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きっとあなたは、姉さまを選ぶのでしょう?

作者: ヨルノソラ

 母上が亡くなってから三年、私の立場はどんどん家の中で曖昧になっていった。


 母上がいた頃は、私も確かにフェルナンデス家の一員だった。でも今は違う。家族でもなく、使用人でもない、どこにも属さない存在。朝の食卓でさえ、私は給仕をする側に回っている。


 その日も私はいつものように紅茶を注いでいた。これが今の私の居場所。


「リリー、もっと手際よくなさい。みっともない」


 長女──ルシアンヌ姉さまが、苛立たしげに声を上げる。金糸のような美しい髪を優雅に撫でつけながら、私を見下ろしてきた。


「申し訳ございません」


 私はそう答えながら、震える手でティーポットを持ち直す。

 次女──セラフィーナ姉さまは、冷たい微笑みを浮かべて私を見つめる。


「あなたがこの家にいる意味って、本当にあるのかしら」


 その言葉は、朝の空気を凍らせるように響いた。私は俯いたまま、ただ黙って紅茶を注ぎ続ける。


 反論なんてできるはずがない。だって、本当のことだから。


 オリヴェイラ伯爵家の三女として生まれた私は、姉たちとは何もかもが違っていた。栗色の髪はいつもぼさぼさで、そばかすだらけの顔は誰が見ても地味そのもの。華奢な体つきは病弱に見えるらしく、社交界でも「具合でも悪いのかしら?」と囁かれる始末だった。


 幼い頃は違った。母上は私をとても可愛がってくれて、「リリーの優しい心が一番美しいのよ」と言ってくれた。でも、母上が亡くなってから、父上は私をほとんど見なくなった。まるで、私が母上の死を思い出させる存在でもあるかのように。


 私が十五歳の誕生日の時、父上は言った。「お前には美貌も才能もない。せめて姉たちの足を引っ張らないよう、慎ましく生きなさい」。その時から私は、自分の価値を疑うようになった。


「今日は大切な知らせがあるそうよ」


 ルシアンヌ姉さまが優雅にナプキンで口元を拭いながら言った。


「ヴァルトライン公爵家から、正式な招待状が届いたのですって」


 セラフィーナ姉さまの瞳が、一瞬輝いた。


「まあ、ついに」


 二人の姉さまは顔を見合わせて、意味ありげな笑みを交わした。その笑顔は美しくて、眩しくて、私にはとても真似できないものだった。


 エルゼリア王国で最も権威ある公爵家──ヴァルトライン家の跡継ぎ、フレデリック様が花嫁を選ぶという噂は、数ヶ月前から社交界を賑わせていた。適齢期の令嬢たちは皆、その機会を心待ちにしていたはずだ。


 フレデリック・ヴァルトライン様について、私が知っているのはほんの僅かだった。二十歳で、王立軍事学校を首席で卒業した秀才。容姿端麗で剣術の腕前も一流。何より、領民思いで慈善事業にも熱心だと聞いている。完璧すぎて、まるで絵本の中の王子様のような方。


「リリー」


 ルシアンヌ姉さまが急に私の名前を呼んだ。


「はい、姉さま」


「あなたも一緒に来なさい。荷物持ちが必要ですもの」


 私はいつもこんな役回りだ。


「あと、馬車の中でドレスが皺にならないよう、気をつけて見ていてちょうだいね」


 セラフィーナ姉さまが付け加えた。


「かしこまりました」


 私は深くお辞儀をした。顔を上げると、姉さまたちはもう私のことなど眼中にない様子で、夜会の準備について熱心に話し合っていた。


 どんなドレスを着るか、髪飾りは何を選ぶか、宝石はどれが一番映えるか──。


 その華やかな会話を聞きながら、私は使用人たちと一緒に食器を片付け始めた。


 きっとフレデリック様が選ぶのは、ルシアンヌ姉さまかセラフィーナ姉さまのどちらかだろう。美しくて、教養があって、気品に満ちた姉さまたち。私なんて、比べるまでもない。


 でも、それでいい。私は私の場所で、静かに生きていければ。




 夜会まであと三日という夕方、私は自分の部屋──と言っても、屋根裏の物置を改造した狭い空間だけれど──で、姉さまたちのドレスの裾上げをしていた。


 この部屋は元々使用人部屋だった。でも母上が亡くなった後、父上が「リリーの部屋はここで十分だろう」と言って、私をここに移した。最初は辛かったけれど、今では静かで落ち着く。小さな窓から見える空が、私の唯一の慰めだった。


 壁には、母上が私に読んでくれた絵本が一冊だけ置いてある。いつも母上は言っていた。「どんなに辛くても、優しい心を忘れちゃダメよ。きっと、その優しさに気づいてくれる人が現れるから」って。


 子供の頃は信じていた。でも、今はただの御伽噺だと思っている。


 コツコツと扉を叩く音がした。


「リリー様、いらっしゃいますか」


 使用人のヘレンの声だった。彼女は母が嫁いできた時から仕えている、年配の女性だ。


「はい。どうぞ」


 扉が開くと、ヘレンは何か大きな包みを抱えていた。


「失礼致します。これを、リリー様にお渡ししたくて」


 包みを開けると、中から淡い青色のドレスが現れた。生地は少し古びていたけれど、丁寧に修繕された跡があった。


 そのドレスを見た瞬間、記憶がよみがえった。母上が着ていた、私のお気に入りのドレス。母上がこのドレスを着ると、まるで湖の妖精のように美しかった。私は小さな手でスカートの裾を触りながら、「お母さま、とっても綺麗」と言ったものだった。


「これは……」


「奥様が若い頃にお召しになっていたものです。こっそり直しておきました」


 ヘレンの顔には、優しい笑みが浮かんでいた。


「でも、ヘレン。姉さまたちに知れたら……」


「大丈夫です。奥様も、きっとお喜びになります。リリー様にこのドレスを着てほしいと、生前よくおっしゃっていましたから」


「でも、私には……」


 必要ない、と言いかけて、言葉を飲み込んだ。ヘレンの瞳に、何か強い想いが宿っているのを感じたから。


「せっかくの夜会です。綺麗な格好をしていた方がよろしいでしょう?」


 ヘレンはそう言って、私の手にドレスを押し付けた。


 ヘレンの真剣な表情に押されて、私は小さく頷いた。


「ありがとうございます、ヘレン」


 その夜、私は鏡の前でドレスを合わせてみた。


 確かに古い型だけど、私には十分すぎるほど素敵だった。淡い青は私の栗色の髪と意外に合っていて、そばかすも少しだけ目立たなく見える気がした。


 鏡に映る自分を見ながら、初めて「綺麗かもしれない」と思った。いつもは欠点ばかり気にしていたけれど、この瞬間だけは、母上の娘だと感じることができた。


 でも、すぐに現実に引き戻された。廊下から聞こえる姉さまたちの笑い声。明日は、彼女たちの晴れ舞台。私は単なる脇役でしかない。


 でも、これを着て行っても、結局は壁の花になるだけだ。誰も私なんて見ない。それでいい。姉さまたちの邪魔にならないよう、静かにしていよう。


 夜会の前日、屋敷は慌ただしく動き回っていた。


「リリー、私の真珠のネックレスはどこ?」


「リリー、このドレスのリボンが緩んでいるわ、直しなさい」


「リリー、お化粧品を取って」


「リリー、靴を磨いて」


「リリー、髪飾りの調子を見て」


 次から次へと要求が飛んでくる。私は屋敷の中を走り回り、姉さまたちの美を完璧に仕上げるために働いた。自分のことを考える時間など、一秒たりともなかった。


 午後になると、美容師や裁縫師、宝石商まで屋敷にやってきた。姉さまたちの部屋は、まるで王宮の化粧室のような騒ぎになった。


「ルシアンヌ様、このルビーのネックレスはいかがでしょう?」


「セラフィーナ様には、このサファイアのティアラが良く似合います」


 賞賛の声があちこちから聞こえてきて、私は隅の方で小さくなっていた。


 姉さまたちの要求に応えながら、私は自分のことなど考える暇もなかった。


 夜が更けて、ようやく姉さまたちの準備が整った頃、私は疲れ果てて自分の部屋に戻った。


 鏡を見ると、疲れ切った自分の顔があった。目の下にはクマができて、髪はぼさぼさ。でも、母上のドレスが私を待っていてくれた。


 そっとドレスに触れると、なぜか心が落ち着いた。明日は確かに、姉さまたちの日。でも、このドレスを着て、母上のことを思い出しながら、静かに夜会を見守ろう。それが私なりの参加の仕方なのかもしれない。


 明日は、姉さまたちにとって人生を変える日になるかもしれない。


 私にとっては、ただの付き添いの日。


 ベッドに横たわりながら、私は窓の外を見上げた。星が綺麗に輝いている。


 あの星たちも、きっと姉さまたちの幸せを祝福しているんだろう。





 ヴァルトライン公爵家の大広間は、まるで別世界のようだった。


 天井から吊るされた無数のシャンデリアが、きらきらと光を放っている。壁には豪華なタペストリーが飾られ、床は磨き上げられた大理石で、歩くたびに靴音が優雅に響いた。


 広間に足を踏み入れると、その豪華さに息を呑んだ。これまで参加した舞踏会とは格が違う。王宮のような煌びやかさ、音楽の美しさ、そして集まった令嬢たちの気品。すべてが完璧で、私のような者がいていいのかと不安になった。


「すごい……」


 思わず呟いてしまった私を、セラフィーナ姉さまが睨んだ。


「田舎者みたいな顔をしないで。恥ずかしいわ」


「も、申し訳ございません」


 私は慌てて俯いた。


 会場にはすでに多くの令嬢たちが集まっていた。皆、この日のために用意した最高のドレスを身にまとい、宝石を散りばめた髪飾りで着飾っている。


 見渡す限り、美しい令嬢ばかり。ある者は金髪を優雅に結い上げ、ある者は黒髪に真珠の飾りを散らしている。ドレスの色も様々で、深紅、紫、緑、金色──まるで花園のようだった。


 そして皆、自信に満ち溢れていた。堂々とした立ち振る舞い、優雅な笑顔、磨き抜かれた社交術。彼女たちは生まれた時から、このような場所に立つために教育されてきたのだ。


 特に、ルシアンヌ姉さまは深紅のドレスで、まるで薔薇の精のよう。セラフィーナ姉さまは紫のドレスで、神秘的な美しさを醸し出していた。


 二人とも、入場した瞬間から注目の的だった。


「オリヴェイラ伯爵家のご令嬢たちですね」


「まあ、なんてお美しい」


 賞賛の声があちこちから聞こえてくる。


 男性たちも、次々と姉さまたちの元に集まってきた。侯爵家の跡取り息子、男爵家の長男、騎士団の若き団長──皆、姉さまたちと言葉を交わそうと必死だった。


 ルシアンヌ姉さまは優雅に扇を扇ぎながら、男性たちの言葉に上品に応答している。セラフィーナ姉さまは知的な微笑みを浮かべて、詩や芸術の話で男性たちを魅了していた。


 私はと言えば、ヘレンがくれた淡い青のドレスを着て、できるだけ目立たないよう壁際に立っていた。髪は簡単にまとめただけで、アクセサリーも母の形見の小さなブローチだけ。


 でも、これでいい。私の役目は姉さまたちの付き添いなんだから。


 壁際から会場を見渡していると、使用人たちの大変さが目についた。重いトレイを運ぶ給仕係、楽器の調弦に追われる楽団員、会場の清掃に気を配る清掃係。皆、客人たちに完璧なおもてなしを提供するために、必死に働いている。


 私は自然と、彼らの手助けをしていた。こぼれた飲み物があれば拭き取り、疲れた楽団員には水を運び、重そうにしている給仕係には手を貸した。これが私にできる、唯一のことだった。


 音楽が流れ始め、ダンスが始まった。紳士たちが次々と令嬢たちを誘い、広間の中央で優雅に踊り始める。もちろん、姉さまたちにもすぐに相手が現れた。


 私は壁際で、その華やかな光景を眺めていた。


 本当に、おとぎ話みたい。でも、私には関係のない世界。


 ダンスの輪の中で、姉さまたちは光り輝いていた。ルシアンヌ姉さまの深紅のドレスがくるりと回転するたび、まるで薔薇の花びらが舞っているようだった。セラフィーナ姉さまの紫のドレスは、神秘的で優雅で、見る者を魅了した。


 私は彼女たちを誇らしく思った。これが、オリヴェイラ家の真の姿。私のような出来損ないがいても、姉さまたちの輝きは決して曇らない。


 飲み物を取りに行こうと振り返った時、誰かにぶつかってしまった。


「あ、申し訳ございません!」


 慌てて謝りながら顔を上げると、そこには──


 深い青の瞳が、私を見下ろしていた。


 黒髪に、端正な顔立ち。落ち着いた物腰の中に、どこか威厳を感じさせる佇まい。


 フレデリック・ヴァルトライン様だった。


 その瞬間、会場の喧騒がすべて消えた。まるで世界に私たちだけが取り残されたような、不思議な静寂。彼の瞳は深い海のように美しくて、見つめているだけで溺れてしまいそうだった。


 彼は思っていたよりも精悍に見えて、同時に大人の落ち着きを持っていた。噂で聞いていた完璧な美貌ではなく、もっと親しみやすい、温かみのある顔立ち。それなのに、気品と威厳は確かにそこにあった。


「いえ、こちらこそ」


 彼は優しく微笑んだ。その瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。


「君は……」


 フレデリック様は私の顔をじっと見つめていた。何か、探るような、確かめるような眼差しで。


「リリー・オリヴェイラ、だね」


 え? 


 どうして私なんかのこと知っているの? 

 姉さまたちならともかく……。


「え、は、はい。そうですけど……どうして……」


「三ヶ月前、街の広場で。君は濡れた子猫を抱いて、自分の外套で包んでいただろう」


 その瞬間、記憶がよみがえった。


 三ヶ月前の雨の日。私は使用人たちの買い物を手伝って、街に出ていた。突然の土砂降りで、皆、軒下に避難した時、小さな鳴き声が聞こえたのだ。


 見ると、雨に打たれて震える小さな子猫がいた。茶色い毛はずぶ濡れで、青い瞳が恐怖に震えている。私は迷わず駆け寄って、自分の外套で子猫を包んだ。


「大丈夫よ、大丈夫」と言いながら、近くの商店に子猫を預けた。自分はずぶ濡れになったけれど、小さな命が救えたことが嬉しかった。


 でも、まさか、あの時にフレデリック様がいたなんて。


「土砂降りの中、自分がずぶ濡れになっても、小さな命を守ろうとしていた君を見つけた」


 フレデリック様は呆然とする私を見ながら続けた。


「あの時、一目見たときから君のことが気になっていたんだ。勝手だけど、調べさせてもらった。オリヴェイラ家の三女、リリー。でも、社交界にはほとんど姿を現さない」


 私は顔が赤くなるのを感じた。


「招待状送っても来てくれないかと心配だったが、会えてよかった」


「え、えっと……」


「よかったら一緒に踊ってもらえないだろうか」


 突然の申し出に、私は目を見開いた。


 周りの空気が、一瞬で凍りついたのが分かった。視線が、一斉に私たちに集まる。


 会場がざわめいた。ひそひそと囁く声があちこちから聞こえてくる。


「あれは誰?」


「なぜフレデリック様があの子を?」


「きっとなにかの間違いよ」


 令嬢たちの視線が、針のように私に突き刺さった。嫉妬、困惑、軽蔑──様々な感情が混じった視線。


 楽団の音楽が一瞬止まり、ダンスをしていた人々も動きを止めて私たちを見つめた。会場中の注目が、私に集まっている。


 姉さまたちの顔が、信じられないという表情で固まっているのが見えた。


「あの、でも、私は……」


 フレデリック様は周りの視線など気にしていない様子で、ただ私だけを見つめている。


「私は君と踊りたい。他の誰でもない、君と」


 その言葉に、私の心は大きく揺れた。今まで誰からも求められたことなどなかった私を求めてくれている。


「もちろん無理にとは言わないが」


「い、いえ、そういうわけでは!」


「よかった」


 フレデリック様は柔らかく笑うと、私の手を取った。


 彼の手は、思っていたよりも温かくて、少しだけ荒れていた。きっと、剣術の鍛練や領地の視察で使い込まれた手なのだろう。でも、その手が私を包むように握ってくれると、不思議と心が落ち着いた。


「大丈夫」


 彼が耳元で囁いた。


 導かれるまま、私は広間の中央へと歩いていく。


 足が震えている。きっと、今にも転んでしまいそう。


 でも、フレデリック様の手が、しっかりと私を支えてくれていた。


 広間の中央に向かう数歩が、まるで永遠のように感じられた。周りの視線を浴びながら歩くのは、これが初めて。いつもは壁際にいて、誰からも注目されることなどなかった私が、今、会場中の注目を集めている。


 足音が大理石の床に響く度に、心臓の鼓動が早くなる。でも、フレデリック様の手のぬくもりが、私に勇気をくれた。


 音楽が流れ、私たちは踊り始めた。


 不思議だった。普段は不器用な私なのに、フレデリック様と踊っていると、まるで空を飛んでいるみたいに軽やかに動けた。


 フレデリック様のリードは完璧だった。私がどう動けばいいのか、体が自然に分かる。彼の手の圧力、体の動き、すべてが私を導いてくれる。


「上手だね」


「そんな、私なんて……」


「卑下することはない」


 彼の瞳を見つめていると、まるで催眠術にかかったみたいに、すべてを忘れてしまいそうだった。周りの視線も、姉さまたちの困惑も、この魔法のような時間の前では、どうでもよくなっていた。


「君は、とても美しい人だ」


 途中、彼が耳元で囁いた。


 その言葉を聞いた瞬間、私の頬が熱くなった。

 嘘だと思った。私なんて、美しくなんかない。でも、この瞬間だけは、その言葉を信じたかった。


 一曲が終わると、フレデリック様は深く礼をした。


「付き合ってくれてありがとう」


 そして、名残惜しそうに私の手を離した。


 音楽が止むと、会場は一瞬の静寂に包まれた。そして次の瞬間、ざわめきが沸き起こった。


「なによあれ」


「あの地味な娘が」


「フレデリック様ったら、なぜあんな子を」


 令嬢たちの声が、針のように私を刺した。

 私は夢から覚めたような気分で、元の壁際に戻った。


 周りの視線が痛い。特に、姉さまたちの視線が。


 ルシアンヌ姉さまの顔は青白く、握りしめた扇が震えていた。セラフィーナ姉さまは私を睨みつけて、唇を噛んでいる。


 でも、他の令嬢たちも同じような表情をしていた。嫉妬、困惑、軽蔑。皆、なぜ私がフレデリック様に踊っていたのか理解できないでいる。


 私にも分からない。でも、確かにあの時間は現実だった。手のひらに残る温もりが、それを証明してくれている。


 これはきっと、気まぐれだ。

 でも、手のひらに残る温もりだけは、確かに本物だった。




 夜会から帰る馬車の中は、恐ろしいほどの沈黙に包まれていた。


 ルシアンヌ姉さまの顔は青白く、セラフィーナ姉さまの瞳には冷たい炎が宿っていた。


 馬車の中で、時計の音だけがカチカチと響いていた。外の街灯が窓を通り過ぎる度に、姉さまたちの表情が浮かび上がる。ルシアンヌ姉さまは扇を握りしめたまま、震えを抑えようとしていた。セラフィーナ姉さまは窓の外を見つめているけれど、その瞳には怒りの色が宿っている。


 私は小さく息を殺していた。この沈黙が、嵐の前の静寂だということを知っていたから。


 屋敷に着くなり、二人は私を取り囲んだ。


「説明しなさい、リリー」


 ルシアンヌ姉さまの声が震えていた。怒りで。


「何をしたわけ?」


「私は、何も……」


「嘘をつかないで!」


 セラフィーナ姉さまが鋭く言い放った。


「どうしてリリーがフレデリック様と一緒に踊ってたのよ? 結局、フレデリック様はあれきり誰とも踊りもしなかったわ。私が誘っても、相手にされなかった」


 ルシアンヌ姉さまが続けた。


「ドレスも、髪飾りも、すべて完璧にして、この日のために練習もしてきた。なのに、あなたみたいな出来損ないが私たちの努力を、台無しにしたのよ」


「私たちの晴れ舞台を台無しにして。家の恥を、これ以上晒さないで」


 セラフィーナ姉さまが吐き捨てるように続けた。


 そうだ、私は家の恥。それは生まれた時から変わらない事実。


「申し訳ございません、姉さま」


 私は深く頭を下げた。


「フレデリック様が私と踊ってくださったのはただの気まぐれだと思います。本当に、はい」


「……っ。そんなの当たり前でしょ。癪に障るわね」


「なんで、リリーなんかが……」


 姉さまたちの視線は鋭く、痛かった。


 そして次の日から、姉さまたちの私への態度はさらに冷たくなった。


 食事の時も、私だけ別室で食べるよう命じられた。用事がない限り、姉さまたちの前に姿を見せることも禁じられた。


 でも、不思議と辛くなかった。あの夜の、一瞬の夢を思い出すだけで、心が温かくなったから。


 三日後、セラフィーナ姉さまが得意げな顔で戻ってきた。


「フレデリック様にお会いしてきたわ」


 ルシアンヌ姉さまが身を乗り出した。


「それで?」


「とても良い雰囲気だったわ。きっと、次の舞踏会では私を選んでくださるはず」


 セラフィーナ姉さまは頬を紅潮させていた。


「フレデリック様は私の詩の話にとても興味を示してくださったの。『君の感性は素晴らしい』とおっしゃって」


「まあ、それは良かったわね」ルシアンヌ姉さまが安堵の表情を見せた。「やはり、あの夜のことは気まぐれだったのね」


 二人は私を見て、意味ありげな笑みを浮かべた。まるで「ほら見なさい」と言っているようだった。


 二人は満足そうに微笑み合った。


 そうか、やっぱりそうなるんだ。


 私は自室に戻り、あの青いドレスを見つめた。もう、着ることはないだろう。でも、大切にしまっておこう。あの夜の思い出と一緒に。


 ドレスに顔を埋めると、まだかすかに夜会の香りが残っていた。音楽と、花と、そして……フレデリック様の香り。


 あの夜は現実だった。たとえ誰が何と言おうと、あの時間は確かに存在した。私は確かに、王国で最も高貴な男性と踊った。それは誰にも奪うことのできない、私の宝物。


 窓の外を見ると、星が輝いていた。あの夜と同じように。でも今夜の星は、なぜか寂しく見えた。


 その夜、使用人のヘレンが慌てた様子で私の部屋に来た。


「リリー様、大変です!」


「どうしたの、ヘレン」


「公爵家から、使者が来ています。リリー様にお会いしたいと」


 私の心臓が止まりそうになった。


「私に?」


「はい。間違いありません」


 ヘレンの顔には、興奮と不安が入り混じっていた。


 私は当惑しながら階下に降りると、公爵家の紋章を付けた使者が立っていた。


 姉さまたちも、蒼白な顔で並んでいる。父上も出てきていた。普段は私のことなど見向きもしない父上が、困惑した表情で私を見つめている。


「一体、何事だ」父上が使者に詰め寄った。


 使者は冷静に答えた。


「フレデリック様のご命令です」


 その一言で、場が静まり返った。フレデリック様の命令に逆らえる者など、この王国にはいない。


 使者は私を見ると、恭しく頭を下げた。


「リリー・オリヴェイラ様ですね」


「は、はい」


「フレデリック様からの書状をお預かりしています」


 震える手で受け取った書状には、たった一行だけ書かれていた。


『明日の午後、お会いしたい』


 書状の下には、公爵家の正式な印章が押されていた。これは間違いなく、フレデリック様からの正式な招待状。


 姉さまたちの顔が、見る間に青白くなっていく。父上も言葉を失っている。


「承知いたしました」私は使者に答えた。


「お伝えください。明日、お伺いさせていただくと」


 使者は深く礼をして去っていった。


 姉さまたちの視線が、針のように私に突き刺さった。


 でも、私にも分からない。なぜフレデリック様が、私なんかに会いたがるのか……。


 その夜、屋敷は騒然としていた。


 父上は書斎に篭って、何かを必死に考えている様子だった。姉さまたちは自室で、ひそひそと話し合っていた。使用人たちも、廊下ですれ違う度にひそひそと囁き合っている。


 私だけが、嵐の中心にいるのに、一番静かだった。


 明日、何が起こるのか分からない。でも、もう一度フレデリック様にお会いできる。それだけで、胸が高鳴った。




 約束の時刻になった。


 私は公爵家の応接室のソファに、浅めに座っていた。


 公爵家の応接室は、オリヴェイラ家のサロンとは比べ物にならないほど豪華だった。天井には美しいフレスコ画が描かれ、壁には歴代公爵の肖像画が掛かっている。家具はすべて一級品で、調度品の一つ一つが芸術品のようだった。


 私は緊張で手のひらに汗をかいていた。なぜフレデリック様が私を呼んだのか、まったく見当がつかない。時計の音だけが、静かに時を刻んでいた。


 程なくして扉が開き、フレデリック様が入ってきた。


「来てくれて、ありがとう」


 彼は優しく微笑んだ。あの夜と同じように。


 フレデリック様は夜会の時とは違う、シンプルな服装だった。でも、その気品と威厳は変わらない。むしろ、飾り気のない姿の方が、彼の本当の魅力を感じられるような気がした。


 彼は私の向かいのソファに腰を下ろした。


「リリー、君に聞きたいことがある」


「は、はい。なんでしょうか」


 私は背筋を伸ばした。一体、何を聞かれるんだろう。


「君は、自分のことをどう思っている?」


「自分のこと、ですか?」


「ああ」


 予想外の質問に、私は戸惑った。


 なぜそんなことを聞くのだろう。でも、フレデリック様の瞳は真剣だった。これは、単なる世間話ではない。彼は本当に、私の答えを聞きたがっている。


 私は正直に答えることにした。嘘をついても、意味がない。


「……私は……家の恥です。姉さまたちのような美しさも、教養もありません。出来損ないです」


「そう思っているのか」


 フレデリック様の表情が、少し悲しげになった。


「誰がそんなことを言ったんだ?」


「皆、そう言います。父上も、姉さまたちも、使用人でさえも」


 わずかな沈黙のあと、フレデリック様がはっきりと言った。


「君は出来損ないなんかじゃない」


 彼は立ち上がり、私に近づく。


「あの雨の日、君は誰に見られているとも知らず、小さな命を救った。その姿は、どんな宝石よりも輝いて見えた」


「でも、それは……当たり前のことです」


「当たり前?」フレデリック様は首を振った。


「そんなことはない。多くの人は、自分に関係ないことには目を向けない。でも君は違う」


「でも、それは……」


「そして夜会の時、多くの令嬢たちが私に近づいてきた。皆、美しく着飾り、完璧な笑顔を見せてくれた。でも、君だけが違った」


 え? そんなところまで見ていたの? 


「君の家族は、そんな君の価値に気づいていない。それが私には理解できない」


「フレデリック様……」


「君の姉たちは確かに美しい。でも、それは表面だけだ。君の美しさは、内側から溢れ出ている」


 そんな言葉をかけられるとは夢にも思わなかった。

 この人は、私を……私という人間を見てくれている。


「私は多くの令嬢と会ってきた」


 フレデリック様が言った。


「皆、完璧に教育され、美しく着飾り、魅力的だった。でも、君のような人には出会ったことがない」


 彼の瞳が、まっすぐに私を見つめている。


「リリー・オリヴェイラ」


 フレデリック様は片膝をついた。


 私の息が止まった。

 フレデリック様が、私の前で跪いている。王国で最も高貴な男性が、私なんかのために。


 彼の手が、小さな箱を取り出した。その中には、美しいサファイアの指輪が輝いていた。


「私の妻になってくれないか」


 これは夢? それとも、残酷な冗談? 


「なぜ……私なんかを……」


 声が震えていた。


「公爵として、領民のため、王国のために生きなければならない。でも、君となら、その重荷を分かち合える気がする」


 彼の手が、私の手を優しく包んでいる。


「私は君と、これからを生きてみたいと思ったんだ」


 涙が、頬を伝った。


「でも私には、何もありません。私なんかより姉さまたちの方が、きっと……」


「私は君がいいんだ。そして君に、これからは自信を持って生きて欲しい」


 フレデリック様は立ち上がり、私の涙を優しく拭った。


 私の中で何かが崩れ始めた。今まで積み重ねてきた、自分への否定的な思い。私は価値のない人間だという思い込み。すべてが、音を立てて崩れていく。


「幸せになる権利は、誰にでもある。君にも」


 その瞬間、私の中で何かが崩れた。今まで押し殺してきた想いが、溢れ出した。


「はい」


 小さく、でもはっきりと答えた。


「私をフレデリック様の妻にしてください」


 彼の顔に、心からの笑みが広がった。


 フレデリック様は立ち上がると、私の左手を取った。そして、あのサファイアの指輪を、薬指にそっと滑らせた。


 指輪は完璧にフィットした。まるで、最初から私のために作られたみたいに。


 私は指輪を見つめた。深いブルーのサファイアが、私の目と同じ色をしている。これは偶然だろうか。それとも……


「君の瞳の色に合わせて作らせたんだ」


 フレデリック様が微笑んだ。


「あの雨の日から、君の瞳の色が忘れられなかったから」


 私はしばらく、フレデリック様の顔を見れなかった。





 二日後、公爵家から正式な文書がオリヴェイラ伯爵家に届いた。


『次期公爵妃として、リリー・オリヴェイラを迎えたい』


 屋敷中が騒然となった。


 父上は書斎で文書を何度も読み返していた。


「信じられん……リリーが公爵妃に……」


 使用人たちは廊下で集まって、ひそひそと話し合っている。


「よりにもよってリリー様が……」


「でも、フレデリック様がお選びになったのだから」


「これで、オリヴェイラ家も安泰ね」


 屋敷の空気が、一変していた。昨日まで私を見下していた人々が、今度は恐る恐る私を見つめている。


 ルシアンヌ姉さまの泣き声が、屋敷中に響いていた。


「なぜ、なぜリリーなの? 私の方が美しいのに、教養もあるのに……」


 セラフィーナ姉さまは、自室から一歩も出てこなかった。使用人が食事を運んでも、扉越しに「放っておいて」と言うばかり。



 使用人のヘレンだけが、涙を流しながら喜んでくれた。


「やっと、リリー様の本当の価値に気づいてくださる方が現れたんですね」


 ヘレンは私の手を握りながら言った。


「奥様も、きっとお喜びになっています。天国から見守ってくださっていますよ」


 その言葉に、私も涙が出そうになった。母上は、きっと喜んでくれているだろう。私が幸せになることを、誰よりも願ってくれていたから。


「ヘレン、今まで本当にありがとう」


「何をおっしゃいます。これからも、ずっとリリー様のお側にいさせてください」


 ヘレンの涙を見ていると、私も嬉しくて涙が出てきた。


 荷造りをしながら、私は窓の外を見上げた。


 あの夜と同じように、星が輝いている。でも今度は、その光が私を祝福してくれているような気がした。


 荷物は意外と少なかった。大切な物といえば、母上の形見のブローチと、あの青いドレス、そして母上が読んでくれた絵本くらい。でも、それで十分だった。


 フレデリック様は言ってくれた。「君はそのままで美しい」と。だから、新しい服や宝石など必要ない。私は私のままで、彼の隣に立てばいい。


 窓から見える景色を、記憶に焼き付けた。この部屋で過ごした日々は、決して無駄ではなかった。ここで学んだ謙虚さ、優しさ、強さが、今の私を作ってくれたのだから。


 これから始まる新しい生活に、不安がないわけじゃない。公爵家の妻として、私にできることがあるだろうか。


 でも、フレデリック様が選んでくれた。私を、リリー・オリヴェイラという一人の女性を。





 結婚式の朝、私は鏡の前に立っていた。


 純白のドレスに身を包んだ自分が、まるで別人のように見える。髪は綺麗に結い上げられ、母の形見のティアラが優しく輝いていた。


 このドレスは、公爵家お抱えの仕立て師が作ってくれた。最高級のシルクとレース、無数の小さな真珠で飾られた、まさに芸術品のようなドレス。でも、私が一番気に入っているのは、胸元に縫い付けられた小さなブローチ。母上の形見を、ドレスの一部にしてもらったのだ。


 髪飾りも豪華だった。ダイヤモンドとサファイアで作られたティアラは、まばゆく輝いている。でも、その中に母上の形見も組み込んでもらった。今日の私は、母上と一緒に歩んでいくのだ。


「お美しいですよ、公爵夫人」


 ヘレンが涙ぐみながら言った。


 ヘレンは公爵家に一緒に来てくれることになった。フレデリック様が、「君を大切にしてくれた人も、一緒に大切にしたい」と言ってくれたのだ。


「奥様も、きっとお喜びです」


 鏡の中の私は、確かに美しかった。でも、それは外見だけではない。幸せという内側からの輝きが、私を包んでいる。


 私は今日から、ヴァルトライン公爵夫人になる。


 式場へ向かう途中、姉さまたちの姿が見えた。


 二人とも、複雑な表情をしていた。


 式場に入ると、そこにはフレデリック様が待っていた。


 彼の瞳に映る私は、確かに美しかった。そばかすも、栗色の髪も、全部が愛おしいと言ってくれる人がいる。


「美しいよ、リリー」


「ありがとうございます、フレデリック様」


「もう、様はいらない」


 彼は優しく微笑んだ。


「これからは、ずっと一緒だ」


 神父様の前で永遠の愛を誓いながら、私は思った。


 人生は不思議だ。ずっと日陰で生きていくと思っていた私が、今、光の中に立っている。


 でも、これは奇跡じゃない。フレデリック様は言った。私には最初から、輝く資格があったのだと。ただ、それに気づいてくれる人を待っていただけなのだと。


 指輪を交換し、誓いのキスを交わす。


 新しい人生の扉が、今、開かれた。


 そして私は、初めて心から、堂々と笑った。

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父親が一番理解不能で何故末娘を虐待していたのか理由が書かれていないのでその点が気になりました。 姉二人は父親の影響が大きかったのでしょうか? 性格が悪い外面だけの娘にはこれからどんな人と縁組みが待って…
ハッピーエンドは好きですけど、リリーが淑女として教育を受けていたのは母親が存命の間だけで、死別後は使用人扱いでしたよね。リリーは思いやりのある心優しい女性ですが、公爵夫人としてやっていくには優しいだけ…
んん? 父さんがよく分からない どういうつもりでそんな態度を? 姉さん2人は父がちゃんとしてたら、そこまで酷い態度にならなかったんじゃないかなぁと思った。 メインの2人は可愛らしくてとても良かっ…
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