隣界法話
短編日常ホラーです。凄く淡々と進みます。
林倉村は山間の小さな盆地に位置する小さな村であった。
世帯数は僅かに百二十程度、人口は僅か三百人と多くは無く、村の機能も最低限しか維持されていない。
村は決して外部から孤立しているわけではないが、村への入り口は一本しかなく、不便もいいところであった。その村への道も決して広いものではない。何十年か前に村へのトンネルを通そうという計画があったが、計画に必要な資金が集まることなく立ち消えとなった。
村にある小学校は小さく、常勤の教員も僅か数人。全校児童は十人にも満たない。中学生以上になると隣町にスクールバスに乗って通学することとなる。数年もすれば村の学校も廃校になっているかもしれない。流石に老朽化が激しいこの建物は立て直しを考えられているが、村で毎年の議題になるだけであり、具体的な話は進んでいない。
林倉村は夏暑く、冬寒い。村を貫く大河から風が吹き抜けるため夏はまだ過ごしやすいものの、川沿いの県道を歩けばすぐに汗が噴き出る。真夏には熱せられた路面に陽炎が立ち、遠くの景色を歪ませるほどだった。冬が深くなると雪も積もり、毎年の雪下ろしで腰や足を骨折する人物は後を絶たない。更に冬になると県道は狭く、川沿いで急カーブも多いこの村は事故が頻発した。事故は何も車両に限った話ではない。
だが秋にはとても美しい光景が広がる。農地が多いこの村は、秋になると山肌に連なる棚田が黄金の海へと変わった。
暮らしづらい村。
それがこの村に住まう若者の正直な感想であった。
「ああ……っちぃ……」
夏の日差しは正に殺人的であった。
谷底を通る大きな河から運ばれてくる風は、涼しさ以上に熱気を孕んでおり、直射日光下では不快指数を高める以上の役に立たない。アスファルトで舗装された道路は必要以上の熱を感じ、一歩歩く毎に靴底が溶けて道路にくっつくような錯覚を覚える。
「バス、俺の家の前まで来てくれねぇかなぁ」
「ああ、バスの中涼しかったな……」
日差しの下を歩く二人の少年は項垂れるように歩いていく。灼熱の日差しに焼かれているものの、二人の表情は晴れやかだった。揃いの学生鞄は、やはり同じく薄く、軽そうだった。
「あー……来週が今から怖いなぁ。赤点は一個も無いと思うんだけど……」
「カバディ部の予選はいつからだっけ?」
「二十二日。県予選までは行けりゃいいんだが。今年はスーパールーキーも入って選手層も厚くなったからな」
「海城だったっけ? アイツ、体格いいよな。バスケ部にはいりゃよかったのに……つーか、お前はどうなんだよ。今年が最後だろ」
「レギュラーから外れる心配が無いのがマイナー競技のいいところだと思わんかね」
「情けねぇことをキリっとした顔で言うなよ」
からから笑いながら学生たちは汗の噴き出る道をゆっくりと歩いていく。
視線を唯一舗装された道路から外せば、目に優しい緑の田園が視界一杯に広がった。その中を麦わら帽子をかぶった大人たちが歩いていた。手を振ると、振り返してくれる。狭い田舎の村では全員が顔見知りに等しかった。
「今年も祭りの時期だな」
「十歳になった奴誰かいたか? あー、崎村ンところの、今年で十歳だっけ」
「後は笛吹さんのところも」
「二人かぁ……ご馳走……にはならんなぁ」
少なくなったなぁ、とぼやき、軽く伸びをした。彼らの同年がこの村にどれほどいるか、とは考えなかった。
「あ、いや、そういや去年引っ越してきた」
「ああ、えっと……千羽さんだ。ん、確か将君だっけ? 今年十歳だったか?」
「そうそう。これで三人。今年はご馳走だぜ」
「……高校生になって金ってものに敏感になったよね。バイトとかしてるやつがいるからかな……」
「あんま言うな」
「俺も最新ゲーム欲しいよぉ」
「……動画でいいじゃんか……」
「俺も遊びたいって思うんだよ」
二人はけらけらと笑い、何でもないように自宅へと戻っていく。田舎の村は暮らしづらいが、外の事を知りながら、二人は決してこの村の暮らしを嫌っていなかった。
それはこの村の朴訥さが理由でもあるし、和やかさが理由でもある。村に住まう者達は誰もが優しく、誰もが助け合って生きていた。
山の一部が切り開かれ、朱塗りの巨大な鳥居が見える。奥には石造りの階段が続いており、神社がある。
鳥居の前には薄汚れた手水鉢がある。清掃は毎日されている筈だが、雨ざらしになって久しいそれはこびり付いた苔や、欠けが目立った。吐水口の龍も欠けが目立つ。
だが中に溜まった水は奇妙に綺麗であった。虫の一匹さえ浮かんでいない。二人の少年はその水をなんの躊躇もなく掬い、汗にまみれた手を洗う。そしてから何事も無かったかのように、再び道を歩き始めた。日光は未だその陰りを見せない。
《夏には三人いた》
千羽武幸は四十一歳。働き盛りの年齢であった。彼が妻と一人息子と共に林倉村に来たのは会社から下された辞令が原因だった。
勤務先である白蛇殿互助会における彼の立場は、決して高いものではない。だが二十五の頃から続けて来た彼には相応の実績があり、周囲の信頼も厚い。林倉村に新たな会館を建てるにあたり、その館長の候補として武幸に白羽の矢が立った。
引っ越しにあたり、妻の楓とは当然のように揉めた。だが最終的には楓の側が折れ、一人息子の将と共に移住した。
住めば都とは正にこのことで、一年経った今ではすっかり村に馴染んでいる。村に住まう誰もが余所者を排除することはなく、むしろ積極的に受け入れてくれた。
人口三百人程度の村に新たな葬祭会館を建てるという話を、武幸自身は訝しく思っていた。だが会館の建設には村民からの後押しもあったらしい。
祭りの席でその話を聞いたおt頃、昔からあった葬祭施設は施設の老朽化もあり、取り壊しが検討されていたのだという。その折に白蛇殿互助会からの話があり、村人たちは快く受け入れた。林倉村だけではなく、山を隔てた周辺地域も営業圏としている。
納得の話だった。白蛇殿互助会はしっかりと下調べをしたのだな、と自らが務める会社に感心もした。その割には勤務体系については全く考えてくれないんですよ、とその場で愚痴をこぼすと、周りからは笑いが零れた。尚、会館に務めるのは武幸を含めて僅か五名であった。館長と言えば聞こえはいいが、健康とは縁遠い日々を送っている。
稼ぎが増えたのが救いだが、田舎の村ではそれほど使うことも無い。一人息子の将来の貯蓄として溜めているが、時々無性に旅行などに行きたくなる。葬祭業はまとまった休みがとりづらいのが悩みであった。誰にとっても、死は突然訪れるものに他ならない。
「武幸さん。白蛇殿互助会、今年は夏祭りの手伝いも頼むよ」
「ええ、勿論。年末と同じく会館も開けさせてもらいますよ」
武幸は村民の言葉に快く応じた。葬祭業は地域の者と仲良くやっていかねばならない。葬祭業はそれほど万人に好まれる仕事ではないからだ。特に、こういった田舎の村では。今でこそ快く受け入れられているが、人の死とは常に悲嘆にくれる出来事であり、万人が望まないものであった。
そういった義務感もあったが、武幸自身もこの村の人々とは個人的に仲良くしたいと考えていた。誰もが優しいこの村のことを、彼自身は非常に気に入っていた。
「今年の祭礼、うちの息子も参加しますからね。多少色付けさせていただきますよ。具体的にはビールを増やしますし、子供たちのお菓子もこちらで用意させてもらいます」
「それはありがたい。ああ……それと食事の注文をしたいんだが、ほれ、三谷さん家の葬儀で広くやったろう。あの時の食事が旨くてね」
「ああ、ウチの仕出しに? いや……高いですが、大丈夫ですか……?」
葬儀に食事は欠かせないものだった。その為、白蛇殿互助会は専用の仕出し店と契約をしている。食事は高価なものが多いが、その分味は保証された。
「あー……多少割引利かんかね」
「申し訳ない。食事に関しては値引きがないんですよねぇ……」
「そうか。まあしょうがないな。人数に関しては村中集まるから、また詳しく出そう。カタログ、あるかい?」
「はい。すぐにお持ちします」
武幸は応じて、事務所内に戻り、すぐにカタログを取り出した。薄いカタログは今年更新された最新ものだった。それを渡すと、村民はお礼を言って去っていく。
事務所はすぐに元の雰囲気をとり度した。現在、武幸を含めて三人しかいない。二人は休みだった。片方は定休だが、もう片方は今年の暑さで体調を崩している。白蛇殿互助会は空調が利いており、盛夏の最中であっても快適に過ごせるものの、外部との温度差という敵は容赦なく襲い掛かってくる。休憩も定期的にとれればいいのだが、業務上、定期的な休み時間というものも難しかった。
「……食事って普通に注文できるんですね」
「ん? ああ。……別に葬儀に限った話じゃないからな、食事ってのは」
「でも、結構高いですよね……」
「……それはまぁ、そうだな。正直、祭りの食事ならここで頼まない方が良いかも、とは思うんだが……」
「來山君、食事注文してみる? 多分仕出ししてくれるよ」
「うわー……最低でも三千円でしたよね……普通に焼肉でも食べに行きたいですね……」
來山と呼ばれた男性はまだ若かった。今年で二十八歳。苦笑気味に応じた顔には、夏の暑さのせいか、怠さが滲み出ている。制服として与えられたネクタイを締めてはいるが、上のジャケットは脱いでいた。事務所の椅子に腰かけて、眠そうに携帯端末を弄っている。
今現在、白蛇殿互助会は暇だった。十室ある霊安室には三人しか安置されておらず(來山は霊安室を『世界最低のカプセルホテル』等と評したことがある。怒られた。)、眠っているのは皆隣町の住人で、お参りに来る人たちもいない。葬儀の予定は今日から三日間は入っていないし、急な仕事以外に予定はない。
暇な時間というものは得難いものであったが、目的もなく待っていなければならないというのは苦痛だった。その為白蛇殿互助会はこういった暇な時間、適当に過ごしていい事と決めている。とはいえこれは林倉村支店限定かもしれなかった。少なくとも武幸が過ごしていた他の会館では、暇な時間に携帯端末を使ってよい、と大々的には公表していない。
「それじゃあ金子さん、ビールとお菓子頼んでおいてくれるかな。食事については決まったら俺から連絡しよう」
「ビールは頼んであります。今年は十箱で良かったですよね」
金子は女性の事務員だった。既婚者であり、子供もいる。事務員用の制服はジャケットが無かったが、与えられたベストはきちんと着こなしていた。
昨年の祭礼用のビールは五箱用意していた。一箱に二十四箱入りで、五箱で百二十本。会館にも常にストックはある為、多少足りなくなったら持って行って良い。村人は三百人いるが、その中には当然子供も含まれるため、全員が酒を飲むわけではない。十分な数の筈だった。
「去年は結局ウチからも何本か出てたよね」
「待ってください、調べます」
「俺、調べましょうか?」
「いいよ、休んでて。電話来るかもだし」
來山の言葉に、金子は笑って応じる。暇なんですよぉ、と來山は天井を見上げた。二人は取り合わなかった。
暫く金子がパソコンを操作する音が響き渡る。來山の眉が顰められた。携帯端末にはゲーム画面が映っていた。
「ああ、ありました。去年はウチから追加で三十五本出てますね」
「合計で百五十本より多めか……十箱じゃ多いかなー。どう思う、來山君」
「少ないよりはいいんじゃないですか? 宗家さんが料理に悩んでる時、大体そう言えって教わりましたよ」
「今年は子供三人いますから、もうちょっと参加する人たち増えると思いますよ」
金子の言葉に、武幸と來山の二人は少しだけ不思議そうな顔をした。
「ん? 子供が増えると参加する人が増えるの?」
「人形供養祭に参列する人が増えますから」
「そうなの? え、來山君知ってた?」
「いえ、知りません」
來山の返答は端的だった。携帯端末の画面を消して、二人に向き直る。
「あ、そうか。二人とも外から来たんでした。林倉村の祭って、その年十歳になる子供の数で参列者の人数が変わるんですよ。昔の決まりで、もうそんなに厳密じゃないんですが、一人だと五十人、二人だと百人。三人以上か、いない場合は村中総出で。ただ子供がいないときは、そもそもそんなに参列しませんね」
「へぇ、そうなんだ。知ってた? 來山君」
「知りませんでしたって。俺こっちに来たの会館できてからって知ってるでしょ」
「去年は……確か、いなかったんだっけ。十歳の子供」
「はい。今年は三人ですので、参列者も……そういえば館長、人形の用意ってできてますか?」
「人形?」
武幸は不思議そうに声を上げた。金子は再びそうかぁ、と困ったような声を上げた。
昨年の祭礼は実際のところ何もなかった。十七時になると神社で焚火を起こし、祭礼を行う。その後は山道に露天を出し、皆で騒ぐ。その程度のものであった。白蛇殿互助会は神社や集会所と言った場所に酒を運び、子供達にはお菓子を配った。
「館長は林倉村の祭りについてって、どこまで知ってましたっけ?」
「いや、去年の参加で全部かと……」
「ああー、そうかぁ……」
金子は軽く咳払いして、話を始めた。暇つぶしにはちょうどいいかと來山も耳を傾けていた。
厄除けの祭りなんです。金子は語った。十歳の子供に見立てた人形を燃やすことで、その後の無病息災を願う祭り。悪いものを全て火にくべた人形が持って行ってくれると信じている、というのは古くから伝わる祭りにある話であった。
ただし、林倉村には多少の違いがある。この人形を火にくべる際、人形と同名の子供は決して家を出てはならないという。これは昔から伝わる習わしで、要はその日、火にくべて天に還すのに、同じ場所にいては不自然だろうという話であった。
また、人形そのものも特別製であった。とはいっても材料が香木という程度で、目新しいものではない。
子供が産まれた日に頭を造り、名前を彫る。その後三年毎に胴体、両手、両足を作り、十年目に燃やすのだという。この際、人形はなるべく子供に造ってもらうのが良いとされていた。そして作る年は厳密に決められており、人形自体は必ず家に置いておくこととされていた。ただし子供が人形で遊ぶことは許されているし、何なら多少手を加えることくらいは許されている。
「私の時は人形が大事な友達でして、燃やす為に持ち出されて大泣きしたんですよ。泣きつかれてすぐに寝ちゃって、翌朝はもう燃やされた残骸しか残っていませんでした」
「えー、結構ひどい話ですね」
「まあ伝統行事だからね、こういうのは。それに、私みたいなのは珍しくないみたい」
後々笑われたよ。金子はそう語った。
「……そうなると、ウチの将の人形は」
「今からでも間に合いますよ、多分。岩倉さんと、後は神主さんに話してみてください。人形用の香木を譲ってもらえると思います。ちょっと他のに比べて新しくはなっちゃうと思いますけど」
「あ、人形作りはそんなに時間はかからんのか?」
「そんなに精巧な人形じゃなくていいですから」
ならば今日か明日には早速神社に行くとしよう。白蛇殿互助会は何事も無ければ通常の窓口業務は十七時までで閉まることとなっている。行動を起こすには遅すぎるということはない。
祭礼の打ち合わせもあるし、勤務時間中に行ってもいいかもしれない。そうこう考えていると、来館する客がいた。丁度話していた岩倉という老人だった。老齢ではあるが足腰はしっかりとしている。山間部に住まう彼らにとって、足は大事なものだった。
受付にまっすぐ向かってきて、受付向こうで事務所に武幸を見ると、やぁ、と軽く声をかけて来た。
「こんにちは、千羽さん。すまない、ちょっと聞きたいことがあるんだが、アンタ人形って作ってたか?」
「あ、丁度今その話してたところですよ、岩倉さん」
「ああそうなのか。いやぁ、すまない千羽さん。すっかり失念していたよ。よければ香木持ってくるから、それに名前とか掘ってお子さんの人形、作ってやってくれ」
失念していたのは村に住まう者にとっては常識以前の話だったからだろう。金子からしても今、なんとなく気になったという程度の態度だった。
それから岩倉はすぐに香木を持って来てくれた。人形にしやすいようにか、態々ある程度小さく切ってくれていた。それにのみや彫刻刀、紙やすりなども一緒に持ってきてくれる。それから簡単な人形の作り方も教えてくれた。他に客がいなければここまでゆっくりもできなかっただろう。それを幸運と捉えるかどうかは議論の余地がある。白蛇殿互助会は飽く迄葬儀屋であった。
「ああ、折角だからお子さんと一緒に作ると良い。怪我しないように気を点けなよ。名前だけは頭に彫ってやってくれ」
「解りました。態々ありがとうございます。しかし……確か、燃やすその当日は子供たちは……」
「ああ、家に引きこもってもらう。とはいえ翌日は主役になるからな。朝一番で集まってもらって、色々やるんだ」
「あ、そうなんですね」
「十歳は一回限りだ。主役になれる祭りだから、何かしようってな。詳しくは今度話すよ」
「ありがとうございます」
「なんのなんの。お礼は祭りのときに酒でもくれればいいぞぉ」
からから笑って岩倉は会館を出た。
以降は特に何もない。偶に電話が鳴り、後は雑談するだけでその日の業務は終了であった。
《夏には三人いた》
我が家が会館から徒歩十五分程度の距離にあるからと、歩いて帰っていることを武幸は後悔していた。
日は落ち始めているとはいえ、まだまだ蒸し暑い。一歩歩く毎に汗が噴き出る熱気は、夕方になっても全く衰える気配が無い。。夜になれど、この辺りでは全く熱気は解消されなかった。
もっとも、だからといって車に乗るという選択肢はない。日ごろから運動不足を嘆く程度には体を動かしていない。葬儀という仕事は体力仕事の側面もある為、これは決して良い事ばかりではなかった。
山間に切り開かれた林倉村は陽が落ち始めると急速に暗くなっていく。街灯も少なく、夜にこの村を歩く為には懐中電灯を持ち歩いた方が良い程だった。道路を車が通ることはあるが、自転車は殆どなかった。坂の多い場所では昇るときに余りに大変なのだった。電動自転車はこの先流行るかもしれない。
家に辿り着くまでに、道行く人に挨拶をし、あるいは遠くで農作業をする人に挨拶をする。広場ではボールで遊ぶ学生たちがいたり、駄弁ったりと忙しそうだ。河に架けられた橋の周りでは主婦が楽しそうに井戸端会議をしており、欄干に彫られた双龍に手を置いている。そんな彼らも武幸の顔を見ると挨拶をしてくれた。狭い村では皆顔見知りであり、千羽家もこの一年ですっかり受け入れられた。
「ただいま」
家に辿り着くと、いい匂いがした。家内である楓が夕食の支度をしてくれている。騒がしい足音が二階から響き、子供が駆け下りてくる。
「お父さん、お帰りなさい」
「おう、将。ただいまー」
子供が飛び込んでくるので、受け止める。家の中の扉は大体が閉じられており、冷房が部屋の中で効果を発揮するようになっている。それでも外よりは少しは涼しかった。
将が離れてふふんと鼻を鳴らして笑う。
「帰ってきたら、手を洗いましょう!」
「お、そうだな。それじゃあ手を洗って、うがいもしようか」
「はーい」
将は元気に頷いて武幸の前を歩いた。今年で十歳になる自分の息子は可愛い盛りだった。田舎に越してきてから、休日は家にいることも多くなった。休日が不定なのが難点ではあったが、家族ともよく交流できているように思う。
洗面所に入り、手を洗い、うがいをする。丁寧に石鹸で洗ってね、と将が元気に言った。学校で何か習ってきたのかもしれなかった。後でその話を聞いてみたいものだと武幸は笑う。
着替えることなく将と共にリビングへと入っていく。中では楓が丁度調理をしているところだった。エプロンはつけていない。昔は髪の毛が長かったが、今は短くしていた。手入れしている暇がないから、と本人は言っているが、武幸は今の方が似合っていると思っている。村に移住してからしっかりと休めているのだった。少しばかり大きな瞳が武幸は好きだった。将にもしっかりとその特徴が継がれている。
「お帰りなさい、お父さん」
「ただいま。今日は、お、豚汁か?」
「野菜が余っててね。なんでもかんでも入れただけのものよ」
「えー」
「えー」
楓の言葉に武幸と将は同じように口を突き出した。楓が呆れたように息を吐いた。
「好き嫌いせず食べなさい。まだできるまで時間あるから、先にシャワー浴びてきたらどう?」
「そうする。将ー、今日は宿題とか大丈夫かー?」
「あ、忘れてた! やってきます!」
「うん、夕食前にやっちゃおうか。部屋の冷房は効きすぎてないだろうな」
「二十六度!」
元気いっぱいに応じて、将は二階の自室へと戻っていった。
九歳である将には一人部屋が与えられていた。林倉村に来てから与えたものだが、物はまだ然程多くない。なんでも、同じ九歳の子供がもう一人で寝てる、と自慢してきたらしい。
「それじゃ、楓。先にシャワー浴びてくるよ」
「ええ。お風呂湧いてるから、ゆっくり入ってきてもいいわよ」
「……いや、シャワーだけで済ませて後で将と一緒に……」
「もう最近一緒に入ってないじゃない……」
楓は再度呆れたように言った。少しばかり項垂れて武幸はシャワーを浴びに行く。
夕食は十八時からだった。夕飯は牛肉の生姜焼きをメインに、キャベツとトマトが盛られた大皿が置かれている。小鉢に入っているのは焼かれた小松菜で、これは楓の好みだった。最後に出された味噌汁は、彼女の言った通り野菜のたっぷり入ったものであり、当然これは二人には不評だった。豚肉も多少入っているが野菜に塗れて見えない。
「いただきます」
三人の声が唱和し、ゆっくりと食事を始める。
食卓では会話が弾んだ。主に話すのは将だった。当然学校での出来事が多い。十二歳になる辰美ちゃんという子が仲良くしてくれるのだという。最上学年の子ではあったが、勉強がよくできるらしい。そして運動も一番で、かけっこでもいつも勝てないという。
この年齢の子供たちは、特に年齢による成長の差が著しい。身体能力で勝てないのは無理もないだろう。長く生きてるというのはそれだけで知識の差にもなる。
「そういえば将、来週から夏休みか」
「うん! 楽しみ!」
「八月の頭には祭りもあるからな。……ああ、そうだ。将、この祭り、お前人形作らなくちゃいけないんだそうだ」
「人形?」
楓が不思議そうに眉を跳ね上げた。武幸は頷きながら仕事用の鞄を持って来て、鞄を広げる。中にはビニール袋に包まれた香木と道具一式が入っていた。ビニール袋を広げると、不思議な香りがたつ。
「凄い香り!」
「いい香りね」
「なんでもこの村特有の香木らしい。これを人形にして、名前を彫ってお炊き上げするんだと。将、祭りまでに一緒に作ろうな」
「うん、造りたい!」
「刃物使うんでしょう? 大丈夫?」
「俺も一緒にやるよ。将、刃物を使う時は必ず俺か母さんが一緒にやるからな。それだけ約束してくれ」
「はーい」
元気に返事をする将を見て、食卓から香木の入った袋をどけておく。いい香りだったが、食事時には不向きだった。
やがて食事が終わり、人形を作り始める。フローリングの床に新聞紙を引き、香木を広げた。原木のようだったが、虫などがいる様子はない。態々綺麗にしてくれたのだろう。ありがたい話だった。
人形を頭の形や胴体の形に削り出し、紙やすりで磨いていく。それを針金で継ぐことで完成するが、中々の重労働だった。気が付けば時間が過ぎている類のものだ。一日で終わるものではないだろう。そもそも、村の人々は長い時間をかけて作るらしい。
将も父親の真似をしながら木を削りだしていく。武幸としては見ていてハラハラするが、自分の子が興味を持ってやっていることに声をかけることも憚られた。
「……いいの? 結構やらせてるけど」
「自分で造るのがいいんだとさ。刃物に触れる貴重な機会だし、怪我の危険性とかも教えるんじゃないか。将、気をつけろよ」
「はーい」
「この人形、どうするの?」
「最後には燃やすらしい。まあ、祭りの詳しい行程はまた後で話すよ」
「え……勿体なくない?」
「村の風習だ。しょうがないだろ。郷に入っては郷に従え、ともいうし」
そういうものかしらねぇ、と楓はちょっと嫌そうに香木に視線を向けた。
人形は形にさえなっていない。だが将は楽しそうに人形を削り、磨いていた。何かを造る楽しさというのをこの年で教えられるのならば、この風習も決して悪いばかりではないだろう。
「今年で十歳かぁ……もうすぐ中学生になっちゃうなぁ……そうしたらスクールバスか……」
「高校も隣町よね。スクールバスあるの?」
「ああ、スクールバスというか、普通のバスは出るらしい。学生たちはスクールバスって一括りで呼んでるが」
「将が高校生になるくらいには、この村にもコンビニやデパートの一件もできればいいんだけど」
「……うーむ、交通の便が不便だな。なかなか難しいかもしれん……」
「……この村唯一の不満って、利便性の低さよね」
楓が大きく嘆息しながら台所に戻り、お茶を運んでくる。湯を沸かしていたらしい。それと一緒にお菓子も出してくれる。
将が顔を輝かせ刃物や香木を置いてお菓子に飛びついた。甘さが控えめのおはぎは、近場の御婆ちゃんが作ってくれたものだという話だった。
《祭りの日に》
「こんにちは」
八月の頭。西日が差す時間には祭りの準備が完了していた。当然、武幸も手伝っている。
神社の境内の中央には櫓が組まれ、傍には灯油が置かれている。そして消火用の水もたっぷりと運ばれていた。普段の葬儀も大変だが、こういった重労働はまた別の辛さがあった。境内には特筆すべきことは少なく、だだっ広い。四隅に灯篭が置かれていることと、狛犬の代わりに龍が置かれているのが特徴であった。
その折に挨拶をしてきたのは、鮮やかな竜の模様が描かれた和服を着た少女だった。真っ黒な髪の毛が白い和服によく映えている。竜の模様は黒だが、微かな光沢は、特別な糸でも使っているのかもしれない。
「私、輪海辰美といいます。将君のお父さん、ですよね?」
「あ、ああ。こんにちは。ああ、君が辰美ちゃんか。将から話を聞いてるよ」
「……将君、私の事嫌いとか言ってませんでしたか?」
両手を合わせ、うつむきがちに辰美は尋ねてくる。少し恥ずかしげだった。年相応の表情であった。
「いや、そんなことは。むしろ楽しそうに話してくれてる」
「良かった……いつもいつも私が勝っちゃうので……その、嫌われてたらいやだなぁって」
「はは。むしろ、こちらこそありがとう。君たちのお陰で、将も毎日学校が楽しそうだ。……今日の祭りに参加するのかい?」
「はい。私、十二歳ですから、今日の祭りにも参加できるんです。それで……あの、良ければ明日、将君と一緒に回らせてもらってもいいでしょうか?」
首をかしげて可愛らしく尋ねてくる辰美。願っても無い話だった。
千羽家はまだ林倉村にやって来て日が浅い。仲良くしてくれる相手がいるに越したことはなかった。
林倉村の夏祭りは二日に分けて行われる。
初日は儀式の側面が強く、神社で火を焚き人形を燃やす。神主が厳かに行うものであり、祭礼というよりは正に儀式であった。踊りなども無い。だがこの時間が終われば、村の集会所に移り、大人たちは酒盛りを行う。火は一晩焚かれ、火の番は交代で行った。そして十歳の子供たちは古い民家で、今夜は泊まりだった。
二日目は正に祭りであった。屋台が出され、陽が落ちるまで騒ぐ。特に十歳の子供たちは屋台の食事が全て無料だった。また、集会所でご馳走が振舞われ、これは誰もが食べることができた。
「昔は」
「ん?」
「いえ、おばあちゃんから聞いたんですが、昔はこうして燃やすのも全部香木だったんですって。さぞ、いい香りがしたんでしょうね。……良すぎて、吐き気もするかも、ですが」
「へぇ、そうなの。なんで香木じゃなくなったんだろうね」
「香木も貴重品は貴重品だから、でしょうか」
「おぅい、千羽さん」
辰美とそうして雑談を交わしていると、やがて武幸は名前を呼ばれた。辰美は頭を下げて去っていく。その先に、辰美とよく似た少女がもう一人いた。こちらは黒い和服に白い竜が描かれている。辰美と違い、髪の毛が非常に長い。二人でくすくす笑い、神社を降りていく。
「やぁ、岩倉さん。どうかしたのかい」
「準備できたから、ほれ、ビールだ。今年の祭りは盛大にやらんとならんからな!」
「いやいやいや、まだ早いでしょう……日が落ちてから本番でしょ? おっといかん、手が滑った」
軽快な音を立てて、ビールのプルトップが開かれる。それを聞くと、岩倉はゲラゲラと笑った。当然、岩倉の手にも蓋が開かれたビールがある。
軽くビール缶を打ち合わせ、一口飲む。炎天下で働いた身には冷たいビールがよく染みた。社会人として付き合いからは逃れられないと、誰に向かってかもよく解らない言い訳をしていた。
「ああ、ずっと不思議だったんですが、岩倉さん。林倉村って狛犬の代わりに龍の置物なんですね」
「ん? ああ。ほれ、よく見ると神社の欄干にも彫られとるよ。龍神様と言えば、まぁこの辺りだと子供を見守ってくれる神様だからな。昔から祀ってるんだろう」
岩倉は地元民特有の感覚で応じる。彼らにしてみれば特別不可思議なことではない。だが武幸は妙な納得をしていた。
なるほど、先ほどの辰美ちゃんともう一人の子、龍で揃えたのか。そう考えるのならば地元愛に溢れた衣装じゃないか。意味もなく笑ってしまう。
「しかし……本当に人形燃やすんですね」
「ああ。昔からの習わしでなぁ」
組み上げられた櫓の前には、三体の人形が並んでいた。その中には当然将が手ずから作ったものもある。他の人形と違い、将のものだけは真新しかった。
やがてこれが燃やされる。武幸には当然、不思議な風習だった。だが古くからの習わしにまで口を出すほど野暮でもなかった。彼は四十一歳の社会人に他ならなかった。
「お、始まるぞ」
話をしていると、やがて松明に火をつけた一団が階段を昇ってくる。
神主を先頭とした一団は両脇の巫女が松明を持ち、階段の途中に設置された灯篭に一つ一つ火を点けながら昇って来た。どこか葬列を思わせるな、と武幸は思いながら、神主がやってくるのを見ていた。
人形に一礼をし、巫女たちが散った。庭の四隅に設けられた灯篭に火を灯すと煌々と燃え上がり、薄暗く辺りを照らした。その後、中央にある櫓に火を放つ。燃え上がる櫓の中に松明を放り込んで、巫女たちは後ろに控えた。その後、神主が人形を一つ一つ手に取り、その名を呼びながら櫓の中に入れて、燃やしていく。
「くすくす」
「あはは」
どこからか笑い声が聞こえた気がした。武幸が辺りを見回すが、誰も笑っている者はいない。酒を飲んで酔っている者でさえ、声を上げてはいなかった。
風が吹く。思わず武幸は身を震わせた。生温い風は、妙な冷気を纏っていた。不安になり、隣にいる岩倉に声をかける。
「なぁ、岩倉さん」
「ん?」
「今、笑い声がしませんでしたか」
「……? いや、何も?」
「そ……」
そうですか。そう応じて、酒を一口。冷たいビールは変わらず美味しい。
不安から辺りを見回すが、暗い森は何も見えない。その奥からくすくすと、また笑い声が聞こえた気がした。
やがて神主が再度、三人の名前を呼ぶ。祝詞はどうにも天に昇る相手に見守っていてくれと言っている。習わしとして、こうして燃やす人形は本人そのものを示している。人形を本人の身代わりとして死者に見立て、二度と病にかからぬ様、健やかに過ごせるようにと祈っているのだった。
だが不思議なことに、将の名前が呼ばれるとまた笑い声が聞こえた気がした。
祭事は一時間ほどで終わった。神主がゆっくりと頭を下げ巫女と共に下がっていく。それで祭りはおしまいだった。
この後は火の番をするものが集会所に集まり、宴会をしながら朝まで過ごす。その中に武幸の名前はなかった。彼が白蛇殿互助会の館長であることは皆知っており、会館の重要性は皆理解していた。翌朝が祭りであっても、会館では通常業務が行われている。
とはいえ食事と酒の付き合いはあった。夜中まで続くことは武幸も覚悟していた。
「今年は白蛇殿さんの仕出しだからなぁ。飯が旨いのは嬉しいよ」
「はは、ちょっとお高くつきましたが……ここだけの話、ちょっと安くはしますよ」
「お、ありがたいね」
岩倉と共に神社を去り、集会所へと向かう。話をして、人と共に歩いていると、先ほどの不安が少しずつ薄れていく。やはり気のせいだったのだろう。深い森だ。葉擦れの音が笑い声に聞こえることもあるだろう。
集会所では既に出来上がった人々が、彼等を温かく迎えてくれた。
《雪降る平日》
その日は昼頃から雪が降り始めていた。
隣町から来ている來山はバスが止まるかもしれない、ということで早めに帰した。その他にも車で移動するしかない者達は早めに帰っていた。会館に残っているのは武幸と金子だけになり、静かなものだった。
「この分だと、夜には積もるし……明日は大変ですねぇ……館長と私だけしか出て来れないですよ」
「うーむ、困ったな……まぁどうにかなるか……いや、車の移動とか全くできなくなりそうだな……」
「本社に予め連絡しておきますか?」
「そうしよう」
職場は暖房をしっかりと利かせており、快適だった。食事に関してはコンビニやデパートが無いこの村においては、基本的にお弁当である。会館の休憩室でカップヌードルを食べる人もいる。当然の備えとして非常食や水も備蓄されている。いざという時、ここは避難所にもなるからだ。
「林倉の千羽です、お疲れ様です。的場さんいますか? ああ、はいはい……お疲れ様です、千羽です。的場さん、今日ですが林倉会館のほう、雪で道が完全に埋まっちゃうかもです。もしも仕事入りましたらこっちの会館には連れてこないでいただけると……はい。申し訳ない」
電話をしながら軽く机をたたく。今日は他の人は帰った旨を伝え、それから幾らかの業務確認を行う。
電話を切ると、会館はまた静かになった。流石に手持ち無沙汰になり、携帯端末を取り出して遊び始める。
「あ、これ見せたっけ、金子さん」
「はい? なんです?」
「祭りの時の将の写真」
「あー……見ました、何度か」
そっか、と答えながら写真をスクロールする。夏祭りの折、武幸は当然ここで仕事を行っていた。あの日は偶々仕事も入り、忙しい時間となった。だがそれでも十七時には仕事を終えて、それから祭りに参加した。
写真の中の将は浴衣を着ており、隣には辰美もいた。将の頭には今年の特撮ヒーローでもある、ドラゴンモチーフの仮面が付いている。屋台で貰ったものだと将は笑っていた。十歳の子供たちはどれでも一つ選んでいいらしかった。無料だったと楓にも聞いている。食事も沢山食べたらしい。無論のこと、小学生である将がそれほどの量を食べるわけでもない。無料にもちゃんと計算がある。
他にもこの村に来てからの写真は幾つもある。今年撮った写真の中で、将は元気いっぱいに笑っていた。雪が降っているから、今頃は学校の校庭で元気いっぱいに駆け回っているかもしれない。冬休みまでは後三日ほど。林倉村ではこの規模の雪は珍しくないが、去年は物珍しさからか将はとにかく燥ぎ回っていた。
黄金色の稲を背景に撮った写真もあった。雨の中を新しい傘で燥いでいる姿もある。どれも林倉村に来てからの大事な思い出だった。
「じゃあ今日は十七時に閉めちゃうから、金子さんも早めに帰ってね」
「そうします。館長も気を付けてくださいね」
「解ってる。確か林倉村って、雪の夜は出歩いちゃダメなんだっけ?」
去年聞いた風習だった。聞いた時は当たり前だろうとしか思わなかったが、将の燥ぎぶりを見ると中々意義のある忠告だったとも思っている。将は一人で寝ているし、少し気を付けた方が良いかもしれない。
「そうですよ。別にそんなに不思議な忠告でもないですけど、特に子供はちゃんと家にいさせてくださいね」
「去年はねぇ、大変だったよ。夜だってのに」
「遠足前、ワクワクして眠れないタイプですか、将君」
「お陰で朝起こすのが大変なんだ」
武幸は笑った。金子も同じように笑った。金子にも子供がいる為、同じような苦労を経験していた。現在は既に高校生になっている為、昔ほど手がかからないと聞いている。
その後、会館には誰も来なかった。早いうちに電気を落とし、会館を閉める。一応閉館前に非常食や備蓄の確認を行った。他にも些細なトラブルとしては、清掃員が早めに帰宅し、明日は誰も来れないかもしれないとのことだった。昨年もあったトラブルの為、武幸はすぐに承認した。
会館を閉じる頃には、雪は大分積もっていた。スパイク付の靴ではない為、滑るのに注意しながら帰宅する。足が痛くなり、普段の倍はかけて帰宅する。川は変化していないが、水量が増えている気がした。当然、村人の姿は見えない。
「うぅー、寒い寒い。ただいま」
「お帰りなさい」
「おかえりー!」
家に帰ると、すぐに楓と将が出てくる。リビングで二人で寛いでいたらしい。将の部屋にもエアコンはついていたが、電気代を慮ったのかもしれない。
「帰ってきたら、手を洗いましょう!」
将が胸を張って言う。楓が苦笑した。ここ最近、将は武幸が帰ってきたら同じように言う。飽きるまでは続くだろう。
将に頷きながら武幸は家に上がる。武幸はすぐにリビングへと戻っていった。手を洗い、うがいをしていると、静かに楓が後ろから話しかけて来た。
「今日はクリームシチューがあるわ。ちょっと多めに作ったから、明日も大丈夫」
「ありがとう」
「去年大変だったから食事は多めにあるから。カップ麺とか、インスタントなものも多いけど、お湯さえあればどうにかなるわ」
「いざとなったら焚火でお湯を沸かせば飢え死にはしないな」
武幸の言葉に、楓は笑ってキッチンへと戻る。クリームシチューは寒い冬には実にいい食事だ。単純に将の好物でもある。
昨年は中々大変だった。林倉村に来てから一年目の冬。交通事情を甘く見ており、食事の買い出しさえままならなくなった。周りの助けが無ければ、本当に飢えて死んでいたかもしれない。今年は災害用の備蓄も多めにある為、抜かりはなかった。
「明日の学校休みになるかも」
夕食の席で将は語った。雪が余りに酷いため、安全に配慮するらしい。
それなら明日は家でゆっくりと過ごすといい、と武幸は笑う。学校が休みになるのならば、家の外に出るのも配慮した方が良いだろう。この小さな村だし、周囲の目を気にするほどではないだろうが、学校側が安全に配慮している以上は余り外に出さないほうがいい。少なくとも武幸はそう考えた。
将は面白くなさそうだった。だが楓からも諭され、不承不承頷いた。子供としては雪の積もった日は外で遊びたいのだろう。
リビングには夏に買った特撮ヒーローの安っぽいお面が飾られていた。将はまだ時々これを被って遊ぶ。特撮ヒーローの名前は解らないが、武幸としては将が喜んでいてくれて満足していた。
その後はいつも通りの家族団らんとなる。風呂に入り、テレビを見て、宿題をして過ごす。団欒の時間に温かいお茶と、将にはホットミルクが淹れられた。将は貰う時にお礼を言った。当然の礼儀だが、武幸は息子を褒めた。
「おやすみなさい」
将が言いながら部屋に戻った。武幸と楓も軽く雑談をしてから部屋に戻る。寝室は二階にあり、夫婦は共に眠るようにしていた。将も時々一緒に眠るが、これから先益々一緒に寝ることは少なくなるのだろうと武幸は残念がっていた。
雪の降る夜は何も音がしない。時折窓が軋む音がするくらいだった。雪は深々と降り注ぎ、あらゆる気配を殺していく。
――夜になり、ふと、武幸は目を覚ました。暖房はつけていたが、それほど温度は上げていない。トイレに行きたくなった。
廊下に出ると、嫌に寒い。当然だった。階段を降りて、トイレへ向かう。トイレは一階にしかなかった。暗い闇の中を歩くのは恐怖があるため、階段の電気をつける。眩さに目を細めながら、ゆっくりと階段を降りていく。
トイレを終えて、階段を上る。電気を消したところで、気が付いた。
将の部屋から微かに光が漏れている。廊下は正に真っ暗になっており、将の部屋から漏れる光に気が付いたのは幸運だった。
もしや。武幸は顔を歪めた。昨年、将が窓を開けて雪を興味深げに眺めていたのを思い出した。ここに来る前までは雪などろくに降らなかったから、無理も無かった。翌日、将は風邪を引いた。
今年も同じことになるぞ。全く。武幸はため息をついて、将の部屋を見ていくことにした。
「将?」
扉を開けて、呼びかける。部屋は明るくない。机のスタンドライトが付いていたらしい。
予想通り、窓は開いていた。簡単に出られないように手すりが付いている為、落ちる心配はなかった。将も年相応の危機感は持っており、無理に落ちようとはしなかった。
全く。武幸は苦笑気味に嘆息して――気が付いた。布団に、雪が積もっていた。随分と長い時間、窓が開けられている証拠だった。そして、布団は膨らみが無かった。慌てて部屋の電気をつける。一瞬で部屋が明かりで満たされ、眩しさに目を細めながら、それでも部屋を見渡した。
「将?」
最初よりも少しばかり上ずった声を上げ、辺りを見回した。
小学生の部屋らしく、物もそれほど多くない。ベッドと勉強机。クローゼットもまだ無かった。中学生になったら買おうと楓と話していた。携帯ゲーム機が置かれており、部屋の隅で充電に繋がれている程度だ。
いない。おかしい。勉強机に備え付けられた椅子をどかし、あるいはベッドの下を覗き込み、将の姿を懸命に探す。
「将、どこだ。ふざけてないで出てきなさい……」
声はしりすぼみに消えていく。部屋は決して広くなく、どこを探してもいないのがすぐに解ったからだった。
「将!?」
窓から体を乗り出し、見回しながら思わず叫んだ。だが深い雪は足跡の一つさえ残していなかった。
そうして慌てていると、部屋の扉が開かれ楓が現れた。寒さのせいか、カーディガンを羽織っていた。
「ちょっと、貴方、どうしたの……? まだ一時よ……?」
「将がいない」
「……は?」
楓の疑問に端的に応じ、武幸は部屋を飛び出た。彼女を突き飛ばすような形になったが、気にしている余裕はなかった。
楓はまだぼんやりとした表情で、ゆっくりと武幸の後を追ってくる。何が起きたか解っていないわけではないだろうが、寝起きで情動が追いついていないのだった。
家中の電気をつけ、先ほど入ったトイレから風呂場までひっくり返すようにして探す。それでも将の姿は見つからなかった。楓は玄関に靴があるのを確認していた。そして、扉の鍵が閉まっているのも。将には家の鍵はまだ持たせていない。閉まっているのならばここから出た、というのは考えにくい。
「貴方、将の靴はあるわ」
「ならどこへいったんだ!?」
「きっと、家の中に」
「将! ふざけてないで出てきなさい! どうしたんだ!?」
家中に響き渡る怒号で武幸は叫んだ。声を抑える余裕もない。将を叱ることはあっても、ここまで大きな声を出したことはなかった。喉が痛い。
ようやく情動が追いついたのか、楓は二階の部屋を探し始める。それでも、見つからなかった。
「警察……そうだ、楓、警察に電話を……!」
「あ、ああ、そうね。待って――携帯電話……」
武幸の声に、楓は寝巻のポケットを探った。当然入っていなかった。慌てて部屋に戻り、携帯電話をとりだした。深夜一時十分になっていた。
「子供が……息子がいなくなったんです! 家から、急に……!」
楓の悲痛な悲鳴が響き渡る。だが果たしてどうだろうか。警察もすぐには動けないだろう。林倉村は雪に覆われていた。
結局初動として、駐在の警官がやって来た。既に時刻は二時を回っていた。当然その間、武幸も楓も休むことなどなかった。可能性だけを追い求めて家中や、あるいは家の周りまで探し回った。寒さなど気にならなかった。何であれ彼らは仲睦まじい夫婦であり、そして将は大事な一人息子だった。
《とある伝承》
林倉村への入り口は一カ所しかなく、雪で塞がってしまうと車での移動でさえ儘ならなくなる。
その為、この日、林倉村は一時的に孤立していた。雪かきなどで対応はしているが、道路が使用できるようになるまではまだ時間がかかりそうだった。
何より空は曇っており、また何時雪が降るか解らない。村人たちの手は遅々としていた。晴れていればまだしも、全く士気が上がらない。
武幸は憔悴しきった顔で会館に務めていた。どんな日であろうと仕事はある。そして白蛇殿互助会は、今のところ武幸と金子以外には出勤できるものもいない。現在、武幸には身だしなみを整える余裕もなかった。
将がいなくなったことは、既に村中に広まっていた。そして村人たちも方々を探し回ってくれている。
当然、成果は芳しくない。何せ将の足跡一つ、見つかっていないのだから。窓を開けて出ていったにせよ、その先の足跡が全く追えない。駐在は五十過ぎの痩せた男性だった。彼は今捜索隊の指揮を執っている。彼にとっても村人との交流は深い。
金子も気を使ってくれてはいる。だが、そのどれもが武幸には響かなかった。
そうこうしているうちにも時間は過ぎる。やがて、会館の扉が開いて、二人の人間が入って来た。岩倉と祭事を取り仕切った神主だった。
「こんにちは、岩倉さん。申し訳ありません、館長は今……」
「解ってる」
金子が応対すると、岩倉はやや硬い声で応じた。武幸はぼんやりとした瞳で二人が来たことだけを見ていた。
「だが、それでも話を聞いてもらわにゃならん。将君の事だ」
「……将! 見つかったんですか!?」
武幸は慌てて立ち上がった。だが岩倉は残念そうな顔で首を横に振った。武幸の正気を保っているのが、将という少年だけだということは想像できた。岩倉の肩を、神主が叩く。岩倉はすぐに頷き、一歩身を引いた。受付窓口に神主が立つ。
八十過ぎと思しき男性だが、足腰はしっかりとしていた。顔も八十にしては綺麗なものだった。今は小さな鞄を持っているが、神主の衣装を纏っている。不思議な香りがしていた。香木の香りだとすぐに気が付いた。武幸は将と一緒に人形を作っていた。
「良ければ、一室用意していただけませんか」
巌のような硬い声は、疲労困憊の武幸をも動かす力があった。すぐに応接室が整えられる。温かい茶は、金子がわざわざ淹れたものだった。
席に座ったのは神主と岩倉、そして対面に武幸だった。将の事が少しでもわかるかもしれないからか、武幸の目は爛々と輝いていた。
「まずは、お悔やみ申し上げます」
「……お悔やみ? やめてください。将は……将は、まだ死んでいません」
「……そう、で御座いますな」
口火を切ったのは神主だった。深く頭を下げる。そして鞄から古びた冊子を取り出す。
「林倉村は、龍神によって守られてきた村です」
「……何の話ですか?」
「村のいたるところに、龍神様の要素がある事にはお気づきでしょうか。橋の欄干、神社の狛犬は龍、他にも幾つか御座います。あれほど立派な川がありますからな、解らぬ話でもない。昔から日本人は、川に龍の姿を見ました」
「だから、何の話ですか」
「特に林倉村では彼ら、彼女らは子供を見守ってくれています。健やかな成長を見守り、そして――十歳の折、誘いの声に応じた子供だけを連れて行く、という伝承が残っています」
「……は?」
言いながら神主は古い冊子を開いた。ミミズがのたくったような文字が何ページにも続いている。
やがて頁を捲る手が止まる。文字を指さしながら、淡々と語った。意図的にそうしてくれているのは武幸にも解った。
「これは、神社の記録です。古いものですが、補修もなされており、今も読むのに不便はありません。……飢饉、洪水、嵐が続く。香木の採れない年が数年、続いた。祭りの際に、焚き上げる分も少なくなる。このままでは何れ香木を焚き上げるのも難しくなる」
言いながら神主は頁を捲った。
「同年の冬、雪の深い夜、子供が失踪した。十歳の子供ばかり、三人」
「……十、歳」
将に関係のある所だけ、武幸は繰り返した。
「その後、似たような話が毎年続きます。どうにもこの年から暫く、香木が不作だったようでして。ですが……食料は、不思議なことに、毎年毎年豊作でした。どんな災害が訪れようとも」
武幸は眉を顰めた。今の話のどこが将に繋がるか解らなかった。いや、意図的に考えないようにしていた。
「将君は、十歳でしたな」
「……っ! だからといって!」
「因果関係は、証明できません。ですが香木が採れるようになり、また祭りの日にそれを焚き上げるようになってから、失踪は止まったというのも事実です」
武幸は言葉に詰まった。叫びと共に思い切り机を叩いた手が痛い。武幸の傍にあったお茶が零れた。
話自体はそれほど理解のできないものではない。人柱、生贄の話は昔からよくある。最も、だからといって豊作が約束されるとは限らない。人柱と生贄に、豊作との因果関係などなかった。
「バカな……馬鹿な、この時代に、そんな! そんな龍神様だなんて! なら、将は龍神様に連れていかれたというんですか!?」
「……分かりません」
神主は武幸の怒号に、沈痛そうな表情を浮かべてゆっくりと首を横に振った。
「これは、記録です。昔の人が記しただけです。将君に同じことが起きたかどうか、我々には解りません」
「だったら!」
「ですが、事実として、十歳の子供は昔、失踪したのです。雪の夜、足跡一つ残さず」
雪の夜、足跡一つ残さず。
武幸は、神主がなぜわざわざ話に来たのか理解した。将がいなくなったのと全く同じシチュエーションだった。
「今焚き上げているのは香木ではないと聞いています! ならば!」
「はい。ですので、身代わり御供を供えております。将君の身代わり御供もあった、そのはずでした。申し訳ございません」
神主は再びゆっくりと頭を下げた。それから顔を上げ、再び語る。
「大丈夫かと、私も思いました。祭りの日に、何も起こらなかった。……記録によると、香木を焚かなかった祭りの日、十歳の子供たちは何かに見られているという訴えがあった――ということです」
武幸は力なく肩を落とし、机に突っ伏しそうになった。
将からそういう訴えは無かった。息子から聞いたのは楽しい毎日の事だけだった。祭りの日のことさえ思い出せる。写真も沢山残っている。将と一緒に楓や辰美ちゃん、その他学生や村の老人たちが一緒に写ったものもあった。
「……最後になりますが」
「……」
「記録上、失踪した子供たちが戻って来た子は……おりません」
「……っ!」
武幸は、再び机を強く叩いた。零れたお茶が、武幸の手を濡らした。
「……なぁ、ちょっと待ってくれ、千羽さん」
「……なんですか、岩倉さん」
「香木じゃないって、誰に聞いたんだ。俺ァ知らなかったぞ。昔香木焚いてただなんて、今知ったくらいだ」
「……」
岩倉が不思議そうに尋ねてくる。武幸は携帯電話を取り出し、写真を出した。
写真の中では将が綿あめを持ち、隣には辰美ちゃんがいた。嬉しそうにりんご飴を齧っている。
「この子です。辰美ちゃん。ご存じでしょう」
「……」
「……」
岩倉と神主は互いに顔を見合わせる。今度は武幸が不思議そうな顔をした。
「……あの?」
「いや、誰だい、この子」
「……? いえ、確か、輪海さんの家の子、と聞いていますが」
「輪海? 隣町の子か?」
武幸の頭には無数の疑問符が浮かんだ。将からよく聞いていた話には、確かに辰美ちゃんなる人物がよく出てきていた。
「い……いや、いや。十二歳で、ここの学校にも通っていると……」
「見たことねぇなぁ……」
「じゃ、じゃあ、この子は一体……誰なんです?」
「……」
神主が目を窄め、写真を矯めつ眇めつ眺める。だが結局答えは出なかった。
写真の中では、変わらず辰美がりんご飴を齧りながら笑っていた
――この後、雪が薄くなり、道が開通してから、千羽将の捜索は続けられた。だが、懸命な捜索を一月以上続けても、将の姿は発見されなかった。
《夏には》
「ああ……っちぃ……」
夏の日差しは正に殺人的であった。
バスから降りた二人の少年は日差しに炙られながら、疲れ切った表情をしていた。
「バス、俺の家の前まで来てくれねぇかなぁ」
「毎年同じこと言ってる気がすんなぁ、それ」
日差しの下を歩く二人の少年は項垂れるように歩いていく。
「はー、しかし今年はいいとこまで行けそうだなぁ。去年県予選準優勝が精一杯だったけど、全国まで頑張って欲しいぜ」
「海城君すげぇよな。体格良すぎて体重大丈夫か?」
「この間の合宿で絞らせた。アイツジャンクフードばっか食ってねぇだろうなぁ……」
「林倉はその辺良いよな。ジャンクフード店とか一切ねぇし」
「健全な男子学生としてはたまに恋しくなるけどなー」
からから笑いながら学生たちは汗の噴き出る道をゆっくりと歩いていく。
視線を唯一舗装された道路から外せば、目に優しい緑の田園が視界一杯に広がった。その中を麦わら帽子をかぶった大人たちが歩いていた。手を振ると、振り返してくれる。
「今年も祭りだなぁ」
「今年は……十歳、ゼロ人です!」
「二日目の祭りだけかぁ」
「そういや千羽さんのところの」
「将君? 見つかってねぇよ。靴の一つもねぇ」
「千羽さん、いい人だったんだけどなぁ。すっかり参っちゃって、今度引っ越しか」
「流石にいられねぇよな、子供を失った村」
少年は沈痛そうな表情を浮かべた。白蛇殿互助会の千羽武幸は、決して悪い人ではなかったからだ。そう長い間一緒にいたわけではないが、学生たちにもよくしてくれる大人だった。
「将君に関しちゃ、しょうがねぇよな」
「ああ、しょうがねぇ」
「新しい館長、いい人だといいな」
「ああ、そうだといいな」
二人はけらけらと笑い、再び自宅へ向かって歩き出す。その途中、鳥居の前にある薄汚れた手水鉢の水で手を洗う。
水は変わらずに綺麗だった。虫の一匹さえ浮かんでいない。今日は鳥居の前に神主がいた。神社に向かって礼を捧げている。時折していることを二人は知っていた。軽く頭を下げると、こんにちは、と巌のような、だが優しい声が返って来た。
神社から柔らかい風が吹き下ろす。
日光は未だその陰りを見せない。
《了》
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
只そこにあるだけの日常。何も解決せずとも時間は進む。何も理解できずとも世界は続く。
たったそれだけの物語でした。
それでは次回もあれば宜しくお願いします。




