3. 邂逅
とにかく、水である。
水がなくては生きていけない。
しかし、都合よく水筒なんぞ持っているわけもない。ごそごそとあちこちのポケットを探る。出てきたのは財布、名刺入れ、水浸しのスマホである。
当然電源は付けたらアウトだ。乾くまで電話はかけられない。そもそも、ここから電波が届くとはとうてい思えないが。
「今何時だろう?」
スマホで時刻を見ることはできないが、薫はどんなGにも耐えられるので有名なデジタル時計をしていた。
貧乏くさいと佐代子には不評だったが、これは親が最後にくれた誕生日プレゼントだった。何度も電池を変えて使っている。
「すごいな、本当に壊れてない」
ほんのりと光っている文字盤を覗くと、どうやら落ちてから24時間を超えているようである。
「まずい、早くしないと」
現代日本では割と簡単に死亡届が出せる。最短での承認期限は行方不明から3日だった。
ダンジョンが現れると死体を探すことなどできないからだ。後から出てきたら戸籍を復活させればいいということで、とりあえず死亡を届けてしまい、相続などの問題を解決するのが最近のセオリーだった。
しばし考えた後、薫はジャケットとネクタイを水につけ、少し絞っただけで持ち上げた。
師匠が弁護士の初仕事の祝いに誂えてくれた一番大切なスーツだったが、仕方ない。それを惜しんで死ねば本末転倒である。
生きて帰った暁には連中に対する損害賠償の中にこのスーツのクリーニング代も含めてやろうと薫は心に誓った。
警戒しながら大きな広間を抜け、上っている道を歩き出した。竪穴なので上が出口なのは間違いない。ならば上に向かっている道が地上へ向かう通路だろう、そう結論付けた。
カツン、カツンと靴音が響く。
自分がぶつかって死なせた巨大モンスターの骨を打撃武器として片手に持ち、水で濡らしたジャケットを背中に括り付け慎重に歩いていく。
亀のような歩みだったが弁護士業は頭脳労働だ。荒事には慣れていないのである。薫は運動神経にはそれなりに自信があったが、それとこれは別だ。
ボールが上手く蹴れるから、速く走れるからといって、怪物を退治できるわけではないのだ。
のろのろと進みながら、薫は自分に言い聞かせた。
焦りは禁物であると。
しかし、それが通路の反対から現れた時、薫は咄嗟のことに動けなかった。
手の中で唯一の武器が粉々になったことも、自分が吹き飛ばされて壁に激突したことも、濡らしたジャケットがわずかなクッションになって大きな怪我を免れたことも、あまりにも一瞬すぎて分からなかった。
薫は慌てて体制を整えようとしたが、それは目にもとまらぬ速さで何か光るものを自分に振りかざした。
「殺さないで!!」
薫は咄嗟に叫んだ。情けなく身も世もなく悲鳴を上げた。
死ぬ覚悟なんぞできてなかったから、その死神に願った。モンスターが人の言葉を聞き分けるはずなんてないのにである。
しかし、その影は慌てて振りかざしたものの切っ先をずらした。
薫の横の壁が大きく抉れる。それを見て、薫は腰が抜けて無様に座り込んだ。失禁しなかったのが奇跡である。
恐怖で見あげたその先には小柄な人影が立っていた。
顔中に「困惑」という表情を浮かべている人間だった。ダンジョンにいる人間は本来なら一種だ。
「…探索者ですか?」
震える声で薫は尋ねた。その人物はこっくりと首肯した。
「た、たすけて、ください」
涙が目尻からあふれる。さきほど人の善意などあてにはならないと己に言い聞かせたことなどすっかり忘れた。
薫はもう精神的に限界だった。自分よりかなり若い相手に、身も世もなく縋って泣き叫んだ。
「助けて!お願い!!助けてください!!」
嗚咽で言葉が出ない。しかし、そんな混乱した薫に対して、相手はそっと薫に近づき、今度は大きく頷いてくれたのだった。
それを見て、薫はおおいに安堵した。
子供のように泣きじゃくった後、ようやく一息ついた薫を、その人は元の広間に連れて行った。
曰く、そこは階層ボスの広間なのでボスモンスターがリポップするまでは他のモンスターが出てこないそうである。
彼は(彼であっているか不明なのだが)、確かな足取りで薫を導き、広間を見て愕然とした顔をした。
「ここのボスをどうやって倒したんですか?」
探るような目。慌てて薫は両手を挙げた。
「上から落とされたんだよ。それでたまたまそれの上に落ちたんだよ」
そういう薫に対して、彼は今度こそ呆れたような表情を浮かべた。
「56階層ですよ、ここ。最下層です。」
「えっ」
「普通死にますよ」
「いや、でも、生きてるし、いや、え?生きてる?かな俺?」
自分が56階から落ちて生きているというのは確かに信じられない。
目を覚ました時にもしかしたらモンスターに生まれ変わったのではないかとか思ったが、そのことを話すと 彼は首を振った。
「モンスターなら僕はすぐにわかります」
「ですよね」
薫は羞恥のあまり俯いた。専門家を前にあまりにも情けない質問だった。
そんな薫には目もくれず、彼はモンスターの残骸や体液を調べて一つ頷いた。
「ボスが今回はキングホーリースライムだったからか…」
彼が言うには、そのスライムは巨大で、5階建ての建物ほどある大きさのスライムなのだが、体液が超回復ポーションなのだそうだ。
ここのボスは巨大なスライムであることは変わらないが、リポップのたびにいろいろな種類に変化するらしい。
今回はたまたまホーリー系だったのだが幸運だった。
薫は確かにキングホーリースライムの上に落下したのだが、その衝撃のほとんどはスライムが緩和してくれた。
それでも、おそらくあちこち骨折や内臓破裂をしていただろうけど、死んでいなかったのでスライムの体液で回復できたかららしい。
これがもし首の骨でも折っていたら即死だっただろうとも。
突き落とされたまま背中を下に顔を上にしていたことで、落下の恐怖に暴れたりすることなく綺麗な姿勢でぶつかったことが、彼を生かしたようである。
「すごく運がいいですね」
彼の言葉に苦笑いしか返せなかった薫だった。