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第一話:始まりの事件

 目覚めると、いつもの香りがした。

 ミントティーに、微かに混じるローズマリー。

 台所の方で、ポットの蓋を閉じる音がした。

「おはよう」

 振り返ったその人は、いつも通りの笑顔を浮かべていた。

 髪のかき上げ方も、手に持つカップの角度も、完璧だった。

 だけど、何かが少しだけ――違った気がした。

 寝癖を直しながらリビングに出ると、テレビがちょうどニュースに切り替わった。

『速報です。今朝六時十二分、港区の高層マンションにて、衆議院議員・氷室ひむろ 大志たいし氏が死亡しているのが発見されました——』

「自殺だって」

 ミントティーをテーブルに置いて、彼女——佐木島さぎしま 玲奈れなは、そう言った。

 いつも通りの落ち着いた声だった。

 だが、零の目は画面に釘付けになったままだ。

 映し出された現場の様子。白いシーツで覆われた遺体。

 そして、そのすぐ傍らに残された拳銃。

「……妙だな」

 玲奈が何か言いかけたが、零は立ち上がってコートに手を伸ばしていた。

「現場、見に行く」

 その背中を、玲奈が静かに見つめていた。



 どうして、まだバレないんだろう。

 あなたは、昔のわたしの顔を覚えていないの?

 それとも、忘れたふりをしているだけ?

 “彼女”の声を、仕草を、記憶を、すべてわたしは盗んだ。

 だけどそれだけじゃ足りなかった。

 あなたが愛したのは、もっと深い部分——

 言葉にできないものの積み重ね。

 だからわたしは、嘘を重ねてここまで来た。

 でも、時々怖くなる。

 このまま、彼女として生きることが、わたし自身を消してしまうんじゃないかって。

 あなたの中の“彼女”は、どこまで本物で、どこから偽物なんだろう。

 今日も、私は彼女として笑う。

 あなたに疑念を持たせないように。

 そのくせ、いつかバレることを、どこかで願っている。

 ——ねえ、本当に、気づいてないの?



 港区・天王洲の高層マンション。警視庁の黄色い規制線が張られ、報道関係者と野次馬がざわつくなか、月影つきかげ れいは現場へと歩を進めていた。

 部屋の中には、血痕の残るリビング、銃が転がる床、そして乱れのない机。

 その整然とした空間が、かえって不自然だった。

「遺書はプリンタ出力、サインもスキャン。本人の手書きじゃないな」

 現場検視の刑事が肩をすくめる。

「拳銃は登録外。外国製、シリアルナンバーが削られてる」

「監視カメラは?」

「エントランスの一部だけ、昨日の夜からデータが飛んでます」

 零は沈黙したまま、壁の一角に視線を送る。

 時計が止まっていた。時刻は——六時十二分。

「演出だな。派手に、そして“嘘臭く”自殺に見せかけた」

 背中にじんわりと冷たい汗が流れる。何かが、この部屋の空気を歪ませていた。



 捜査一課の会議室。

「氷室 大志、自殺。警察庁上層部は“政治的圧力はない”と発表したが……」

 会議室内の空気は重かった。

 部屋の隅でタバコをふかす上司の声が、かすかに掠れていた。

「おかしいよな。これ、ただの自殺って顔じゃない」

「月影、お前、何か思うところは?」

 零は資料を見下ろしたまま、静かに口を開いた。

「まだ断定はできません。ただ——自殺にしては、不自然なほど整っている」

 一課の同僚たちがざわつく。だが、零の目は静かだった。

「俺がこの目で、確認する」

 そう言って、彼は席を立った。



 とある部屋。

「処理は完了したか?」

 灰皿に、火のついたままの煙草を放り投げながら、男が訊いた。

「はい。遺書の印刷から拳銃の設置、監視カメラの削除まで、想定通りに」

 返す若い声の主は、顔を陰に隠している。

「月影が動き出したぞ」

「想定内です。彼は——優秀ですが、あくまで“国家側の人間”ですから」

「……さて。ならばこのまま進めろ。彼が真実に辿り着いたとしても、動けなくすればいい」

 会話が終わると同時に、電子記録の一部が静かに削除された。

 画面に映ったファイル名は、“氷室処理・記録B”。



 零はデスクに戻ると、すぐさま端末を開いた。

 過去十年間の政界関係者の死亡事例。中には不審死とされながらも処理された案件が複数あった。

「氷室の件は……三件目か」

 開いたファイルの中で、共通していたのは“自宅での発見”“遺書のプリンタ出力”“監視カメラの一部欠損”。

「意図的に処理されてる……いや、“処理”という表現が一番近い」

 零は画面を閉じ、ジャケットに手を伸ばした。

「証拠が残っていないなら、俺が探す」



 あの人は、やっぱり気づいてない。

 朝のコーヒーを紅茶に変えてみた。

 箸の持ち方も、呼吸のタイミングも、少しずつ“私”から“彼女”へと近づけてきた。

 それでも、あの人の目は何も変わらない。信じてる。私を、彼女として。

 それが怖い。

 本当の私を知ったら、あの人はきっと、銃口を向けるだろう。

 それなのに——私は、彼の側にいたいと思ってしまった。

 奪ったものの重さを、わかっている。

 けれど、それでも。

 私は今、“彼女”として生きている。

 あの人が私を信じてくれる限り、この嘘は真実になる。

 だけど、ほんの少しだけ。

 ほんの少しだけでいいから——

 誰か、気づいて。

 私が、私じゃないことに。



 氷室の第一秘書・岩佐との面会は、警察庁の会議室で行われた。

 スーツ姿の岩佐は、手元のペンをくるくると回しながら言った。

「先生は……最近、少し追い詰められていたように思います。内閣からも、外圧からも」

「遺書の存在は?」

「……見たことはありません。ただ、覚悟を感じたというか……」

 零はその言葉を心の中で反芻した。

 演技か、本音か。

 続いて会った遺族は、氷室の妹。静かな口調で、涙も見せずに言った。

「兄がそんな形で死ぬなんて、信じられません。あの人は、自分の意思で死を選ぶような人間じゃない」

 証言は割れていた。だが、違和感は確かに存在した。



 帰庁直後、零は警視庁の駐車場で声をかけられた。

「月影さん。少しよろしいですか?」

 現れた男は、内閣情報調査室の腕章をつけていた。

「これ以上、氷室議員の件を深追いされるのは、あまり得策ではないかと」

「それは、個人的な忠告か? それとも、組織としての通達か?」

「……ご理解いただけると幸いです」

 男は深々と頭を下げると、そのまま背を向けて去っていった。

 その背中は、異様なほど静かだった。



 車を走らせながら、零はフロントガラス越しに街の灯を見つめていた。

 助手席には誰もいない。それが、妙に気になった。

 自宅に戻れば、あの笑顔が待っている。

 だが——

 ふと、過去の記憶がよぎった。

 数年前、取り調べたある詐欺事件。記録にも残っていない女。

 確かに、どこかで会ったことがある。

 思い出せない。

 でも、なぜか胸の奥に、針のような違和感が刺さっていた。

「……まさかな」

 誰に向けた言葉でもなく、ひとり呟く。

 信じたい。だが、信じきれない。

 その揺れが、静かに彼の思考を揺らし始めていた。

 ──次に会うとき、俺はどんな顔をすればいい?


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