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沈む犬

作者: 相木あづ

 昼間に聞いた話を思い出した。この辺りは野犬が出るらしい。

 観光地とは言えいつも人影はまばらで、訪れるのは散歩している地元の人か、休日のドライブで立ち寄る人くらいだ。せいぜい県内からしかやってこない。しかし、西日の中、彼らの姿すらも見えなくなった。笑い合いながら、それぞれの帰るべき場所へ帰って行った。彼らの声、近くで聞こえた甘ったるい声、遠くで聞こえたくぐもった声、耳をつんざいた子供の声。それらが、ひとつのバックグランドとなってまだ耳の奥に残っている。

 砂浜のはずれの岩場だった。昼の間には、バケツを持った子供が夢中になって海の生き物を探し、父親がそれを見守っていた。岩の隙間を執拗にほじろうとするのは、蟹がいるから。少し離れた岩の陰で、若い男女がひそひそ話をしていた。男の口が女の耳元に近づき、女はそれを柔らかく押し返して、男の肩に頬を寄せた。二人はしばらく海を見ていた。騒がしかったのは、大学生の一団で、海パン姿の上裸の男ばかりが十人ほどいた。どうして女がいないんだ、とか、何か食える生き物はいないのか、とか、そんなことを大声で騒ぎながら潮だまりのひとつひとつを覗き込んでいったが、彼らにとって興味のあるものはなかったようで、すぐに砂浜の方に引き返していった。

 この辺りは野犬が出るらしい。

 そう言ったのは、彼らの中の一人だ。何気なく聞き流した言葉だったけれど、もしかしたら本当だったかもしれない。というのも、ここから少し離れたところ、海の近くの岩の上に、茶色い獣のようなものがうごめいていた。猫かもしれないし、私の知らない野生動物かもしれない。野犬でもおかしくはない。しかし、例えそれが野犬であったとしても、それが私に危害を加えるようには思えなかった。遠目から見ても、それはあまりに無垢だった。野性の荒々しさというものがまるでない。それはただ、茶色い毛におおわれた動くかたまりでしかなかった。

 そしてもうひとつ、その獣が無害に見える理由を見つけた。獣は、鎖でつながれていた。柔らかそうな毛の間に、少しだけ赤い首輪が見えた。首輪から伸びる金属製の鎖の端は岩の中に埋め込まれているようで、よく見えないけれど、ちょっと引っ張ったくらいでは抜けなそうだ。ともかく、あの犬はあの場所を離れることができない。それだけは確信があった。

 犬は、あきらめたようにうずくまり、ときどき顔を上げては海に視線を投げていたが、しばらくすると、何を気にしたのか、急に立ち上がった。鎖の許す限りで、その場をせわしなく歩き回る。海に背を向けて、鎖が伸びきっていた。何度も何度も、海の方を振り返る。何があるというのだろう。そこにあるのは、規則的に寄せる波と、沈みかかった太陽と、水平線くらいのものだ。そのうちの何かに、犬は追われていた。

 ちょうど海の方を振り向く犬と目が合った。困った。助けてくれ。犬の表情にそう書いてある気がした。

 それと同時に、私は犬を追っているものを知った。潮が満ち始めていた。

飼い主を探してみたが、夕暮れの海岸に、私以外の人間は誰もいない。

お前は見捨てられたようだよ。

 それが犬に伝わったのかはわからないが、犬は、既に濡れ始めた岩の上に再びうずくまってしまった。なぜか苛立ちが募ってくる。

 お前は見捨てられたよ。

 お前はそこで死ぬために生まれてきたんだよ。

 もう少しだけ事情が違えばあり得たかもしれない可能性。

 野犬として過ごす第二の生活。

 そういうものは、もともとお前には用意されてなかったよ。

 お前なんかは、海に沈んでしまえ。

 おぼれ死ぬためだけの命。そういうものもあるんだよ。

 さあ、早く、死んで。

 犬が再び立ち上がった。

 ちっ。しょうがないな。

 投げた小石は、狙った潮だまりには落ちずに、すぐ近くの岩の上をカラカラと力なく転がった。それが再び私の苛立ちを掻き立てた。感情に任せて勢いよく立ち上がると、しかし、すぐに強い力で地面に叩きつけらた。一瞬のことで、何が起きたのかわからない。首元に強い痛みと、気だるい重み・・・。

 私は、鎖につながれていた。あの犬と一緒だった。

 急いで辺りを見渡した。私の前にも、後ろにも、潮だまりは続いていた。ここは確実に海に沈む。どれくらいの深さ? 鎖の長さを確かめた。足を抱えて座った状態で、ちょうど鎖が伸びきっている。これは十分なのか? このあとどうなる? いろいろ考えてみたが、しかし、私は絶対に助からないだろう。それには確信があった。なぜなら、世界がそのようにできているから。あの犬も、私も、逃れることはできない。そのような存在は、生き延びることはできない。おぼれ死ぬためだけの命。いつの間に、こんなところに迷い込んでしまったのだろう。泣きたくなる。もしかして、あの犬は私と死ぬために繋がれているのかもしれない。死ぬときくらい、ひとりでなくていいように。誰かの気遣いが一頭の犬を殺し、私は罪悪感に溺れて死んでゆく。

 そういえば。

 砂浜の方を見ると、そこには野犬の群れが来ていた。

 退屈そうに海を眺めている。


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