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俺は自室のベッドに腰掛けながら窓を大きく開け、体の火照りを冷ましていた。隣の部屋からは物音ひとつ聞こえてこない所を見ると、ラミィはもう夢の中なのだろう。
「……しかし、さっきはびっくりしたな。どうもエマは積極的すぎる」
本当にさっきの露天風呂では驚かされた。あのまま一緒に風呂に入っていたら、俺の理性は保たなかったかもしれない。さすがにエマとそういうことになったら、責任をとらないといけないだろう。
……そうなると、エマと結婚するのか?だったらラミィは?……いや、一国の王としても、男としてもそんな身勝手なことはできない。やはりこういうことは時間を掛けて、しっかり考えてから決めることだと俺は思う。
先ほどのエマの言葉が本気だとしたら、この後エマが部屋を訪れるはずだ。その時は、誘惑に負けずにハッキリ断ろう。ちゃんと誠意を持って自分の気持ちを伝えた上で、説明すればきっとエマも分かってくれるはずだ。
別にエマとそういう関係になるのが嫌なわけじゃないし、今後一切関わりを持たないというわけでもない。きっと大丈夫だ。
と、俺がそんな自分勝手な考えに辿り着いた時、扉をノックする乾いた音が部屋中に響いた。
「ジャッジ様。よろしいでしょうか?」
「エマか。あぁ、入ってもい………。うっ!?」
俺が返事を扉の外にいるであろう、エマに返事をしようと意識を扉に向け、ベッドから立ち上がった瞬間。
ヒュッ!
という風を切るような小さな音が後ろから聞こえたかと思うと、首筋にかすかな痛みを覚えた。
なんだ?と、右手を痛みの箇所に当てようとするが、体が上手く言うことを聞いてくれない。それどころか足にも力が入らなくなり、俺は床に膝から崩れ落ちるような格好で倒れこんでしまった。
……あー。このまま倒れたら頭打ちそうだな。痛いだろうなぁ。などと、この場にそぐわない感想を抱いたのが、俺の最後の記憶となった。
ジャッジの部屋の扉の外では、エマがオリビアから譲り受けた薄手の寝巻き姿でドアノブに手を掛けようとしていた。
最愛の人がいるはずの室内からは、入室の許可の言葉が聞こえたと思ったらそれが途中で途切れ、替わりに何か重いものが倒れる様な物音が聞こえてきた。
「ジャッジ様?どうされました?……ジャッジ様!入りますよ」
そう声をかけるとドアノブを回して扉を開けるエマ。この館の個人の部屋には鍵はついていない。普通王族や国の重要人物の部屋には、必ず厳重に鍵がかけられているものだと思うが、この国ではそうではない。
そんな風に国民と垣根を作らず接してくれようとしている所も、ジャッジ王の素晴らしい所だとエマは思っていた。
扉を開けて部屋に入ると、なんとジャッジか床に倒れているではないか。
「きゃっ!!じ、ジャッジ様!だれか!だれかいませんか!?」
と、大声を上げて助けを呼ぶエマ。
「な、なに!?どうしたのよ!?」
その声に真っ先に反応して部屋に駆け込んできたのは、隣の部屋で寝たふりをしていたラミィだった。
ジャッジが露天風呂から慌ただしく自室に帰ってきた音で目覚めたラミィは、もう少したったらジャッジの部屋を訪れて、久しぶりに一緒に寝ようと誘うつもりでタイミングを計っていたのだ。
そしてエマは気付かなかったが、その大声に反応した者がもうひとりいた。
ジャッジの部屋の窓枠に器用に足を掛けてひっそりと佇む全身黒衣装の男は、ジャッジを毒矢で仕留めた後、もう1人のターゲットの片方である魔女が部屋に飛び込んでくるのをしっかりと確認していた。
「なっ!?ど、どういうことよ!?アンタなにしたのよ!」
「ち、違います!私が入ったときには既にジャッジ様は倒れられていたんです!」
「ジャッジ!ねぇ、ジャッジ!!」
黒衣装の姿など全く気付かずに、ジャッジを愛する2人の女性は倒れたジャッジの側で大騒ぎしている。
黒衣装はそんな2人を冷静に観察しつつ、この場で魔女も仕留めることを決めた。
「……本来魔女は俺の担当ではないのだがな。まぁいい。あまり騒がれて例の従者でも来たら厄介だ。さっさと済ませよう」
そう呟くと、懐から予備の毒矢を慎重に取り出し、吹き筒にセットしてから、ラミィの首筋に狙いを定めて息を短く強く吐き出した。
ヒュッ!
先ほどジャッジが聞いたものと全く同じ音が小さく響き、黒衣装の放った毒矢がラミィの首筋に向けて直線的な軌道を描き、目にも止まらぬ速さで迫る。
毒矢はあっという間にラミィまで到達し、黒衣装の狙った首筋に音もなく突き刺さ………………らなかった。
キンッ!
という乾いた音とともに、黒衣装の放った毒矢はラミィに刺さる直前で弾かれ、力無く床に落ちた。
「なっ!?なにっ!?」
「……ん?今なにか……」
まさかの事態に思わず声が出てしまう黒装束。
ラミィが首の後ろに違和感を感じ振り向くと、足元に落ちた毒矢と窓際から大きく体を乗り出した黒装束の人影が目に入った。
「あ、アンタ誰よ!……はっ!さてはアンタがジャッジになんかしたのね!!」
瞬時に状況を理解し、怒りの表情で黒装束に向き直ると両手を前に突きだし魔法を放つ体勢をとる。
黒装束もラミィが魔法を使うと事前に知らされていた為、危険を察知し素早く窓から外に飛び降りようとするが、僅かにラミィの放つ石の槍の方が早かったようだ。
ラミィの両手から高速で放たれた石の槍は、黒衣装が足を掛けていた窓枠を破壊しながらも、その威力を落とすこと無く黒衣装の腹部を貫いた。
「うっ…」
という呻き声を漏らしながら2階から地面に叩きつけられた黒衣装。その腹部には真ん中に石で出来た槍が突き刺さっており、どうみても致命傷だ。いや、既にこの時点で息絶えていた。
目前の脅威を退けたラミィは、怒りの表情のままエマを振り返り、意外にも冷静に指示を出す。
「すぐにジャッジをベッドに運びなさい。おそらくどこかに吹き矢が刺さってるはずよ。まずはそれを見つけて早く取るのよ。多分毒ね」
「わ、わかりました!」
エマはラミィの指示通りにジャッジの体をなんとか持ち上げて、窓の破片が少し散らばるベッドに横たえる。そして、慎重にジャッジの全身を触りながら吹き矢を探すと、首の後ろに刺さっている物を発見した。
「あ、ありました!やはり吹き矢です」
「すぐに抜いて大丈夫よ。アンタも刺さらないように注意しなさい」
「はい!」
エマがジャッジの首筋から毒矢と思われるものを抜いてサイドテーブルに置いている時、ラミィは自分に向けて黒衣装から放たれた毒矢を調べていた。
「これは……。種類はわからないけど、即効性ということは神経系の物かしら?」
ラミィは吹き矢の先端に塗られた毒の色や、匂いを確認しながら眉間に皺をよせて呟く。
ラミィには毒の知識はあまりない。しかし、以前ラーナから贈られた本の中には毒に関する物もあったはずだ。かなり前になるが、小説の中で毒が出てきた時に気まぐれで調べたことがあった。
もっとあの時ちゃんと調べておけばよかった…。などと後悔するがもう遅い。それより今は少しでも早くジャッジに正しい処置をすることが重要だ。すぐにでも自宅に帰りその本を持ってこよう。
そう決意し、エマにその旨を伝えようと口を開こうとした瞬間。
ドンッ!
と言う音とともに部屋の扉が勢いよく開かれ、ウィルが飛び込んできた。
「ジャッジ様!ご無事ですか!?」
ウィルは部屋に飛び込んだ瞬間に、ベッドに横たわるジャッジの姿が目に入ったのだろう。素早く室内の状況を確認すると、ラミィに向かって苦虫を噛み潰したような表情で絞り出すように質問した。
「くっ……。やはりここにも侵入者が?」
「……えぇ。ジャッジは毒矢を受けているわ。……ここにも?まさか…、他にもいたの?」