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Ⅰ 〜優しかったあの人〜

―ローズマリー―


それはスパイスの効いた、西洋の野原の香ばしい香り。今日もテーブルにはそのささやきが満ちる。

でも私はそれが嫌いだ。

確かにその香ばしさは私の心に安らぎを与えてくれる。だが、それと同時にあの思い出も、私は思い出す。

そう、今の夫と出会う前―私の、死体のように腐ったその人生―を―。



私の前の夫は優しい人だった。いつも仕事で疲れていても、私の家事や子育てを全力で手伝ってくれる。そんな人だった。…なのに、あの日だけは違った。

「おいっ、瑞樹(ミズキ)!お前、他の男と付き合ってるんじゃねぇだろうなぁっ!」

酒に酔った彼は、私にそう言って勢いよく顔を拳で殴った。私にはそんなことは身に覚えがなかった。私は痛みをこらえながら答える。

「いっ…いえっ…、そんなっ……こと…………は…無い……わ……。」

「嘘を言うなっ!俺にはっ、そんなことお見通しなんだよっ!ええっ?!」

今度はお腹を蹴ってきた。中には第2子がいた。そんなこともお構いなしに、彼は私に暴力という暴力を加え続けていた。

「ちがっ…、違う…!…あぁっ!」

彼はその四肢を私にぶつけることを止めようとはしなかった。むしろエスカレートしていた。向こうでは四歳の長女が大泣きしている。大泣きしたいのは、むしろこちらだというのに。

「シラを切っても無駄なんだよぉっ、無駄ぁっ!」

ついに顔を踏みつけてかかとを立ててグリグリと私の頭に食い込ませた。

「ヒデちゃん…、ヒデちゃん…!もうっ…やめて…!」

私は気づけば泣いていた。大粒の涙が、知らぬ間に床に落ちて、所々赤くなっていた。

「パパ!パパ!もうやめて!ママをいじめないで!」

娘が彼の足元に抱きついて必死の訴えをするが、そんなものはお構い無し。彼は私への制裁を止めなかった。

「瑞樹ぃっ!お前は俺に嘘をついたぁっ!ここからさっさと出て行けぇっ!」

そう言って彼は私の胸ぐらを掴み、そのまま玄関の外へ放り出し、とどめに一蹴り入れてから、ドアを閉めた。私はその後に気を失ってしまったが、最後に「カチャン」という歯車の音を聞いたのだった…。それは、土砂降りの叩きつけられた、雷の夜だった。

「ヒデ…ちゃん…。」



「…気がついたかい?」

次の日、目が覚めたら私は実家にいた。と言っても、その実家とは同じ市内であった。その目の前には馴染みのある父の顔があった。

私の父がたまたま家を通り掛かったときに、倒れている私を見つけてくれたらしい。家の鍵は閉まっていて、仕方なくボロボロの私を車に載せて実家まで運んだのだという。

「何があったんだい?」

子供をあやすような声で、父が私に問いかけた。私は長い間父に男手1つで育てられてきていて、いつも父の言葉達が私の支えだった。


私の母は、私が10の時に、突然この世を去った。ローズマリーや向日葵の花束に包まれて、母の遺体は焼かれていった。その時の香りも別れの苦しみを和らげるはずだったが、私にはそんな香りなど、鼻に入る訳もなかった。


「…えっ、えっと…、実はね…。」

私は話した。

昨夜のことを。

優しかった旦那の急変を。心と身体に受けた多くの傷達のことも。何も抵抗することもできずに、一方的に潰されたということも…。

「…そうか。なら瑞樹、ウチで休んでいきな。まぁ、柚樹(ユズキ)の事が心配だろうが、仕方ないよ…。瑞樹が今は休まないとだよ。」

暖かな父の言葉。あの頃と変わらない、二人堪え忍んでいたあの頃と変わらない私の柱。涙はもう出なかった。けど、きっと私の顔は安堵と感謝でくしゃくしゃになっていたはず…。



しばらく日が経つと、ヒデちゃんが車に乗って私の実家にやって来た。なかなか家に戻らない私を心配したのだろう。でも、私にはそのエンジンの音がたまらなく不快だった。

「瑞樹っ、この前はごめん…。」

ドアを開けて彼は叫んだ。

「今さらお前は何をしにきた!」

父が怒りの声を上げる。

「お義父さん、落ち着いてください!私は瑞樹にっ…、瑞樹に謝りに来たわけで…!」

私にはどうしたらいいか分からなかった。優しい彼が戻ってきてくれた。けど、怖かった。あの日の暴力的な彼が戻ってくるのではないか。私はそう思っていた。二人のヒデちゃんが、私の頭の中で1つに重なった。そしてそのまま二人は溶けていき、また一つの彼の姿となった。

だから、私は決心した。



二人の言い争いはまだ続いていた。彼はなかなか引かないらしい。父の顔はいつも見ぬ赤さを帯びていた。

私は深呼吸を1つして、二人の間に飛び込んだ。

「二人ともやめて!」

二人は唖然としていた。争いの元となった私が、予期なく争いを止めたということは、父もヒデちゃんも驚いていた。

「ヒデちゃん、貴方の謝罪への意欲はよく分かりました。」

この時の彼の顔といったら、まるで指輪に付いたダイヤモンドのようだった。そんな目をされたら、私は許さないわけにはいかない。そう思わざるを得なかった。けれども、私の決意は強く、そして残酷なものであった。

「でも、私は貴方と離婚します。」

「っ…?!」

彼も父も目が点になった。

「確かに貴方は優しい。けど、あの日の貴方は違った。私はそれが怖かった。だから、今の穏やかな貴方を見ても、不安しかないのです。殴られる、蹴られる、殺される、そんな不安しか、私にはないのです。」

静かに、怒りと恨みを込めて私は彼に言葉をぶつけた。ヒデちゃんは震えていた。自分の両手を前に出してそれを震えながら目を見開いて見ていた。

そして、最後に私は、

「さようなら、ヒデちゃん…いや、シキシマヒデオさん…。」

こう結んだ。

するとどうだろうか、彼の顔は悲しみから怒りへと瞬時に変わり、私の顔を殴り、倒した。

「瑞樹っ…、瑞樹っ…!俺はお前を愛している。なのにっ、なのにっ…、お前は…俺を裏切った!俺を裏切って離婚しようとした…!」

無茶苦茶だ。彼の行為が私のこの答えを導いたというのに…。あぁ、彼はもう私の知るヒデオではない。すると、父が鬼の形相でヒデオに向かい、腹を殴り付けた。

「…んうっ…?!」

「お父さん?!」

「…お前は、そうやって瑞樹を潰すのか…!暴力を使うだけでなく、悔いることもしないとは…!出てけ!さっさとここから出てけ!」

父に威嚇をされたヒデオは、すぐさま逃げた。



その後の離婚協議の結果、 私が親権を負い、柚樹を引き取った。生活の拠点は父の家。

その時、実はヒデオからプレゼントがあったのだ。私は腹立たしくて、その箱を潰して捨てた。気づけばゴミ箱からは心地よい香り、ローズマリーの思い出が私の鼻に流れ込んできた。


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