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第三話:闇の輪郭

 芝浦の旧倉庫街は、昼間でも人通りが少なく、海風にさらされたコンクリートの壁が無機質な音を反響させていた。

 午後二時五十五分。

 零と玲奈は倉庫群の一つ、鉄扉の前で立ち止まっていた。

「……準備はできてる?」

 玲奈は小さく頷いた。

「いつでも動ける」

 彼女の声に迷いはなかった。

 だがその目は、どこか張り詰めた糸のように危うい。

「もし何かあったら、すぐに逃げろ。合図はこれだ」

 零は指を二回鳴らし、三回目で沈黙する。

「わかった」

 無言で頷き合い、二人は扉を開いた。

 倉庫内は暗く、埃の匂いが漂っていた。

 天井近くの小さな窓から差し込む光の筋が、床のコンクリートに一本の影を作っている。

 その中央に、一人の男が立っていた。

「来たか」

 声は低く、抑制された怒りのようなものが混じっていた。

「データは?」

 玲奈は無言でUSBを差し出す。

 男はそれを受け取ると、携帯型の端末に差し込んだ。

 数秒の沈黙。

 そして、小さく息を呑む音。

「……これは、本物か?」

「信じるかどうかは、あんた次第。ただ、一つだけ言っておくわ」

 玲奈の声が少しだけ揺れた。

「これは、死人が遺した最後の証拠よ」

 男は顔を上げた。

 その目の奥に、一瞬だけ恐れのような色が浮かんだ。

 その頃、倉庫の外では、無音の影が地を這うように広がっていた。

 周囲の路地、貨物コンテナの死角、閉ざされた通用口の背後――

 そこには既に、黒服の男たちが静かに布陣していた。

「配置完了。対象、倉庫内にて接触中」

 通信機越しの報告に、神原の冷ややかな声が返る。

「突入許可はまだだ。……奴らが何を掴んでいるか、それを見極めろ」

 内調の実行部隊は、ただの処理屋ではない。

 監視と回収、そして“帳消し”を担う――“無かったことにする部隊”だった。

 倉庫の入り口近くのスナイパーポイントでは、一人の男が銃口を構えていた。

「照準、固定済み。……指示を待つ」

 倉庫内。玲奈が差し出したUSBの内容を確認した男は、深く息を吐いた。

「……こいつは、確かに本物だ」

 だが、その声に安堵はなかった。

「これを持って帰れば、俺は生きて帰れない。……それぐらいの話だ」

 零が一歩前に出る。

「なら、どうする気だ?」

 男はしばし沈黙したあと、ポケットから紙の地図を取り出して玲奈に渡した。

「ここに、ある“空白の帳簿”が保管されてる場所がある。これとセットで出さなきゃ意味がない」

 玲奈は目を細めて地図を見つめた。

「この場所……」

「行くなら今夜が限界だ。明日には消える」

 零と玲奈が顔を見合わせた。

 その瞬間、外の物音が変わった。

 細かく、規則的な靴音。

 誰かが、動いている。

「包囲されてる……!」

 玲奈が地図を握りしめたまま声を上げる。

 零はすぐに倉庫内の裏口へ目をやった。

「このままじゃ全員捕まる」

 男は首を横に振った。

「俺はここまでだ。行け、あんたたちは……真実を持って逃げろ」

「そんな——」

「いいから行け! 情報はもう渡した。……動け、今しかない!」

 零は玲奈の腕を引いた。

「行くぞ、玲奈!」

 鉄扉を蹴るようにして開け、二人は薄暗い非常通路へ駆け出した。

 その背後で、男の姿がゆっくりと倉庫の中心に戻っていくのが見えた。

「……さて、演出でもしてやるか」

 彼の手が懐の小型爆薬に伸びる。

 零と玲奈が非常通路から外に出た瞬間、背後で地響きのような音が響いた。

「っ……!」

 倉庫の金属外壁がめくれ上がり、爆風とともに黒煙が夜空へと噴き上がる。

 玲奈は思わず振り返った。

「……あの人、まさか……」

 零はその手を強く引き、声を張り上げた。

「見るな! 今は、生き残る方が先だ!」

 破片が降り注ぎ、周囲は混乱に包まれていく。

 その混乱の隙を縫って、二人は闇の中を駆け出した。

 だが、ビルとビルの間の細道に差し掛かった瞬間。

「……そこまでです」

 低い声と同時に、二人の前後を黒服の男たちが塞いだ。

「回収対象、月影 零および佐木島 玲奈。抵抗は無意味です」

 玲奈が後ずさる。零は無言でポケットに手を伸ばしかけ——

「動くな。武装は確認済み。即時無力化も可能だ」

 沈黙の中、玲奈の手の中の地図が震えていた。

「……どうするの?」

「……切り抜ける」

 零がわずかに膝を曲げ、タイミングを見計らう。

 その時、遠くでサイレンの音が近づいてきた。

「所轄の警邏だ。騒ぎを聞きつけたな……!」

 黒服たちの動きがわずかに乱れた、その瞬間。

「今だ!」

 零と玲奈は左右に分かれて飛び出し、交差する形で敵の視線を散らす。

 狭い通路を抜けた先、下水道への非常口。

 玲奈が蓋を開け、零がその後に続いた。

 鉄の蓋が閉じられる直前、暗闇に吸い込まれるように二人の姿は消えた。

 地下鉄の遺構を経由し、二人が辿り着いたのは港区の一角にある古い民間倉庫だった。

 地図に記された鍵付きロッカーの番号を頼りに、彼らは鉄製の保管庫を探し出す。

 零が古びた南京錠を工具でこじ開け、中から現れたのは防湿ケースに入った一冊の帳簿。

 封筒の表には、手書きでこう記されていた。

『第〇〇期 特別会計補助記録 ──非公開保留分』

「これが……“空白の帳簿”」

 玲奈が息を呑む。

 ページをめくると、企業名、口座番号、入出金の記録、そしてそこに紐づく“架空名義”の連続。

「この名前……財務官僚の家族名だ」

 零の声が震えていた。

「それだけじゃない。これ……日銀と直通の記録だ」

 玲奈がページをめくる手を止めた。

 そこには、過去に不審死した政治家の名前が記載されていた。

「……繋がった」

 二人は顔を見合わせた。

 その瞬間、倉庫の外で何かが鳴った。

 無線か、通信機か——

 緊迫が、再び迫っていた。



 空白の帳簿を手に入れた翌朝。

 零は、かつての上司であり数少ない信頼できる人物――警視庁捜査一課の古参刑事・大崎と会った。

 場所は人目の少ない都内の古書店の二階、表向きは倉庫のような場所だった。

「……久しぶりだな、月影」

「すみません。こんな形で頼ることになるとは思ってませんでした」

 大崎は手に持った紙袋を机に置き、いつものように缶コーヒーを二本差し出してきた。

「例の件か。内調が動いてるってのは、こちらにも少しずつ聞こえてきてる」

 零は無言で頷き、手帳から数枚のコピーを差し出した。

「帳簿の一部です。……ここに、日銀の直通ルートと、架空名義の一覧がある」

 大崎は目を細めた。

「……おい、これ、本当に扱っていいやつか?」

「俺はまだ警察を信じてるつもりです。ですが、それを試されてる気がするんです」

 大崎はしばらく黙ってから、小さく笑った。

「変わらないな、お前。正義感だけで突っ走って……でも、そこが一番信用できる」

 そう言って、資料を封筒に戻した。

「とりあえず、こっちで預かる。……ただし、何があっても、俺の名前は出すなよ」

 その言葉に、ほんの一瞬だけ違和感が残った。

 その日の午後。

 零のスマートフォンが鳴る。

 画面には「警視庁広報連絡室・赤沢」の文字。

「月影さん、お疲れさまです。今回の一連の事件に関して、本部から連絡事項があります」

「……どういう内容ですか?」

「例の爆発事件、および不審者の件につきまして、佐木島 玲奈という女性についての行方確認を、公安部の方で正式に要請しております」

「行方確認……?」

「はい。あくまで“確認”です。……保護も含めて、ですから」

 言葉の調子は丁寧だったが、どこかに濁りがあった。

「……了解です。対応は、こちらで引き継ぎます」

 通話を切った後、零は机に手をついたまま深く息を吐いた。

(“保護”じゃないな。……回収だ)

 誰がどこまで敵なのか、もう判断がつかない。

 だが、あの帳簿と玲奈を守れるのは——今、他に誰もいない。



 翌朝、零は本庁舎の端末から警察内部の情報共有ログを確認していた。

 その中に、気になる動きが一つあった。

「……あれ? この件、まだ内部報告前のはずだろ」

 零が提出したばかりの資料の一部が、すでに“参照済”として記録されていた。

「誰が……?」

 ログに残っていたのは、公安部経由のアクセスタグ。

 しかも、アクセス時刻は深夜。

「内部から、誰かが……」

 零は一度モニターから目を逸らした。

 この情報が漏れた経路が分かれば、敵の輪郭が見えてくる。だが逆に言えば、警察内部の誰かが、敵と繋がっている可能性がある。

「……もう、“本部”という言葉に安心してる場合じゃないな」

 零は端末を閉じ、手帳を胸ポケットに戻した。

 その目は、わずかに冷たさを帯びていた。

 その夜、零は再び大崎と連絡を取った。

「明日、もう一度資料を確認してほしい。追加の情報がある」

 そう言って約束したのは、湾岸地区にある古い取り壊し予定のビルだった。

 人気のない屋上。海風が強く吹く中、大崎は先に来ていた。

「おう、悪いな。こんなとこまで呼び出して」

「いえ、こちらこそ急で申し訳ないです」

 零は周囲に視線を走らせながら近づいた。

「で、追加ってのは……」

 大崎の手が、ジャケットの内ポケットに伸びる。

 その動きが、ほんの一瞬、不自然だった。

 零の本能が警鐘を鳴らす。

(この角度……銃だ)

「……!」

 次の瞬間、乾いた音が夜空に響いた。

 零が引き金を引いたのは、ほとんど反射だった。

 大崎が膝をつき、その手から拳銃が転がり落ちた。

「……なんで……お前……」

 零はゆっくりと歩み寄り、地面に落ちた拳銃を拾い上げた。

「なぜ……ですか……」

「……お前はまだ間に合う……。帳簿を……日銀を……あそこを潰せ……」

 そう言い残して、大崎はその場に崩れ落ちた。

 零は銃を下ろし、黙って立ち尽くしていた。

 波の音だけが、静かに響いていた。



 同時刻、日銀本館の地下会議室。

 壁を覆う重厚な木製パネル。そこに集うのは、理事級の幹部たちと数名の官僚。

 中央の円卓には、帳簿のコピーとそれに基づく“内部告発メモ”が置かれていた。

「……これが本物なら、いずれ公になれば我々全員が終わる」

「内部からの流出だ。情報元は未特定。ただ、公安経由で“月影”という名前が挙がっている」

「月影 零……公安警察から一課経由に転属した異端者か。妙なところで火遊びをしているな」

 場の空気が重くなる。

「我々の優先事項はただ一つ。“帳簿”を回収し、関係者を無力化する」

「既に動いている。内調を通じて“処理計画B”を再起動中だ」

「それでも……あの男が、“真実”を持って国会か報道に出たらどうなる?」

 しばらく沈黙が続いたのち、会議室の隅にいた初老の理事が口を開いた。

「その時は、日銀そのものを“崩す”ことになる。……建物を、存在を、記録を」

「……まさか」

「可能性としては、最終手段として常に準備している。だがまだ、使う時ではない」

 理事はゆっくりと椅子から立ち上がり、議場を見渡した。

「時間を稼げ。……それまでに“証拠”ごと、奴らを消せ」

 室内の空気が、さらに冷たく引き締まった。



 港区の安アパートの一室。

 外壁は薄く、隣室のテレビ音すら聞こえてくるような場所だったが、今の彼らにはそれがちょうど良かった。

 玲奈はテーブルに置かれた帳簿をじっと見つめていた。

「……これをどうやって出すの?」

 零は窓際でカーテンを少し開け、外を警戒しながら答えた。

「確実なのは、報道か国会への内部告発ルート。だが、どちらも内調と日銀に抑えられてる可能性が高い」

「じゃあ、どうすれば……」

「“公開”じゃなく、“拡散”する。止められないように、一気に複数ルートへ」

 玲奈はその言葉に頷きながらも、目を伏せた。

「もし失敗したら?」

 零は静かに言った。

「失敗したら……きっと、誰かが俺たちを語る。今度は、そいつが証人になる」

 ふと、玲奈の目が潤んだ。

 だがすぐに、表情を引き締めた。

「……じゃあ、やろう。全部ぶちまけて、終わらせよう」



 その夜、アパート周辺の路地に、不審な車両が三台現れた。

 サイレンサー付きの武装部隊が、音もなく建物に近づく。

「目標、二階北端の部屋。内部に二名、資料有」

「許可を。——処理開始」

 突入と同時に、ガス管を用いた陽動爆発が発生。

 爆音とともに、部屋の壁が一部吹き飛ぶ。

「伏せろ!」

 零が玲奈を抱えるように倒れ込み、銃声が立て続けに響いた。

 ガスマスクとサプレッサーを装備した襲撃者たちは、まさに“処理部隊”の動きだった。

「証拠の確保優先、対象排除は任意」

 玲奈が咄嗟にフラッシュバンを投げつけ、零は裏口から脱出。

 階段を駆け下りながら、後方から撃ち込まれた弾丸が壁を砕く。

「くそっ……っ!」

 彼らは近くの駐車場に仕込んであった車に飛び乗ると、すぐに発進。

 後方のビルが火花と黒煙に包まれる中、零は前を見据えて言った。

「もう……引けないぞ」

 玲奈は静かに頷いた。

「分かってる。これは、私たちの戦いだ」


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