第三章 不吉な知らせ
第3章 不吉なお知らせ
どこまでも続く闇が周りを蝕み、アランは暗闇の中でひたすらと歩き続けていた。そのうち、ぽつぽつと冷たい雨が降り出した。冷たい小粒の雨が瞼に当たり、瞼を開けるとアランは墓地の前に立っていた。周りは綺麗に整備られ、たくさんの墓石や光神像が立っていた。
空はどんよりと灰色に曇り,墓石から覗く平野の地平線と交わっている先もまた無尽な灰色が広がっていた。雨は墓石に当たり、墓の色はより深い灰色になり、石碑の隣の光神の像も泣いているようだった。世界はまるで静粛な死に色に包み込まれ、アランの目の前の墓に供えられている雨に濡れたスターチスの花の紫色だけがより鮮やかに映り、灰色の世界に色を与えていた。
スターチスの花を見て、アランは瞬時にそれが母の墓の前と分かったが、不思議と悲しみも何も感じなかった。アランは何も考えられずにただ墓石を見続け、どのぐらいの時間が経ったのだろうか…遠いとこから低いうなり声が聞こえた。うなり声が近づくにつれ、見たこともないような醜い獣が石碑の裏から現れた。狼のような冷たい光を放つ緑の目からは飢えと殺意があふれだし、雨は獣の油じみた灰茶色の毛皮に当たり、そして毛皮を濡らすことことなく、水玉になって滑っていた。獣の鋭い爪だけが雨に濡れ、鉄のような黒い鈍い光を発していた。その爪の一振りでも喰らったら、どんな厚い服を着ていようが、内臓は飛び出るだろうとアランは思ったが、不思議と怖さはなかった。目が合った一瞬、獣は熊のような大きい体を似つかわしくない俊敏な動きでアランに向かって飛びかかった。アランは反射で尻餅付いた。両手や尻から伝わる地面の土の冷たい感触に触れ、初めて恐怖を感じた。しかし反応は出来ず、頭を上げた瞬間、迫り来る影や吐き気を催す魚が腐ったような獣の匂いにアランは目をつぶった。
ドンッという鈍い音の後、辺りには獣のうめき声が響いた。
おそるおそる目を開けると、獣は後ろの方に下がり、警戒の目でこっちを凝視しながら、威嚇のうなり声を上げた。しかし、その目線の先はアランではなく、アランの後ろの方だった。アランは振り返ると、後ろはまるで幽霊のような黒いマントを羽織っている男が立っていた。男の顔は不思議な、悲しいかうれしいか分からないような表情のお面をかぶり、お面の目の穴から真っ黒で、全てを吸い込みそうな瞳だけを覗かせていた。音もなく後ろに現れた男に、アランは唖然とした。マントを羽織っていても、男は細身である事がわかった。柱のように立っている男を見て,アランはこの男の身長は恐らく熊狩りと逸名を持つサムおじさんと同じか、もしくはもっと大きいだろうと思った。しかしサムおじさんは筋肉がはち切れそうな体型で、横幅もこの男の二倍はある。そして振り向いたこの瞬間、後ろからまた風と嫌なにおいを感じた。男は細長いが、力がありそうな腕を胸辺りまで持ち上げ、そして斜め下に向かって振り切った。ドンっという音が再びすると、獣はまるで空中でなにか見えない壁にぶつかったように、またひっくり返った。
なにが起きているかまったく理解できてないアランの横を、音もなく男は通り過ぎ、アランと獣の間に立った。獣の怒りのうなり声が響いた次の瞬間、男は素早く両手を動かした。ポッという小さい音共に、男の両手に薄青い炎が現れ、そして獣は燃え盛る炎によって包まれた。炎は雨の中でもまるで鬼火のように燃え、獣は断末魔の鳴き声を上げ、音を立てて地面に倒れ込み、息絶えた。濡れた空気の中には毛や肉が焼けたようなにおいが漂った。
アランの頭はさらにパニック状態になり、真っ白になっていた。男はゆっくりと振り返り、その黒い瞳はまだ地べたに手をついているアランをとらえた。
「あ…あなたはだれ…ですか?」助けてもらった礼を言う前に思わずアランは一番に抱いている疑問を投げかけた。口の中はカラカラに乾き、舌が上あごにくっつきそうだった。
しかし、男は何も言わずにただアランを見つめ続け、そして目の穴から赤い血が滲み出し、お面の頬に伝って、地面にポタッポタッと垂れ始めた。男は目から血を垂らしながら、上半身を伏せて、アランの方に向かって近づいてきた……。
アランはハッとして目が覚めた。相変わらずにびっくりはするが、母が7歳の時に死んでから、よく見る夢だった。よくある夢が故に不思議なのは毎回必ず黒マントの男の人が顔を近づいてくる時に目が覚めるのだ。アランは忘れもしない初めてこの夢を見たとき、眠るのが恐くて夜布団に入るのが恐かった。
あの頃は目から血を垂らす男は恐ろしいとしか思わなかったけど、今になって見ると、あの恐ろしい獣を一瞬で倒し、降りしきる雨の中でも囂々と燃え盛る蒼い炎の元素、謎の男は強い炎の元素師であることは間違いない。それにしても、良く見る夢だけど,毎回迫力あるなーっと、アランは両手を頭の下に交差させ、まだ暗闇の中の天井を見つめながら思った。
暗闇が段々と薄明るくなってきて、天井の木目もぼやけて見えるようになってきた。
アランはいろいろ考えてくるうちに、また眠気が押し寄せてきて、夢境に入ろうとした。パカッパカッパカッと馬の蹄鉄の音が石灰岩の道路の舗装を疾走する音が遠くから段々と近づいてきた。そして音からしても、どうみても一匹ではない。
朦朧としていた眠気は吹っ飛び、アランは起き上がって窓辺から外を見た。まだ暗い中、馬を催促しながら邸宅の丘を登ってくる、三人の騎手の姿が近づいてきた。
「こんな早い朝に…」アランはなんだか嫌な予感がしてきた…
案の定、しばらくしたら部屋のドアがドンドンと乱雑に叩かれる音がした。
すでに着替え終わったアランはドアを開けるとイーゴンの手下の従士の一人、長面のカストが息を切らしながらドア横の壁に手をついていた。
「イーゴン様のお呼びだ、ホールに来いってさ。」カストは一息を接ぎ、アランに言った。
カストは従士の中でよく馬鹿にされているが、アランのここでの数少ない友達の一人だ。
「こんな朝に,なにがあったんだ?」何か急な用事である事は間違いないだろうが、アランは見当が付かなかった。
「巡査隊がこないだ来た獣狩官の若者を連れて来たんだ。生きているのか,死んでいるのかは分からん。」カストの息はやっと落ち着いた。
「なんだそれ,どういう状況?」アランはカストが言っていることが意味分からなかった。5日ほど前にここに訪れていた三人の獣狩官のことをアランは覚えている。たしか強面のおっちゃんと太っている陽気なおっちゃんと、後ろには自分とそんなに変わらないぐらい若いのもいた。その子はずっと下を向いていたが、側を通り過ぎるとき自分のほうをチラッと見たのをアランは気づいていた。くすんだ茶色の長髪、華奢で頼れなさそうな体型、そしてどこかと内気で、雰囲気が自分に似た青年だった。
イーゴンは案内役としてもう年を取りすぎている元猟師のエドじいさんに命じたが、正直言ってエドじいさんはもう人に森を案内するほどの年をとうに過ぎていた。エドじいさんはこの仕事をほかの猟師に任せることも出来たが、それを引き受けてしまった。
「とにかく、凄い緊急事態みたいなんだ、俺は他の従士を起こさなきゃならないからまた後でな」そう言ってカストは振り向き、階段に向かって走り出した。
「あ、後でなにが起きたか教えろよ。」階段を下りる前にカストはまだボーとしてるアランに手を振った。
アランは階段の壁に消えていくカストの影を見て、急いでコートを羽織り、ホールに向かった。
暁がまもなくやってくる頃であった。窓の外の空は段々と淡い青の色になりつつあったが、ホールはいつものように薄暗かった。壁側の大きな暖炉の火は勢いよく燃えているのに、なぜか肌寒く感じた。領主のイーゴンは両手を腰の後ろに回し、暖炉の前で左側から右側へ、そして右側から左側へと行き来していた。
暖炉の端には小太りで二重あごの小男が立っていた。男の身長は小さいのに猫背で、ねずみのような小さい目は手前の三人の騎手の顔の間で遊走していた。策士のチャドはイーゴンの側近で、同じくアランが苦手な一人だった。その隣には、顔の中心に大きい苺が乗っているような、赤くて大きい鼻が特徴な護衛隊隊長のスントは相変わらずな仏頂面で立っていた。手は腰のソードの柄にかけ、視線はどこを見ているかはわからなかった。
軽鎧を着ている三人の騎手は目の前でうろうろしている領主を見て黙っていた。面識はないが、三人のマントは汚れていて,脚は泥や草が付いているからおそらく森のパトロールから戻ってきたんだとアランは思った。
そして、三人の前の床に、マントにくるまれて意識を失っている青年がいた。青年の茶色の長髪は泥で固まって、顔色はまるで死人のように血色が無かった。アランはすぐに分かった。あの獣狩官の青年だった。
「絶対にならん、これ以上私の領土内に穀潰しどもは絶対に入れさせん。」イーゴンの顔は引きつっていた。
「それに、ダークウルフだと?そんな戯れ言をこの私が信じるとでも?」イーゴンは引き続き独り言を続けた。陰湿な声はさらに大きくなった。
「ところで、この小僧はもう死んだのか?他になんも言わなかったのか?」イーゴンは騎手たちに顔を向け問いかけた。
「閣下、先も申しあげましたように、森の奥に上がった我々巡査隊の救急信号とは異なる煙を見て、我々が駆けつけたとき、この青年はすでに弱り切っておりました。ダークウルフに襲われて、ほかの三人がすでに死亡したことや、獣狩の総部に報告を早急にしなければいけないことを我々に伝えた後、すぐに意識を失っておりまして、それ以来目覚めておりません。この状態では,回復にしばらく時間はかかるかと思われます。」一番年長で、品のある顔つきをしている騎手はイーゴンの問いかけに答えた。アランはすぐにこの人がリーダーであることが分かった。
イーゴンは騎手の答えになにも言わず、その目線は急にホールの端に突っ立ているアランの姿をとらえた。
「日が暮れるかと思った、カタツムリでも貴様より早く動くぞ。」案の定、イーゴンはアランを見るなり、陰湿な声がホールに響いた。
「申しわけございませんでした。」アランは急いでイーゴンの方に駆け寄った。
「主人の私よりも遅く支度をするとは、お前のような役立たずな従士はそういない。」イーゴンはまるで鬱憤を発散するようにアランに吐き捨てるように言った。
「ワインを注げ、のろまが。」イーゴンはテーブルに置いているワインのボトルを指して、急いで歩いてくるアランに指示した。
アランは慌ててワインをグラスに入れ、イーゴンに渡した。イーゴンはアランを睨みながらワイングラスを奪うようにして受け取り、スントの隣に顎で指した。
アランは早歩きでスントの隣に立ったが、心は複雑だった。
今、間違いなく騎手は、目の前の青年以外、ほかの三人が既に死んだと言っていた。それはつまりエドじいさんも遭難したと言うことか…かわいそうなエド、孫のカールも三日前に風邪で亡くなったのに…
エドの息子は出稼ぎ先の炭鉱で落石にあって命落としてから、しばらく息子の嫁と孫と三人で暮らしていたが、去年息子の嫁はもうこの貧困の生活に耐えきれないのか、姿を消した。それからエドは孫と二人で村の外れにあるボロ屋で暮らしていた。
エドは確かに頑固で気難しいじいさんであった、アランに対しても他の人と同様に良い顔で見てくれなかったが、孫のカールに対しては本気で大事にしていた。恐らく今回案内役を引き受けたのも、後からもらえるわずかな賃金で寝込んでいる孫に薬を買うためだろう。
アランは10歳のカールとは仲良くしていた。カールの将来の夢は肉屋さんになることで、じいちゃんや母さんにたらふくお肉を食べさせるのが夢だった。アランはよくイーゴンが開いた宴会で肉やパンを盗んではカールに渡していた。そしてカールが重い風邪を引いたと聞いて、エドが家を出た次の日の夕方にボロ屋を訪れていた時、家の中は外と同じぐらい寒く、カールは藁の束を体の上にかぶせて、ベッドの端で縮こまって冷たくなっていた。
アランは悲しくてしばらく泣いた後、周りの住民に知らせた。簡易な木棺の中で眠るカールの痩せ細った体を見て、アランはエドが帰ってきたらどんなに悲しくなるんだろうと考えていたが、今エドも亡くなった知らせを聞いて悲しくもあるが、ホッともした。これでふたりとも光神の元で安らかに暮らせると良いな…
「イーゴン様、そう怒らずとも。」チャドは一歩前に出て、見た目通りの尖っている声で話した。
「この若いのが意識を失っている間。情報も漏れますまい、ましてや、我々が伝信鳩を使わせなければ、三人のどうでも良い下級獣狩が消息を消えたなど獣狩官どももしばらくは気づかないでしょう。管轄が緩いので有名ですから。」
イーゴンはチャドの話しを聞き、うーんと頷きながら暖炉の中で踊る火花を見て考え込んだ。
「しかし、閣下。もし本当にダークウルフであれば、我々の手では決して負えません。ましてや、森側の村々の行方不明者の数が日に日に増えているという報告が…」先答えた騎手のリーダーはまっすぐイーゴンの目を見ながら話した。
「ならば、捜索隊を出せ、他の三人の死体をここに運んでこい。それを見て判断する。」
イーゴンは騎手に不満そうな声で命じた。
「馬の整頓をしたらすぐに出発いたします。」騎手はほかの二人のほうに頷き,三人はホールを小走りで去っていた。
「スント、護衛隊や従士から人手を森周辺の巡査隊に割り当てろ、俺はダークウルフなんぞ信じないが、狼や熊なら一匹残らず駆除しろ。」
「ハッ」スントは低い声で答え、ホールから出て行った。
「チャド、この死に損ないのを医師のアルフレッドに診てもらえ、ここで死なせたら面倒だからな。目が覚めてもなにもさせるな、従士から頭が切れる者を二人選んで、見張りにつけろ。獣狩官どもが動く前にこっちで全てを片付ける。私の領土の問題は私が解決させるのだ。」イーゴンはまるでゴミを見る目でマントにくるまっている青年を睨みながら、チャドに指示をした。
「承知いたしました。では、意識を取り戻しても安神の薬を飲ませて、眠らせるようにいたします。」チャドはイーゴンに一礼して、太り過ぎたネズミが転がるようにホールから消えた。すぐに二人の従士が来て、青年を持ち上げ、外に運び出していった。
大きいホールは今やイーゴンやアランの二人きりになった。薪が燃える乾いたパキパキの音だけがホールに響き、場は静粛に包まれた。イーゴンはまるでアランの存在を忘れたように、また燃える炎を凝視して考え込んだ。
アランは暖炉の横の影になるべく溶け込むように近づいていた。頼むから,そのまま僕の存在を忘れて、どっか行ってくれ。僕は影だ、僕は暖炉の煉瓦の一部だ。アランは目をつぶり、なるべく音を出さないようにゆっーくりと鼻で呼吸をしながら、必死に心の中で光神に祈った。
しかし、アランの祈りはどうやら光神に届いてないようだ。
「いつまで石になったつもりだ?お前がそこに居るのを忘れたとでも思っているのか?」アランは心がまるで氷水に浸かったように感じた。目を開け、イーゴンの方を見ると、イーゴンは先運び出された青年よりもっと何か汚いものを見る目でこっちを睨んでいる。
「役立たずのお前にもなにか仕事を与えてやらんとな…」イーゴンのへの字の唇の片端が吊り上がった。
アランはなにか嫌な予感がした。
「先行った巡査隊たちと一緒に現場を探せ、そこで起こった事を私に報告するんだ。良いか、死体がなければ、物でも良い、奴らがどうやって死んだかが分からなければ、一生戻ってくるな。」
イーゴンはアランの前を通り過ぎながら、振り向きもせずに言った。
「はい…」化け物が現れた現場に行けって…アランの心臓の鼓動が早くなり、手足の先が冷たくなっていくのを感じた。
「そうだ、あのじいさんの死体は持ち帰れ、死んだ孫と一緒に埋めてやれ。」イーゴンの嫌な声がホールの入り口の方から響いてきた。