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第二話:揺れる声

 部屋に静けさが戻ると、彼女はそっと息をついた。

 零が出かけてから、まだ三十分も経っていない。

 台所に立つふりをして、彼の私物を見ないようにしていたが——

 今日は、違った。

「少しくらい、探ってもいいよね……あなたのことを守るためなんだから」

 独り言は言い訳だった。

 彼女はリビングの書棚へ歩き、引き出しの一つをゆっくりと開ける。

 奥に押し込まれるようにして置かれていた古い封筒。

 黄ばんだ茶封筒の中には、数枚の手書きメモと、一枚のUSBメモリが入っていた。

 彼女はそれを手に取り、電気もつけずにソファに腰を下ろす。

 メモの文字は、女性らしい丸い字だった。

「……これは」

 そこには、聞き慣れない単語がいくつも並んでいた。

 “通貨発行枠の外側にある資金流通”“財務省の隠れ口座 → 地銀経由 → 名義貸し”“偽装死亡による身分ロンダリング例”“調査対象:日銀/B理事”

 呼吸が止まる。

「この女……何を見てたの?」

 震える手でメモを伏せた彼女は、無意識に鏡の前に立っていた。

 そこに映る顔は、あの日“死んだ女”と同じ顔。

「私より、ずっと深いところまで辿り着いてたんだ……」

 彼女はUSBをノートパソコンに差し込む。

 中には音声データ、PDF、Excelファイル、スキャンされた新聞の切り抜きなどがフォルダ分けされて入っていた。

「……ガチじゃん」

 思わず漏れた声が、部屋にやけに響いた。

 金融犯罪に関する記録、企業名と政治家の対応関係、仮名口座の流れ、そして“日銀”という単語が繰り返し登場するファイル群。

 彼女の詐欺師としての脳が、瞬時に反応する。

(これ、金になる……)

「こんな情報が裏に出回ったら、いくらでも転がせる」

 彼女の目は変わっていた。

 それは“彼女”の目ではなく、自分自身の目だった。

「少し調べれば、流せるルートもある。協力者も……いや、買ってくれる奴も」

 そして何より、その裏には“現金”よりも強い何か——力が存在していた。

「国家を相手にしてやる……あの女の代わりに」

 その時、彼女はまだ知らなかった。

 その“代わり”が、どれだけ重いものかを。

 そのデータが、この国の根幹を揺るがす“鍵”であることを。


 翌日。彼女は“佐木島 玲奈”として、かつての偽名で繋がっていた情報屋に連絡を入れた。

「悪い話じゃないの。金融系の内部情報よ。……“誰も手をつけてないやつ”」

 電話口の相手が沈黙する。

「信じられないなら、それでもいい。別の奴に渡すだけ」

 一秒、二秒、三秒——

「……今夜、銀座。例のクラブの裏口」

 彼女はスマートフォンを伏せた。冷たい笑みを浮かべる。

 だがその指先は、ほんのわずかに震えていた。



 USBの中には、未整理のままになった音声ファイルもあった。

 彼女は何気なくひとつを再生する。

『……もし、私に何かあったら、この記録を警察庁の月影 零に渡してください。彼ならきっと、真実に辿り着ける』

 画面に、録音日時が表示される。事件の三日前。

「……あんた……」

 胸の奥が、何かに引き裂かれる。

 自分がなりすましている女は、本当に真実を掴んでいた。

 しかも、自分の命を懸けてまで。

(何で、あんたなんかに……私がこんなに揺さぶられてんのよ)

 USBを取り出し、力なくテーブルに置いた。

 自分の中の“詐欺師”が、わずかに崩れていく音がした。



 午後、霞ヶ関。内閣情報調査室・情報第六課。

「佐木島 玲奈の動向、再確認しろ。……やつが動き出している」

 男はタバコを押しつけながら呟いた。

 画面には、銀座周辺の監視カメラ映像と、送信記録のログ。

「生きていたとはな……いや、別人か?」

「どちらにしても、動きがある。観察を強化しろ」

 同時刻、月影 零も別ルートからその情報を受け取っていた。

「玲奈が、裏で何かを探ってる?……いや、違う。そんなはずは……」

 だが、記憶の片隅に引っかかっていた“あの違和感”が、ふたたび形を持ち始めていた。

(玲奈、お前……本当に、何者なんだ)



 夜の銀座。煌びやかなネオンが街を照らす中、月影零は一歩引いた場所から彼女の背中を見つめていた。

「やっぱり……どこか、違う」

 姿勢、歩き方、視線の配り方。

 一つひとつが“彼女”のようでいて、“彼女”ではなかった。

 部下の張り込み報告が届いていた。

『佐木島 玲奈、今夜20時以降、銀座クラブ“ナイン”裏手にて不審な接触予定』

 私服刑事の一人が耳打ちする。

「どうします? 踏み込むか?」

「……いや、まだだ」

 零は答えた。視線を外せば、すべてが幻だったように消えてしまいそうだった。

「もう少しだけ……見させてくれ」



 裏通りの金属製扉の前。数分の沈黙のあと、扉がゆっくりと開いた。

「……来たな、姉さん」

 現れたのは、30代半ばの男。顔の半分を帽子とマスクで隠していたが、目だけは警戒心に満ちていた。

「久しぶり。もう死んだって聞いてたけど?」

「死人だからこそ、こういう話ができるのよ」

 玲奈はUSBを取り出し、封筒に入れて男に差し出す。

「中身の一部。証拠も精査済み。……使いようによっては、国家をひっくり返せる」

 男は沈黙する。封筒を受け取らず、逆にポケットからスマートフォンを取り出し、どこかへ一通のメッセージを打ち込む。

「どういうつもりだ」

「売るわけじゃない。……試すの。あんたたちが、どこまで本気で動くか」

 その言葉は、裏の世界に向けた挑発でもあり、観察でもあった。



 その夜。六本木のビルの一角。

 内閣情報調査室・第六課主任・神原が、モニター越しに映像を見つめていた。

「この女……何者だ。殺したはずの佐木島 玲奈と、まったく同じ顔」

「精査中ですが、顔認証は一致。行動パターンは別人のようです」

「ならばコピーだ。……いや、“なりすまし”か」

 神原はモニターに指を伸ばし、再生を一時停止した。

 画面に映る玲奈の横顔。

「詐欺師か、潜入者か。どちらでも構わん……だが“真実”に近づかれるわけにはいかん」

 彼は内線を取った。

「……処理対象を拡大する。今夜中に、整理を始めろ」



 翌日、都内某所。閉店後の喫茶店の裏手、カーテンが閉められた個室。

 玲奈の前に座ったのは、スーツ姿の男だった。

 口元には笑みを浮かべているが、目はまったく笑っていない。

「なるほど。あなたが、あの“データ”の保有者か」

 玲奈は淡々と頷いた。

「ただし、これは私の交渉材料。買うなら、それ相応の覚悟を」

 男は指を組み、軽く首を傾げる。

「あなたは、相手を間違えたかもしれませんよ。“この情報”はね、表に出した瞬間に、あなたの人生を終わらせる価値がある」

「……そのつもりで来てるわ」

 沈黙。互いに視線を逸らさず、テーブルの下で足音一つ立てない。

 数秒後、男がスーツの内ポケットから名刺を差し出す。

「連絡は、こちらへ。正式に動く前に、我々の中でも“調整”が必要になる」

 玲奈はその名刺を見て、眉を動かさずに頷いた。

 だが、その視線は、もう一つの視線を背後に感じ取っていた。

(……見られてる)



 車中。零は無線を握りながら、焦りを隠さなかった。

「今すぐ尾行班を下げろ。対象に動きがある。……それ以上踏み込むな」

『月影さん、警察庁からの指示で——』

「いいから引け! これは俺の管轄だ」

 助手席には、開封されかけた資料。そこには、“佐木島 玲奈——民間調査業・個人探偵免許取得済”の記録と、“偽名詐欺・過去に複数件の疑惑”が並列されていた。

「お前……本当に、どこまで計算して動いてるんだ」

 だが、感情が止まらない。彼は知っていた。本当は、見たくない現実に近づきすぎていることを。

(……だけど、今、誰も止められないなら——俺がやる)



「対象、二十一時。指定座標にて接触確認。——許可を」

「許可する。最優先は“回収”。処分は最終判断まで保留」

 内調の実働チームは、都内某施設の地下駐車場から車両二台を発進させた。

 スーツの下に戦闘用の小型通信機。銃火器は使用制限付き。だが“想定外の対応”は、いくらでも用意されていた。

「これは国家の秩序維持だ。個人の情など、必要ない」

 その言葉が、闇の中を走る黒い車内で静かに響いた。



 銀座の裏通り。喫茶店の裏口から出た玲奈は、すぐに異変に気づいた。

 歩道の反対側、まるで目立たないスーツ姿の男たちが、ほんのわずかに肩を揃えて動いた。

(……来た)

 彼女は反射的に踵を返し、細い路地へと身を滑り込ませた。

 だが、すぐに後方から足音。

「佐木島 玲奈、動かないでください」

 男の声は機械のように平坦だった。

 彼女は迷いなく、脇道へと駆け込む。

 舗装されていない裏通りの先、ゴミ収集車が停められた奥へ——

 だが、そこで行き止まり。振り返ると、三人の黒服が入口を塞いでいた。

(終わった……?)

 その時だった。

「伏せろ!!」

 鋭い声と同時に、脇から飛び出してきたのは月影 零だった。

 彼はすかさず玲奈を抱えるように庇い、背後から閃光弾のようなものが路地に投げ込まれた。

 一瞬、視界が白く焼けた。

 怒声、衝突音、金属のきしむような音。

 玲奈は、耳鳴りの中で必死に零の背中にしがみついていた。



 人気のない工事中の地下通路。

「離せよ……! あんた、なんで来たのよ!」

 玲奈が怒鳴る。息を切らせながらも、瞳には怒りと困惑が入り混じっていた。

 零は壁に手をつきながら、自分の呼吸を整えた。

「お前を……守りたかったからだ」

「私は嘘つきよ。詐欺師よ?  あんたを騙して、別の女の人生を乗っ取って……」

「知ってた」

 玲奈の動きが止まった。

「知ってて、黙ってた。でもお前がここまで何を見て、何を背負ってきたのか……それは本物だった」

「じゃあどうするの?  捕まえる?  銃を突きつける?」

「それも考えた」

 零は目を逸らさなかった。

「でも、今だけは……お前の“真実”を、俺の目で見届けたい」

 玲奈の唇が震える。

 ほんの一瞬、笑おうとしたが、それより早く、目から涙がこぼれた。



 都内の古びた雑居ビル。

 その一室、かつて小さな設計事務所だった部屋は、今では物置のような状態で、誰の目にも留まらない。

 零は錆びついた鍵を回し、ドアを開けた。

「ここなら、しばらくは気づかれない」

「こんな場所……なんで?」

 玲奈は目を見張った。

「昔、張り込み用に借りたことがある。名義も警察じゃない。……逃げ道も確保済みだ」

 薄暗い部屋には古びた机と椅子、それに工具類や段ボールが積まれている。

 電気は通っていたが、暖房は使えない。

「毛布と非常食くらいはある。何日も滞在はできないが……今は動くべきじゃない」

 玲奈は無言で頷き、窓の隙間から夜の街を見下ろした。

 遠くに、サイレンの音が微かに響いている。

「……追ってきてるわよ、きっと。あの人たち、諦めるタチじゃない」

「わかってる」

 零は手早く部屋の窓にカーテンをかけ、出入り口の裏に重しを置いた。

「だから今は、ここで息を潜める。情報屋からの連絡も、あとは俺が受ける」

「……私がやらなきゃ意味がない」

「いや、お前が捕まったら終わりだ」

 零の声には、今までにない決意が滲んでいた。

「俺は、真実を知るためなら法も踏み越える覚悟で動いてきた。でも……今は、お前を見捨てられない」

 玲奈は口を開きかけたが、何も言えなかった。

 ただ、沈黙が二人の間を満たしていく。

 そしてその沈黙の中、外の気配だけが静かに動いていた。



 夜が深まるにつれ、部屋の温度はゆっくりと下がっていった。

 毛布にくるまった玲奈は、窓際に座り込んだまま動かなかった。

 自分がなぜここにいるのか。

 あのとき、死んだ“彼女”を見てなぜなりすまそうと思ったのか。

 本当は、その理由をまだ自分でも掴めていない。

「金のためだったはずなのに……」

 呟いた声は誰にも届かない。

 最初は、零に気づかれずに入り込めたことが嬉しかった。

 けれど、それが罪悪感に変わり、そして今は恐怖になっていた。

(この人が、私の正体を知ったらどうする?)

 零の寝息が微かに聞こえる。

 彼は壁際に背を預けたまま眠っている。

 こんな状況でも、信じてくれているように見えるその姿が——苦しかった。

(……私なんか、信じないでよ)

 目元に手をやると、濡れていた。

 彼女はそっと目を閉じ、眠りに落ちるふりをした。



「動きがない? おかしいな……」

 神原はモニターを睨みながら、部下に声を飛ばした。

「全周囲の映像、赤外線含めて再チェック。彼らは逃げたんじゃない、隠れてる」

「……可能性の高い逃走経路、三十七カ所すでに網を張っています」

「甘い。月影は古い警視庁の技術班出身だ。非常線のパターンなんかとっくに読まれてる」

 神原は一息つき、机の上の端末に映る一つの古いデータを見つめた。

「……ならこちらも、“過去”を洗い直すまでだ」

 彼の指が端末を操作し始めた。

 画面には「月影 零・過去の潜伏拠点リスト」の文字が浮かんでいた。



 翌朝、薄明かりが差し込む頃。

 零のスマートフォンが無音で振動した。

 ディスプレイには、“連絡:SNAKE”の文字。

 彼はすぐに起き上がり、部屋の隅で通話を取る。

「……どうなった」

『例のファイル、興味持ったやつが一人。財界じゃない、そっちの筋の人間だ』

「……動かせそうか?」

『うまくやれば、一手になる。ただし、お前らの動きが表に出れば全部パーだ』

「分かってる。場所は?」

『本日、十五時。芝浦の旧倉庫街。そっちで動け』

 通話が切れる。

 零は端末を伏せ、眠る玲奈を見た。

「……次が、山場だ」


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