がいらいらした口調で怒鳴った。
成海暁生は、教師にばれないようにすばやく背後を見た。
今日は週に一度の登校日だが、薫の姿はない。
西暦2077年の今日、世界は混沌と化していた。
警察組織は壊滅。
今は黒い影組織に政治を奪われ、金のない一般人は奴隷扱いだ。
政府は貧乏人に労働を強いたが、一週間に一度だけ、未成年に勉強をさせる事にした。
知識のない人間をこれ以上増やさないためという理由だが、反発する者も多く、あちこちで戦争が勃発している。
集団行動も危険を伴うが、個人で動くともっと危ない。
先ほど、警戒警報が発令された。
薫は大丈夫だろうか。
同じエリア816の住人である彼女と共に育った暁生は、何かと彼女の面倒を見てきた。
――あいつ、どこに行ったんだろう…。
今すぐ教室を飛びだして探しに行きたいところだが、教師は鋭い目でこちらを見ている。
同じエリア区域の自分なら何か知っているだろう、という顔つきだ。
暁生は教師を睨み返した。
暁生は今年で17歳になる。
まだ、成長途中の彼だが身長は170センチを超えた。
栄養が十分に摂れないので痩せてはいたが、普段から重労働を強いられているため、筋力はしっかりついていた。
教師もやりあって勝てる相手ではないことを分かっているのだろう。
すぐに目を逸らして、次の生徒の名前を呼んだ。
結局、授業が始まっても薫は現れなかった。
長い授業を終えて教室を出た。
空を見ると、どこかで空襲が起きているのか、灰色の煙がもくもくと上がっている。
暁生は自分の腕に埋め込まれた手首の液晶を叩いた。
腕には、同じエリア区の住民がどこにいるかが分かる全地球測位システム(GPS)が埋め込まれているため、薫の居場所を探すことができる。
彼女の人権ナンバーは、暁生とひとつ違う51だ。
ナンバー51を検索にかけると、すぐに居場所が判明した。
彼女は『川』と呼ばれるエリア区域の境目にいた。
暁生は青ざめた。
『川』には逃げ場はない。
空襲で焼けたため建物もなく、人工で作られた葦と呼ばれる草が生えた場所だ。
何が潜んでいるか得体が知れない。
なぜ、こんな場所に。
暁生は顔をしかめて歩き出した。
急ぎ足で進むと時々、人が倒れている。
生きているのか死んでいるのか知らない。
立ち止まって確認などすると、自分も襲われる。
目的の場所にたどり着くと、葦はびっしりと生え、隣のエリアとの境界線に『川』が流れていた。
『川』の水はヘドロとなり、異臭を放っていた。
そこに薫は立っていた。
彼女の頬はすすけて黒く手から血が流れている。
「薫っ」
辺りを警戒しながら、暁生は近づいた。
「早く帰ろう」
「どうして来たの?」
薫は『川』を見つめたまま言った。
「何かあったのか?」
「いいえ、何も……。時々、一人でここに来るの。知らなかったでしょ」
「ああ」
暁生はいらいらした。
いつ、誰かが襲ってきてもおかしくない。
恐ろしくて足が震える。
「帰ろう」
「どこへ?」
「決まってるだろう。エリア――」
「816。わたしたちが暮らすエリアね」
薫はどうしてしまったのだろう。
暁生は、痩せている薫を見下ろした。
決して美人とは言えない。
背も低くて手首は折れそうなほど細く、眉毛も太い彼女は綺麗な顔に恵まれなかった。
顔の造作でいえば、暁生は綺麗な顔をしている。
幼い頃、何度も襲われそうになり、自分を守るために誰よりも強くならざるを得なかった。
薫は目立たない容貌をしているので、大人からの関心度は少なかった。
だからと言って、一人でウロウロするのは危険だ。
「薫、早く行こう」
「どうしていつも助けてくれるの?」
薫はいつもこの質問をする。
そして、こう聞くのだ。
「わたしが孤児だから。あなたのようにお母さんもお父さんもいない」
「ああそうだ。だから、俺はお前の兄きになってやる。何度も言ってるだろ」
「いらない」
薫はふいと顔を背けた。
「ここへ来るとお母さんとお父さんはどんな人だったのかなって思うの」
薫には、母親の記憶があるそうだ。
顔や声を覚えているなどではない。
ただ、母親と呼べる人がいた、というのだ。
「いい加減にしろ、早く行こう」
「わたしはここにいる」
「薫っ」
薫はなぜこんなに落ちついているのだろう。
暁生は胸騒ぎが収まらなかった。
この世界にいる限り、落ち着くという言葉は存在しない。
いつ襲われるか。
空から大砲が降ってくるか。
人々の諍い、暴力に巻き込まれるか、だ。
女なら尚更その恐怖に立ち向かわなくてはいけないのに。
しかし、薫は腫れぼったい一重の目で、ヘドロを睨みつけている。
「これが『川』と呼べる?」
「本物の川を見たことがあるのか」
「ないわ。けれど、本で読んだの。澄んだ美しい水の中にはたくさんの生き物が生息している。尾ひれのついた魚、長い手足を持つエビやカニや、緑の苔の生えた石の裏には無数の虫が隠れていて、蠢くの」
そう言って、薫は暁生の顔を見た。
彼女の顏は鼻がすりむけて血が出ていた。
「血が出ている。化膿するといけないから、帰ろう」
「あなたはそればかりね」
薫が笑った。
「わたしは大丈夫よ」
彼女は現実を見ていない。
本に取り憑かれているからだ。
絵本から辞書、活字と呼べるものは何でも読む。
特に大好きなのがファンタジー小説だ。
だが、この世界はファンタジー小説ではない。
まぎれもない、現実だ。
現実で生きろと暁生は何度も諭してきた。
しかし、薫はファンタジーの中で生きている。
「いつも思うの。わたしがヒーローならこんな世界を作らせないのに」
「薫っ」
しびれを切らした暁生が叫んだ。
びくっと薫が肩を揺らした時、暁生は背中を誰かに蹴られて、前につんのめった。
「暁生っ」
いつの間にか黒い戦闘服の男たちに囲まれていた。
銃のようなものを持っている。
薫の額に照準が向いていた。
「這いつくばれ」
くぐもった声が命令した。
薫は言うとおりに手を上げたまま地面に膝をついた。
――どうしよう……。大変な事になった。
薫は恐怖で胸がドキドキした。
横を見ると、黒い戦闘服の男が暁生の背中に足を乗せて彼を強く押しつぶしている。
背中がめきめきと音を立てた。
暁生のうめく声がした。
薫は震える声で叫んだ。
「か、彼は助けてください。わたしはどうなってもいいから」
懇願すると、黒い男が薫を蹴った。
「あっ」
薫はお腹を押さえて転がった。
殺される。
自分のせいだ。
暁生を巻き込んでしまった。
彼はどうして醜い私を助けようとするの?
「暁生…っ」
薫は涙を流した。
「やめて…、彼だけは、彼だけは助けて…」
暁生はうめきながら顔だけを薫の方へ向けた。
薫が泣いている。
暁生は目を見開いた。
薫が涙を流しているのを初めて見た。
薫の涙は美しく、透明な涙が次々と目から溢れだしている。
しかし、それは普通の涙じゃなかった。
彼女の目から透明な石のような物がこぼれ落ちていくのを見た。
薫の涙は地面に落ちるところころと転がった。
「暁生…」
薫が手を伸ばす。
暁生は、戦闘服の男などかまいもせず薫ににじり寄って手を握った。
「薫…」
「ごめんなさい…っ」
薫が叫び、二人で両手を握りしめた時、薫の涙が輝き始めた。
涙が小さな池のようになっていた。
――中へお入り。
暁生の耳に言葉が聞こえた。
咄嗟に暁生は薫を抱きしめると、涙でできた水たまりの中へ転がり込んだ。
戦闘服の男たちが一斉に銃を放った。
銃声が鳴り響く。
暁生の足に銃の弾がかすったが、何があっても絶対に離すまいと薫を強く抱きしめた。
二人はどんどんと落ちていった。
何が起きているのかわけが分からないまま、二人はそのまま落下を続けた。
そのうち、どしん、とどこかへと着地した。
鈍い痛みが二人を襲う。
二人の手が離れた。
暁生は頭を軽く打って、一瞬意識を失った。
しかし、すぐに痛みで目を覚ました。
「薫…?」
名前を呼ぶと、
「暁生…っ」
と、どこかで薫の声がした。
「薫、大丈夫か?」
「わたしは大丈夫よ」
しっかりした声に暁生はほっとした。
「どこにいるんだ?」
暁生は目を瞬かせた。
まぶしくて目が開けられない。
目をこすり眩しさに慣れてくると、ようやく目を開くことができた。
「薫…?」
暁生は周りの景色を見て、口をぽかんと開けた。
そこは見たこともない世界だった。
緑が生えている。
青い空があって、白い雲が見えた。
どこまでも青い空が広がっている。
建物もなく、草叢と大きく成長した木々が森の奥へと連なっていた。
暁生の暮らす場所は、灰色の雲に覆われた世界だ。
青い空など見たことない。
常に発達した雲に覆われて、太陽の光は地上へ届かなくなっていた。
年々気温が下がり、年中、真冬並みの寒さだ。
だが、ここは違った。
地面から温もりが感じられる。
あるはずのない太陽がある。
「ここは…」
暁生が呟くと、草叢から少女が出てきた。
「暁生っ」
少女を見て、暁生は目を見張った。
「だ、誰だっ」
「え?」
少女が立ち止まる。困惑した顔で手を伸ばした。
「どうしたの?」
暁生は首を振って後ずさりした。
見たこともないくらい美しい少女だった。
金色の髪に薄紫の目をしている。
「君は誰だ? 薫はどこに行ったんだ?」
「暁生、何言っているの? 薫はわたしよ」
「まさか…」
顔、形は全くの別人だったが、声は確かに薫のものだった。
「本当に薫なのか?」
暁生は信じられないでいた。
「でも、顔が違う」
「顔?」
少女が手を見て顔を触った。
本人も困惑した顔でいる。
暁生はごくりと喉を鳴らした。
「本当に薫?」
「ええ」
薫がこちらを見つめた。
そして、自分の手足を見つめて目を見開いた。
「何だか、私じゃないみたい…」
そう呟いた。
薫も信じられなかった。
手や体付きが自分のものとは思えないほど違っている。
浅黒かった手が白く滑らかな上に細い指先をしている。
顔を触ってみると、あばたの頬ではなくすべすべしていた。
「わたし…?」
顔を触ってから肩にかかる髪の毛を見ると、黒ではなく薄い金色をしていた。
暁生が信じられないのも無理はない。
自分でも信じられないのだ。
「暁生…」
彼はけがをしていた。
足首から血が出ている。
「ケガをしている。撃たれたのね」
薫は何か縛る物を探した。
自分の姿を見下ろし洋服の切れ端でもと思ったが、あいにく清潔な服装ではなかった。
「何かないかしら…」
薫は考えを巡らせた。
辺りは草がいっぱい生えている。
しかも、本物だ。
足元に薬草であるヨモギが生えているのに気付いた。
しかし、ヨモギでは銃創の処置などできない。
足首からの出血を止めるのが先だ。
見渡す木々には、葛とみられる葉が生い茂っていた。
葛の茎は丈夫で硬い。
薫は、葛の蔓を手で引きちぎった。
しゃがみ込んでいる暁生に近づき、動脈を抑えるように太ももの付け根を強く縛った。
暁生はうめいたが、薫をじっと見ていた。
「あ、ありがとう。本当に薫なのか?」
「ええ。わたしよ。でも、なぜ、あなたはそのままなの? どうしてわたしだけが転生したの?」
「転生?」
暁生が眉をひそめた。
「物語でいえばここは明らかに異世界。それは分かるよね」
「ああ」
暁生も信じられないのだろう。
薫は、息を吸い込んだ。
空気が甘い。
なんて、新鮮で気持ちがいいのだろう。
静けさの中に安らぎがある。
鳥の羽音を初めて耳にした。
昆虫の姿も見られる。
どれもこれも図鑑でしか見たことがなかった。
薫たちの世界では、人間は人工授精で管理されている。
自然妊娠によって生まれた人間もいるが、太陽が地上に届かなくなってからは、生き物は地上にはいない。
光合成の必要のない深海で生きる生物はいるが、鳥や昆虫、獣たちはいない。
光の届かない地球は、破滅へと向かっている。
「ここは地球じゃない、別の世界よ。なんて美しいの」
薫はうっとりと空を眺めた。
しかし、暁生は空を見上げる力もないのか、急にぐらりと体が傾いで両手をついた。
「暁生っ」
振り向くと、暁生は汗をかいてしゃがみ込んでいた。
「熱があるわ」
「大丈夫だよ。それより、すぐに還る方法を考えよう」
「ダメよ、ケガを先に治さないと」
暁生の肩を支えて歩きながら、薫はこの世界を好きになってしまっていた。
地上に土がある。
土の匂い。踏みしめた土と一緒に草の匂い。
暁生はよほど苦しいのか、顔をしかめて必死で歩いている。
「暁生、大丈夫よ。水を探すわ」
「どこにあるか分からないくせに」
「ええ」
でも、耳を澄ませて音を感じようと思った。
「ここは、何かに守られている…」
薫が呟いた。
その時、目の前に白い服の男性が立っていた。
まるで、私たちが来るのが分かっていたような顔をしていた。
※※※
ジョーンズ・グレイは改めて、フェンネルの底知れぬ意地悪に限界を感じていた。
アニス・テューダーと別れ別れになってから、幾月――。
すでに、数か月経っていたが、自分の魔力にいまいち自信を持てないでいた。
というか、フェンネルとの二人きりの修行に行き詰っていた。
ここ数日は魔法陣を描く練習をしているのだが、うまくできないでいる。
今回の目的は、ジョーンズの魔力の増幅が目的だ。
魔法陣にうまく七つの紋様を描けたし、呪文も間違えなかった。
それなのに自分に変化は起きない。
フェンネルが白い目で見ている。
「…なんですか?」
「それでも大魔法使いの末裔か?」
最近は名前まで省略されている。
「ええ、僕の先祖は、セント・ジョーンズ・ワートという最大の魔法使いだったようですね」
「はああ…」
フェンネルはため息をついた。
ジョーンズはむっとした。
今なら、アニスの苦労がよく理解できる。
「フェンネル、もっと弟子を労わりませんか、これでは僕のやる気がなくなってしまう」
「よく言うな」
フェンネルは形のよい眉をひそめた。
「お前の魔法陣は異世界への扉を開いたぞ」
「はっ?」
ジョーンズは耳を疑った。
「異世界の扉? 僕はそんな呪文を唱えた覚えはありませんが」
「スペルを間違っていた」
「まさか…」
何か変な生き物か、もしくは冥界の使者を召喚しまったのだろうか。
「来たぞ」
フェンネルが茂みの方へ顔を向けた。
ジョーンズは身構えた。
どうして、円陣の外から現れるのか。
「あの、どうして魔法陣の外なんですか?」
「お前の魔法陣は全く未熟だ。半径一キロメートル以内に渡って円陣は解放されていた」
「だったら、先に教えてください」
ジョーンズは頭を抱えた。
召喚された数はどれくらいいるのだろう。
「まあ、こんなに規模の大きい魔法陣を解放できた事は褒めよう。メランポードに吸い取られたのに、残った魔力は底知れぬようだ」
メランポードとは黒い魔女の名前で、変化する前はタンジーという名の黒い魔女見習いだった。
以前、ジョーンズは、タンジーの魔力に操られ彼女の虜になっていた。
ただの人間だったジョーンズは、祖父から受け継いでいた魔力をタンジーに全て奪われ、彼女の変身の手助けをしてしまった。
タンジーの名を出されると、心臓がズキズキする。
こうやってフェンネルは過去をねちねちとほじくり、意地悪をするのだ。
「過ちを忘れてはならぬ」
と、フェンネルは口癖のように言う。
茂みから現れたのは、二人の子供だった。
まだ、十代とみられ、一人は少年、もう一人は美しい妖精だった。
少年はこの辺では見かけない格好と顔付きをしていた。
「フェンネル…」
ジョーンズは不安になった。
まさか、自分が呼び寄せたのは異世界の子ども?
現れた二人を見て、フェンネルは特有の笑みを見せた。
「ふむ、面白いな」
妖精の少女は薄い金色の髪色に紫の瞳をしている。
鼻筋が通った綺麗な顔をしていた。
少年はケガをしており、少女に肩を支えられている。
少年もまた綺麗な顔をしていた。
黒髪に二重の目。痩せていたが、体力はありそうだ。
身長はもっと伸びるだろう、手足が長くすらりとしている。
二人はフェンネルとジョーンズを見て体を震わせた。
「心配しなくていい、我々は何もしないよ」
ジョーンズが話しかけたが、少年には通じなかったようだ。
しかし、少女が分かるわ……と呟いた。
「あなたの言葉が分かります。わたしの言葉は分かりますか?」
「君は妖精だろう?」
ジョーンズが言うと、少女は目を丸くした。
「わたしが妖精? 嘘っ」
フェンネルは少年に近づいた。
人を恐れるように頭を低くしている。
「ケガをしているね。見せなさい」
言葉が通じたか分からないが、少年は静かに頷いた。
彼の足元には血が広がっていた。
「暁生っ」
「静かにしなさい」
フェンネルがたしなめると、少女はこくりと頷いた。
少年は継ぎはぎだらけのズボンを履いており、めくると銃で撃たれた痕があった。
血は黒くなり、傷は化膿しかけている。
「ひどい…」
「大丈夫だよ、これくらい」
少年が言った。
ジョーンズは彼の言葉が分かった。
「この傷はどこで?」
二人は答えなかった。
フェンネルが、ジョーンズに傷を治すよう指示する。
傷を治す呪文は最初に教わった。
魔法使いは薬草をよく使う。
幸い、アレイスターの森にはたくさんの野草が植わってあった。
ジョーンズは傷を癒やす事を考えたが、彼の身なりを見て思いついた。
「この先に治癒の泉がある。そこで体を洗うといい」
フェンネルが何か言う前に、さっと少年を抱きかかえた。
「重くないの?」
少女がびっくりした顔をする。
「平気だよ。君は軽いね」
少年に言うと、彼は複雑な顔をしていた。
痩せている事に対して恥ずかしいと感じているのかもしれない。
泉まではすぐで、洋服のまま入るように勧めた。
「見たところ、君もケガをしている」
少女もまた、手や顔に擦り傷を負っていた。
お腹を押さえているところを見ると、ケガをしているように思われた。
「君も入るといい。名前は?」
少女が、少年の後について泉に入った。
二人は首まで泉に浸かると、ほうっとため息をついた。
「わたしは、薫。衣笠薫と言います」
「カオル? 変わった名前だね」
異国の名前だ。
「彼は暁生。成海暁生です」
「僕はジョーンズ・グレイ。彼はフェンネル。白い魔法使いだ」
「魔法使いっ」
カオルが泉の中で飛び跳ねた。
アキオの顔はこわばったままだ。
「不安そうな顔をしているね。大丈夫かい?」
アキオに言うと、彼は小さく頷いた。
視線だけは外さずにじっとこちらを見ていた。
二人が泉から上がると、カオルが呟いた。
「痛くないわ」
アキオの足の怪我も完治していた。
「すごいわ、なぜ?」
「この泉の力だ。僕は何もしていない」
ジョーンズが言うと、フェンネルは呆れて息を吐いた。
「わたしは君に、魔法で治すように頼んだんだが」
「いいじゃないですか、ケガも治った上に、体も綺麗になった方が彼らも喜ぶ」
フェンネルは肩をすくめただけだった。
ジョーンズは、二人の洋服を魔法で乾かした。
「ありがとう。魔法使いって本当に何でもできるのね」
薫が感動したように言った。
「何でもできるわけではないけど。ごめんよ、悪いのは僕なんだ」
「え?」
カオルが首を傾げた。
ジョーンズは、バツの悪い顔をした。
「僕が君たちを呼び寄せたのかもしれない。魔法が未熟だから」
「だったらすぐに俺たちを元の世界へ戻してください」
突然、アキオが言った。
「分かった。責任は取るよ」
「嫌よっ」
カオルの声にアキオがハッとしてそちらを見た。
「わたしは帰らない。あそこに戻ったら殺されるわ」
「どういうことだい?」
ジョーンズが聞くと、フェンネルは隣で首を振っている。
きっと、かかわるなという意味なんだろう。
しかし、ジョーンズは、彼らが傷だらけで現れた事が気になっていた。
「君たちはひどいケガをしていた。それと関係あるのかい?」
「ええ」
カオルはまくしたてるように説明を始めた。
話を聞いて、ジョーンズとフェンネルの顔付きが険しくなった。
「それは…そんなひどい状況は、このアレイスターでは有り得ない。君たちはどこから来たんだ…」
ジョーンズが茫然と言うと、カオルが答えた。
「わたしたちは2077年の世界から来ました」
カオルの言葉にアキオが驚いた顔で彼女を見ている。
「2077年?」
フェンネルが険しい顔で、二人を見てから大きくため息をついた。
「未来から来たんだな。そうか…」
ジョーンズは二人を見て悟った。
「冥界の扉は開いたままなんだ。それで、未来は絶望へと向かっている」
「そのようだ…」
「どういう事?」
カオルが怪訝な顔をした。
ジョーンズは説明すべきか迷った。
しかし、二人が疲れている様子を見て、一度、城へ戻ることにした。
「カオル、そして、アキオ。疲れただろう。アレイスター城へ案内しよう」
「アレイスター城っ」
カオルが目を見開いた。
「知っているのか?」
「ええ、本で見たの。実際にあるのね。という事はここは1870年代」
「1877年だ」
ジョーンズが言った。
「わたしたち200年前に来ているのね」
カオルの目が輝いた。
「アレイスター城主は誰なの?」
「今は、ローズがアレイスターの城主となっている」
「ローズ。悪魔のローズ・アレイスター」
「悪魔のローズ?」
ジョーンズがぎょっとした顔をした。
「ローズ姫は、世界を混乱に招いた女王として記録に残っていたけど」
「何かの間違いじゃ…。ローズは魔法を使うこともできない、おとなしい姫だよ」
「そうなの? 現実と記録は違うのね」
カオルはわくわくした顔でアキオを見た。
アキオは答えない。
「とにかく、城へ戻ろう」
フェンネルが息をついて言った。