籠の中の願い
廓詞なんかわかりません。
賑やかな三味線の音律に女の歌声。それらは全て広い座敷に運ばれ、金に輝く月を見つめる女の耳へと届いた。
右手に持つ煙管を艶やかな紅を注した唇にくわえ、煙を肺に満たす。ふっ、と白い煙を吐き出した。
それは細い線を空中に描き、儚く掻き消える。
「……今日は明るいお月さんやなぁ」
静寂に包まれるこの部屋に居るのは女1人だけ。つい、故郷の言の葉が零れて落ちた。
すでに口に馴染んだ廓詞も、この束の間の一時には野暮な音。下ではせかせかと、遣手や新造達が行き交っている。
もうすぐで、女を求める客がやって来るだろう。
女は黒曜石の瞳を伏せ、自嘲の笑みを浮かべた。
(この時間が、永遠に続いたらどんなにええか)
女は幼少の頃から、ありとあらゆる教養や芸事をその身体に叩き込まれた。そのお陰で、今は格の高い花魁の座に居るわけだが、やはり年頃。普通の娘の様にとはいかないなれど、それなりの事はしてみたい。
恋や他愛ない友人との会話という、なんてことない普通の事を、女は経験したことがなかった。
ずっと、遊廓という名の狭い籠の中で暮らしてきた女は、外の世界に恋するばかりだ。
綺麗な着物に美食、数えきれぬ程の金に美しい簪。どれも、女の心は満たせぬがらくたばかり。
権力や喉から手が出る程の珍しい宝でも、女からすれば価値の無い物。
我が儘といえばそれでお終いだが、女はそんな物では満足出来ない。
ただ、人の持つ“愛情”が欲しかった。
確かに何人もの男が己を求め、多額の金を積み、女の元へやって来た。だが、それは愛ではないことを知っている。
いつか、女を……花魁ではない自分を求めてくれる男に出逢いたい。
そんな夢の様な事を思い浮かべながら、また1つ煙を吸った。
その時、障子がすすっと静かに横に滑る。すると、禿の珠緒が可愛らしい顔を見せた。
「雪桜さん、お客様がいらっしゃりんす」
たどたどしい廓の詞を、女……花魁雪桜に告げる。雪桜はおもむろに立ち上がり、今行くと返した。
華麗な鳥の模様が踊る深紅の着物を引きずり、客の待つ座敷へと足を向けた。
彼女の儚い願いは、今宵も三味線と歌に紛れて消えるのだ――
続きそで続かない。