8. 裁判
古びたドアを勢いよく開けて薫が事務所に飛び込むと、我が物顔で事務机に座っていた婚約者と間男が跳びあがった。衣服が乱れている。神聖な弁護士事務所で何してやがると薫の額に青筋が立った。
「ひっ、幽霊!」
語るに落ちたなと薫は顔をしかめた。
彼のことを死んだと思っているのは、この腐れ女と間男だけだ。
「お前たちに復讐するために地獄の底から舞い戻ってきたぜ」
ドラマでもとんと見かけない古びたフレーズも、あまりにも場面にぴったりすぎて薫は笑うに笑えなかった。
「薫、心配してたのよ、連絡もとれなくて」
佐代子はどうやら己の行いをなかったことにしてごまかすことにしたらしい。明らかに密着していた間男から慌てて距離を取る。間男は気まずそうに己の乱れた衣服を直していた。
「私はこの事務所の共同経営者でしょ。だから、あなたの不在を一番影響ないように振る舞う責任があったのよ。だから代理で所長をしていただけよ」
佐代子がこの事務所の所長の象徴である椅子から立ち上がる。
「へえ」
気のない返事に佐代子は傷ついたというような表情を浮かべた。
こうして見たらなんて芝居がかった態度だろう。こんなものに騙されていたなんて薫の生涯の汚点である。
「それじゃ、不貞行為を理由に婚約破棄な」
薫がにべもなく告げると佐代子は眉を跳ね上げた。
「不貞行為なんてしてないわ」
「おいおい、今更かよ。自分で言ったじゃないか。俺のことなんか愛してなかった。その間男のためにしたくもない恋人の振りをしていたのだと。この事務所の権利書がほしかっただけだってな」
「そんなこと言ってないわ」
佐代子が挑発的な笑みを浮かべた。
「言ったって証拠出してみなさいよ。街中と違って、あそこには監視カメラなんて存在してないんだからね」
彼女の自信はそれだった。
現代の司法の場は映像や音声などの証拠が大きなものをいう。監視カメラがあちこちにある故に、言った言わなかったなどのやり取りはあまりないのだ。
『確たる証拠を積み上げよ』
これは裁判の基本である。
「証拠ならあるさ。法廷で会おう」
薫が無表情にそう告げると、事務所の扉から複数の警察官が現れた。
「ちょっと!私たちは何もしてないわ」
佐代子が叫ぶが、警察官はチラリと薫の顔を見た後、無言で佐代子と間男を連行した。
「証拠を出しなさいよ、証拠を!!」
狭い廊下に彼女のヒステリックな声が反響した。
「やれやれ」
薫が肩をすくめる。傍らに立っていた小柄な少年がきょろきょろと珍しそうに事務所を見まわした。
「秋人くんが早く連れてきてくれたおかげで、事務所は無事だったよ」
そっと飴色に変色した木製の事務机を撫でた。
そこに座るのはこの香川弁護士事務所の所長だけに許された特権だ。
下手したら破壊されたり、持ち出されているのではないかと危惧していた内装も、まだ薫が事務所を出た3日前のままだった。
我が物顔でこの事務所にやってきて、事務員や他の弁護士を追い出したのだろう。そして、自分のものになったと言わんばかりに、この部屋で遊んでいたようである。
この机や椅子で佐代子とあの間男が何をしていたか考えると腹立たしいが、とりあえずそんな阿呆なことをやっていたおかげで、手続きされていなかったのだからよかったと思うことにする。アルコール消毒する必要はあるが。
しかし、後少し遅かったら、とてもではないが中学生に見せてはいけない光景を見せてしまうところだった。
薫は自分が児童虐待で訴えられる危機を回避できてほっとした。
「さて」
薫は所長の椅子に深く腰を掛ける。両手をあごの下に、肘をつき目の前の少年の目を覗き込んだ。
「俺は弁護士なので、君の依頼に応える。今日から俺は君の代理人だ。
君の失われた権利を取り戻そう。」
薫は悪魔のような笑みを浮かべた。
しかし、その前に連中にとどめを刺さなければならないのである。
案の定、連中は最強の弁護士を雇い、不当逮捕だなんだと文句をつけたらしい。証拠があると検察が突っぱねている状況だ。
確たる証拠はあるのだ。
だが、連中は納得しないだろう。
何もかもスピードアップしている現代で、彼らが捕まってから2週間後に裁判が開かれた。
基本的あまり有罪無罪を判定することがないのが現代の裁判だ。なにしろ、ダンジョン以外では監視カメラがあちこちに設置されている。これは何時、何処にダンジョンが現れるか分からない現代には必須の環境がもたらしたものだ。
だが、これは人々が予想もしてなかった効果を生んだ。
殺人も窃盗も難しい世の中になったのだ。町中のいたるところで音声と映像が採取されており、それが証拠としていつでも取り出し可能という状態で、中央のAIに送られている。
そんな状況での殺人や窃盗など不毛すぎた。
犯罪はもっとわかりにくい電子的な犯罪や世論を操った社会的抹殺などの方へシフトしていった。
だからこそ、殺人未遂で逮捕などという事件はもの珍しさもあり、マスコミの格好の餌食だったのだ。
連中の側に立っている弁護士はそのあたりの世論の形成がうまい、やり手のベテラン藤堂隆だ。「現代ではありえない無実の罪」「証拠もない検察の暴走」「冤罪」などのパワーワードが連日ワイドショーをにぎわせた。
しかし、情報不足である。やり手なら、もう少し相手を調べるべきだったな。と薫はほくそ笑んだ。
検察官が薫の顔を見る。司法試験を一緒に受けた同期である。
「頼むぞ、神崎」
同期のこの男は倉田といい、真面目で正義感に溢れたいい男で、司法試験にせっかく受かったのに公僕になるなどという信じられないお人よしだ。
その彼が厳しい表情で薫を見つめた。彼が己のキャリアを賭けてくれていることを薫は知っていた。
「まあ、任せておけ。これでもだいぶ練習したんだ」
「お前が?」
「そう、俺が」
途端に不安になったらしい、倉田の眉が八の字に下がった。練習、努力、訓練などの熟語は薫の行状からは結び付かない最たるものだ。
「大丈夫、大丈夫」
ぐっと親指を立てる薫に、倉田は不安そうにため息をつき一つ頷いた。
「私は薫と婚約しました。その時に事務所の共同経営者にもなってほしいと言われました。自分だけではまだ不安だと。それなのに…」
佐代子が悲劇のヒロインのような悲し気な顔で語る。
「彼は私が彼の事務所で働いているのにお給料も払わず、私を搾取しました」
両手を握りしめ、佐代子が肩を震わせた。
「新しく弁護士を雇うとお金がかかるから、ちょうどよかったと言いました。それ以外にも女のくせに生意気だとか、家事をは全部お前がしろとか女性蔑視を繰り返しました」
観覧席の女性記者がものすごい勢いでキーを打っている。ライブで配信しているんだろうか、後で泣きを見るからやめておいた方がいいのになあと薫は他人ごとのようにその光景を眺めていた。
「あまりにもひどい扱いに私、誰かに相談したくて…兄の伝手をたどって城島さんに相談していたんです」
間男の名前は城島というらしい。
薫は覚えたいものに関しては一目見ただけで覚えられるが、興味がないものに関してはさっぱり記憶に残らない特殊な記憶力の持ち主なので、ここで初めて間男の名前を知った。
「そうして、薫は相談しているところを盗み見て、一方的に不貞行為と言い、婚約を破棄すると言ってきたのです」
ハラハラと佐代子は涙を流した。美人の涙に法廷はいっきに同情一色に染まった。
「彼は僕らが共謀してダンジョンで崖から突き落としたなんて証言しているみたいですが、それはただの妄想です」
城島は自信満々にそう嘯いた。
「この現代にそんな殺人を犯す人間がどれほどいると思いますか?監視カメラが常に周囲を囲んでいるのです。そんな環境で殺人事件など起こせるはずがありません」
大きな身振りで城島は肩をすくめた。
「ダンジョンに連れていくまでに警察に捕まりますよ」
城島の言うことはもっともだ。しかしこの場合は簡単だった。
薫は呼び出されたのだ。
他ならぬ殺人犯の佐代子に。
だから、己の足でそこへ向かった。監視カメラに不審な映像なんてない。彼は婚約者が「依頼人の証言のためにダンジョンに行く必要があるんだけど、怖いから付いてきて」という要望に、不覚にも頷いてしまっただけである。
そして、何の警戒もなく、佐代子に呼び出され、のこのこ現れた薫を後ろから城島が襲った。
頭を殴られ身動きできない薫を城島と佐代子はあざ笑い、崖から突き落としたのだった。
なんてシンプルで単純な犯罪なんだろう。
こうも簡単に人が殺せることに薫は戦慄を覚えた。
そこから幾人か城島が佐代子から相談を受けていたなどの証人や、給料未払いの明細などが提出された。
給料に関しては当然である。佐代子はまだ薫の事務所で働いていなかったからだ。
他の事務所に所属しており、結婚と同時に事務所を移籍しようという話になっていた。
共同経営者というのも佐代子が言い出したことだった。
「あなたが健康上何かあった時の保険みたいなものよ」
という佐代子の言い分を、もっともだと思い契約を交わした。
ただし、薫の身に何かあった場合以外は何の権利もないという条件付きだった。
だから、何も払っていないのは当然である。しかし、そんな覚書の控えごと事務所から消えていた。おそらく、どこかのタイミングで佐代子が捨てたのだろう。
「さて、検察はしきりに証拠はあると言い続けておりますが、一切発表されておりません。」
やり手弁護士藤堂氏は倉田を小馬鹿にした風にそう告げた。
「いい加減、その確たる証拠とやらを見せていただきたいものです」
こちらも芝居がかっている。薫は薄く酷薄な笑みを浮かべた。
藤堂の鼻をへし折るのはいつも師匠の役目だった。これで名実ともに薫が後継ぎだと法曹界に宣言できるのである。本当に彼が連中の弁護を受けてくれてよかった。
同期の金に汚いが超が付く優秀弁護士に最初お願いしたらしいが、にべもなく断ったんだそうだ。さすがによく調べている。
そう、きちんと業界紙に目を通していれば、おそらく藤堂だって弁護を受けなかっただろう。薫はニヤリと笑った。