雨上がりとコンビニと
店の厨房は、閉店後の掃除が終わったところで、まだ微かに熱気が漂っていた。
淡月はカウンターで伝票を整理した後、今夜の店の様子や申し送り事項を思い出しながら、備え付けのノートに書き込んでいた。
ちらりと窓の外を見ると、朝からの雨は上がったようだったが、すっかり夜の色に支配されている。のぞき込んだスマートフォンはもうすぐ日付が変わることを示していた。
ネオンや街灯から零れる光が濡れたアスファルトを照らす光景から目を離し、再びノートに向かおうとしたその時、ほんの一瞬だけ、何とも表現しがたい感覚が淡月を襲った。
店内の音が途切れ、何かがゆらりと動くような、自分が揺らぐような、今までに経験したことのない感覚。
体の中にひんやりとした空気が漂い、淡月は首をかしげる。
「…なんやろ。風邪かな。」
早く家に帰ろうと淡月は改めてノートに向き直る。体内にはまだ何か冷たいものが残っているようだった。
「お先に失礼しまーす!」
店の奥のスタッフ達に頭を下げ、淡月は駐輪場に向かう。
ここでのアルバイトはこの春に始めた。
アルバイト先を探している時に、親戚が経営しているイタリアンバルで人を募集している、と中学時代からの友人である楔が言ってきたので、すぐ紹介してもらった。
接客のアルバイトは初めてだが、人と接するのは嫌いではない。店は落ち着いた雰囲気で、悪くないバイト先だった。
「楔にお礼せんなんな」
駐輪場から自転車を引き出しながら、淡月が呟いたその時、なぜか視界が一瞬ぼやけた。その直後に、足元がふわりと宙に浮くような嫌な感覚。
「何やこれ…」
自転車から手を離し、地面の存在を確かめるように、淡月はしゃがみ込んだ。
淡月がしゃがみ込むのを待っていたかのように、今度は下に引き込まれるような感覚に襲われ、近くの水たまりに反射する街灯の光が目に滲む。
「わ…!」
さすがに何かおかしい、と思ったその時、近くで声がした。
「お、淡月。バイト帰り?」
声の方向に目をやると、見慣れたシルエットが近付いてくるのが見えた。楔だ。そのまま淡月のところまで来た楔は、淡月の腕を掴んで、立ち上がろうとするのを手伝った。
「よ!っと…」
引き込まれるような感覚よりも、楔が腕を掴む感覚の方が強く感じられ、淡月は立ち上がり、小さく息を吐いた。そんな淡月を見て、楔は倒れた自転車を起こしにかかる。
「助かったわ。ありがとう、楔」
何が起こったのかはよくわからないが、だがなぜか助けられた気がして、淡月は楔に礼を言った。
「ん?自転車起こしたただけやろ」
軽く笑って楔は淡月に自転車を渡し、空を見上げた。
「雨上がったんや」
二人は歩き出した。街の灯りが少しずつ増えてきたところで、水に濡れた自転車を眺めながら、淡月が楔に問いかける。
「楔は何であそこにおったん?」
楔の家はここからは少し離れている。
「コンビニ。ついでに夜の散歩」
確かに楔の家の近くは古くからの住宅が多く、自販機があるくらいだ。
淡月がそんなことをぼんやりと考えながら歩いていると、楔が淡月の左肩を軽く叩き、
「ほんなね。また店来んか」
「ありがとぉ。今度寄るわ」
祖父から受け継いだ珈琲店兼自宅で、楔は一人で暮らしている。祖父の珈琲の味もきっちり受け継いでおり、昔からの常連客も通い続けているようだ。
それぞれの家の方角に向かって歩き出した。
しばらく歩いたところで楔が立ち止まり後ろを振り返る。自転車に乗った淡月の姿はもう既に見えなくなっていた。
「ぎりセーフ、やな…危なっかしい」
楔はそう呟くと、また歩き出す。淡月の好きそうなコーヒーを考えながら。
「あれ。楔、コンビニの袋持っとったっけ?」
自転車を走らせながら淡月は呟く。まぁ今度でいいか、と思い、ペダルを漕ぐ足に力を込めながら。




