2. 豪運の薫
神崎薫は「豪運の薫」と呼ばれている。
中学生の時、ダンジョンの顕現により両親と弟を失った。その時、薫だけが部活の表彰で大阪に行っていたので死ななかったのだ。
帰ってきたら何もなかった。家があったであろう場所は瓦礫の山で、ただ茫然と立ちつくすことしかできなかった。
家も学校も、それどころか街全体が廃墟となり、その光景は5年ぶりの大惨事として全国に報道された。
親が自分たちに多額の保険金をかけていたのを知ったのはその時だ。
通常、ダンジョン顕現に巻き込まれた場合は普通の生命保険の半分しか適応されないのだが、一部の高額な保険は満額適応される。
保険の外交員をやっていた母の影響で、その「お高い」保険に入っていた神崎家は、かなりの保険金を薫に残した。そして、その遺産を掠め取ろうなどという親戚もいなかった。
両親はともに地元の人だったので親戚一同ほぼ全滅だった。彼らの遺産の幾ばくかでさえ、薫が相続することになったくらいだ。
彼は隣町の施設で生活することになった。
震災孤児となった薫が不自由なく大学まで行けたのは遺産のおかげである。
師の遺産を受け取った時の相続税も、その資金をもとにした投資で得た利益で賄えた。
その他にも、大学受験でインフルエンザにかかり受験が不可能かとなった時、受けようと思っていた大学の近くでダンジョンが発生し受験が延期されたり、絶対負けると言われていた裁判で証言者が現れたり、動かぬ物的証拠が出てきたり…など、彼の周りの人は畏怖をこめて彼のことを「豪運の薫」と呼んでいた。
「女を見る目はなかったけどな」
ぼそりと薫は呟いた。
体中が痛い。痛いが生きている。もしかしたら、噂のアンデットにでもなったのだろうか、薫はそう思った。化けて出てやるとあれほどまでに呪ったからダンジョンが応えてくれたのだろうか。
そう思って痛む体を恐る恐る起こすと、薫はあたりを見渡した。
「どこだ?」
薄明りのもと目を凝らす。広々とした空間が広がっていた。
ダンジョンの中は一部の環境を除いてほの明るいというのは一般常識である。薫はそろそろと起き上がった。
足元が濡れていた。いや、自分も濡れていた。全身何かの液体でぐっしょりと濡れている。
上を見あげる。はるか先まで岩壁が続いている。かなりの距離を落下したのだろう。上は見えない。遠く小さな白い点がある。もしかしたらあれが外からの光なのかもしれない。
「だとしたら、ここは死後の世界ではなそうだ…」
薫は四つん這いから慎重に立ちあがった。
「なんだ、これ」
紫色の液体の水たまりの中に薫は居た。彼の衣服も紫色のツンとした匂いの液体で濡れている。彼の周りには何かの残骸がごろごろと転がっていた。
「マジか」
思わず額に手をあて薫は呻いた。
どうやら自分は巨大なモンスターの上に落下したらしい。モンスターがどんな種類かまでは分からないが、柔らかいものだったのだろう。
しかし、遥か上から落ちてきた成人男性の重さは一種の爆弾並みの破壊力を持っていたのでモンスターを一撃で粉砕したらしい。
おそらくこの液体はモンスターの体液で、周りに転がっているのは骨とか外郭とかそんなものだろうと薫は結論づけた。
「前からおかしいと思っていたけど、俺の運、真面目におかしくない?」
そうつぶやく。もしかしたら、死んだ家族が守ってくれているのかもしれないと、ふとそんな風に思った。
自然と手を合わせる。両親や死んだ弟の顔はすでに朧気で思い出せないが、柔らかな空気感だけはまだ少し覚えがある。
「ありがとうな」
必ず生きて地上に帰るのだ。薫はそう誓った。
とりあえず、あたりを散策する必要がある。薫はゆっくりと歩きだした。
まだ体中が痛い。そりゃあの距離を落ちてきたのだ。どんな柔らかいモンスターだって相当な衝撃だっただろう。普通死んでる。木っ端みじんのはずである。
それをこの程度の痛みで済んでいることがそもそもおかしいのだ。
薫は己の頑丈さに感謝した。
辺りは薄く光る苔で照らされており、薫はすぐ近くの大きな湖を簡単に見つけることができた。
そっと覗き込むと透明な水が湛えられていた。おそらくモンスターは水を飲みにきたのだろう。いや、ダンジョンのモンスターが水を飲むかは知らないけど…薫は己の思考に突っ込みを入れつつ、水に少しだけ指を付けた。
ダンジョンの中には強い酸性の水があったりすると学校で習った。それを警戒してのことだったが、水は特に何も痛みを与えることはなかった。
「飲めるか?」
恐る恐る両手で水を掬う。生水を飲むのはどうかとか、ダンジョンの水を検査もなしにとか思うことがないでもないが、飲み水がなければ生きていけない。
薫は意を決して口を付けた。
まるで甘露のようだった。
水は甘く、体中に染み渡った。砂漠で遭難した人がオアシスの水をむさぼるように薫は水を飲んだ。
「ぷはー」
もはや遠慮のえの字もない。頭ごと湖に顔を突っ込む。モンスターの体液でべとべとだった不快な感触がなくなった。
もうこの際誰も見てないわけだし、服のまま薫は湖に飛び込んだ。波紋が湖の奥まで広がっていく。水音以外何も音がしない大きな広間のような場所で、ひたすら薫は水浴びし続けた。
どれくらいそうしていただろうか。
ふと我に返った。
水があったことに浮かれていたが、ここはおそらく新宿第三ダンジョンのかなり深層だろう。水があれば助かるなんてものではないのだ。
食べ物もない
出口までどれくらい距離があるのか分からない
いや、そもそもこの階層のルートはすら知らない。
武器もなく、モンスターがどんな種類が出るのかも分からない。
探索者と呼ばれる異能者たちとは違い、己は一般人である。当然魔法も使えない。
「積んでる」
薫は顔を伏せた。絶望がじわりと心の端から広がっていった。
探索者とはダンジョン攻略を専門とする人々のことである。
彼らは特殊な技能をもち、武術や魔法を使える。別段特殊な生まれをしているわけじゃない。
ダンジョンで24時間過ごすとジョブが与えられる。そのジョブによって様々な魔法や武術が付与される。このジョブがモンスター退治に向いていた人々が「探索者」と呼ばれる、いわば迷宮攻略のエキスパートとなるわけである。
ダンジョンはある日突然現れる。空中に空間の歪みが発生し、そこからモンスターを一定数吐き出す。その後「安定」する。その中を探索者たちは攻略していく。
ダンジョンにはその内包している魔力やモンスターの強さなどでAからEの等級が付けられる。
攻略の難易度が難しいのがAランク、簡単なのがEランクである。A、B、Cに関しては探索者たちが力を合わせてダンジョンを閉鎖させる。
ダンジョンには迷宮核というものがあり、これを引っこ抜く、あるいは破壊すればダンジョンは閉鎖できる。
DとEに関しては、モンスターを退治しながら存続させる場合が多い。
ダンジョンは資源の宝庫である。金銀、宝石だけでなく希少金属やダンジョン固有金属を生む鉱床があることも多く、ダンジョン内で退治できる魔物の核は魔石と呼ばれ、加工すると石油の代わりに電気を起こすことができたり、特殊な魔道具の動力源になったりする。
いわば、天然の鉱山だ。
存続させたダンジョンは定期的に中のモンスターを間引く必要がある。
これを行っていないとダンジョンブレイクをおこし、ダンジョン外にモンスターが排出され、一般人を巻き込む大惨事になる。薫の家族が死んだときも主にはこれが原因だった。
今薫がいる新宿第三ダンジョンはCなのに存在させている珍しいダンジョンだ。
それには二つの理由がある。
まず、希少金属の中でも一番利用価値のあるオリハルコンの大規模鉱床が比較的入り口近くにあること。そして、珍しい竪穴式ダンジョンなので、内部の通路が狭く、ダンジョンブレイクを起こしにくい形状であることが主な理由である。
人口が日本で一番多い東京のど真ん中にあるので、探索者の数も多く、間引きが頻繁に行われることも大きな要因だ。
「探索者がここまで降りてきているだろうか」
もし出会えることができれば助けてもらえるだろうか。
探索者を雇うのには多額の資金が必要だと聞いたことがある。
めったにないが企業や個人が探索者を雇って特定の資源やモンスターが倒されるときに発生するドロップアイテムを確保してもらうこともあるらしい。
「たぶん、大丈夫だよな」
ダンジョン法では救助を求める人を故意に見殺しにすることは違法となっている。
薫は頭の中に叩きこまれている比較的新しいこの法律のいくつかを思い出し、一般人がダンジョン顕現に巻き込まれて助けを求める場合は、無償でこれを救う義務があるという一文を思い出した。
おそらくこれが適応されるはず、いや、今回はダンジョン顕現ではないが人道的にみて自分を見捨てるのはあり得ないだろうと薫は思い、そして自分がなぜこんな 地の底にいるかを思い出した。
「今更人道に期待とかないわー」
ここに放置されたとしても、そのことを一体だれが証言してくれるというのだろう。
自分が野垂れ死に、その死体はダンジョンに吸収され、大切なものはあのろくでなしどもに奪われるだけである。
「そんなことには絶対にさせない」
勇気を奮い立たせる。
いつまでも水浴びしている場合ではなかった。早く地上に帰って連中の魔の手から事務所を守らなければならない。
共同経営者ですと澄ました顔で、あのクソ女が違法な書類をでっちあげ、間男に売り払う前にどうにかして地上へ帰らなくてはならないのだ。
薫は己の運に賭ける。ここまでそれで生きながらえてきたのだ。行けるはずだ。
薄暗い通路の先をゴクリと唾を飲み込んで見つめた。