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花言葉の花屋  作者: レニィ
6/7

6.開花

 翌朝、リュカはいつもよりも早くに花屋へ向かった。

 マーゴ叔母さんの他、リュカの家に親戚が様子を見に来るのは、基本的に夕方から夜だけなので、朝から夕方まで、リュカは大人の目の届かない所で好きなことができる。


 夏休みだから、嫌いな学校へ行く必要もないし。先生が家に訪ねて来る事もない。


 お父さんは、今朝もリュカが起きた時間にはベッドの中だった。

 きっとまた、お昼頃にようやく起きて、空の花瓶をじっと眺めて、項垂れている間に、その日が終わる。


 そんなお父さんの姿を見続けるのが、リュカには辛かった。


 余計なことは聞くなと、泣きながら怒るお父さん。

 お母さんが大切にして居た花瓶に、花を活ける事もなく、見つめているだけのお父さん。

 お母さんの名前も、好きだった花も、よく作ってくれた豆のスープも、お母さんに関わる全ての事を聞こうとせずに、耳を閉ざしているお父さん。


 だから、リュカは思った。


 お母さんが生き返れば、きっとお父さんも元に戻る。

 また元の様に、生活出来る。

 叔母さんや叔父さんが入れ替わり立ち替わりで様子を見に来る為に、揉め事を起こす事だってなくなるはずだ。


 けれど。


 今更になって、リュカは悩み始めた。


 リュカは昨日花屋で見聞きした言葉のやり取りの一言一句、目の前に広がった光景の一瞬。その全てを思い出せるのではないかと思う程、強烈に脳裏に刻み込まれていた。


 花屋の床に叩きつけられた鉢植えから、漂って来たのは、濡れた犬よりも、腐りきった生ゴミよりも、時折下水道から迫り上がってくる空気よりも、臭く、鼻が曲がりそうな程の臭いだった。

 あれだけでも十分、忘れられない記憶だ。

 

 『どうして、こんな事になったの?』

 と、聞いたリュカに、花屋の店主はいつも通り、素っ気なく答えた。

 『"花言葉"がねじ曲がったら、花だっておかしく咲くもんだ』

 と。


 その光景を、臭いを、答えを、リュカは目の当たりにしたことで、悩みが生まれた。


 "お母さんを生き返らせて欲しい"。


 その願い花言葉を込めた花は、本当に咲くのだろうか。

 そもそも、お母さんはどうやって生き返るのだろうか。

 

 『何があっても、死者を蘇らせてはならない』


 そんな魔術の基本を根っこからひっくり返すようなリュカの願いを、花はどうやって叶えると言うのだろう。


 リュカは、肩掛けカバンの肩紐をぎゅっと握りしめて、花屋へ走っていった。


❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀


 花屋の看板は、「開店」になっていた。


 昨日あんな事があったのに。

 警察まで来て、事情聴取やら、何やらをして行ったと言うのに。


 花言葉の花屋は、何事もなかったかの様に、開店していた。


 リュカは、そのドアをそっと開ける。

 どんなにリュカが丁寧にドアを開けても、その上に付けられたベルは必ず鳴る。

 本来、このベルが鳴るのは、アトリエに籠っているこの店の店主が来客に気がつけるようにという為だったはずだが、今日も店主はベルの音でアトリエから出ては来ない。


 その代わりに、店の会計カウンターの下から若い男の顔がリュカを覗いて来た。

 

 「よう、少年!今日も来たか」

 「ヴァンさん……どうして?」

 「昨日の今日だからな。マノンは、まるで気にしてないけど、俺が気になるんもんだから、勝手に用心棒してんの」

 

 そう言いながら、ヴァンは会計カウンターの椅子に座り込む。

 リュカなら顔が少しカウンターから出るか出ないかの高さも、ヴァンならガッシリとした上半身が見える。


 「えっと、じゃあ。今日、僕のお手伝いは……」

 「安心しろ、それは残しておいてある」


 ヴァンはリュカにウインクをしながら、花たちの方を指差す。

 

 「店の掃除も、バケツの水換えも、鉢植えの世話も、俺は手を付けてない。もちろん、"花言葉の花"に話しかける仕事もな」


 最後に付け加えられた仕事内容に、リュカは驚いて顔を上げる。


 「え、な、なんで、最後の」

「マノンは、"花言葉の花"たちが、最近機嫌良く咲いているのがわかるらしい。少年が何かしたんだろうって。アトリエで手を止めると、たまに少年が話しかけているのが聞こえて来ていたってさ。その分の駄賃を上乗せしないとって、ボヤいていたぜ」

 

 リュカはこっそりと、自分がして居た事に気が付かれて、とても恥ずかしくなった。

 そうやって、恥ずかしさで顔を真っ赤にしているリュカを、ヴァンは少し懐かしそうに眺める。


 「さぁ、少年。仕事が待ってる!それを終わらせたら、マノンから話があるってさ。少年の注文の事で」


 リュカは、注文と聞いて、アトリエの方を見る。

 アトリエからは、いつも通り、機械の動く音だけが、聞こえて来ている。


 「……今、お話してもらうのは」

 

 ヴァンは、首を横に振る。


 リュカはアトリエの扉からも、ヴァンからも目線を離すと、静かに、店の掃除の為に箒を手に取った。


❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀


 リュカの全ての仕事が終わったのは、お昼過ぎだった。

 その頃には、マノンもアトリエから出て来て、今後の参考にと、"花言葉の花"に話しかける仕事まで、きっちりとやらされた。


 リュカが恥ずかしさで俯いている中、マノンは事細かにメモを取っていた。


 「……なるほどな。"花言葉"に合わせた内容で話しかけてやれば、魔術の流れが良くなって、花の機嫌が良くなる。その上、花の持ちも良くなると言うことか」


 マノンは嬉しそうに、研究結果のメモをデータベースの方へと送る。


 「いいデータだ。これからは、花に話しかける人間を雇うか……」

 「このまま少年に続けてもらえばいいんじゃないの?他の花の世話も上手いんだし、うってつけだと俺は思うけど?」


 ヴァンの提案に、マノンは首を振る。


 「アタシにそんな気はまるでない。……それに、この後の話を聞いても、ここに居たいとこいつが思えるとも思えないしな」


 リュカは俯いている場合じゃない事を思い出す。

 

 「……あの、店長さん。お話があるって」

 「話を聞く前に、まずこれを受け取りな」


 そう言って、マノンがリュカの手に置いたのは、黒くて小さい、胡麻みたいな種が一粒だけ入った小瓶。

 小瓶にはラッピングも何もされて居ない。コルクで栓がされているだけの小瓶をリュカが受け取った瞬間。店にいる3人を取り巻く魔術契約の鎖が浮かび上がった。


 「お前が注文した花の種だ」


 リュカは、唾を飲み込む。

 今、自分の手の中には、"お母さんを生き返らせて欲しい"花の種がある。

 だけど、嬉しい気持ちにはなれなかった。


 「……店長さん。この花は、咲きますか?」

 「さぁな。そこまでは保証しない。そういう契約だっただろう」

 「そうです、けど」

 「それに、もし花が咲いても、お前の望む結果にならないだろう」

 「……どういう、ことですか」


 マノンはリュカと目を合わせる。

 

 「最初に言ったよな。死者を生き返らせる魔術は、存在しない。……仮にあっても、それは法律で禁じられている。そのくらいはわかるな?」

 

 リュカは、黙って首を縦に振るしかなかった。

 集まった親戚たちも、みんな同じことを言った。

 死んだ人は生き返らないし、仮に生き返らせたらそれは、とても悪いことだと。


 「でも、死者の魂を一時的に降霊させる事は、法律でも認められている。……だから、その種に施したのは、降霊術の術式だ」

 「降霊、術」

 「お前の"母親に生き返って欲しい"という願いを、母親の魂を呼び寄せる降霊術の一種だと定義して、魔術式を騙した。……そうじゃなきゃ、錬成機は永遠にエラーを吐き出すし、みんな魔術契約が果たせないまま、一生その鎖に縛り付けられることになる。だから、勝手に降霊術にした」


 マノンは黙って種を見つめる少年に、そのまま説明を続ける。


 「その種に施した降霊術式は、一時的に母親の魂を呼び寄せて、咲いた花に定着させるようにした。もし、全てが上手くいったら、花が咲いた時にお前の母親の魂が呼ばれて、花が咲いている間は居続ける」

 「……もし、失敗したら、どうなるんですか」


 リュカは震える声でマノンに聞く。

 

 花が咲かないだけなら、いい。

 だけど、もし、もしも育てる事に失敗したら。昨日見た花の様に、悪臭を振り撒き、醜い花弁の花が咲いたら。

 そこへ、お母さんが、呼び寄せられなければいけなかったら。


 けれど、マノンはリュカの望む答えは絶対に口にしない。


 「さぁな。そもそもこんな"花言葉"の花は、前例だってない。どうなるかは、アタシにもわからない。第一、成功する、しないは、無関係だ。そう、契約したはずだろ」

 「……契約、契約って、店長さんは!それしか言えないんですか!」


 いい加減にリュカも頭に来た。

 昨日から、この花屋の店主は、口を開けば"契約"だと、口にする。

 

 "契約"したのだから、保証しない。

 "契約"したのだから、私は関係ない。


 そうやって、この店主は何も教えてくれない。

 

 リュカとの関係を、言葉を、閉ざす。

 

 まるで、家に閉じこもって項垂れている父親の様に。


 自分を睨みつけてくる小さな子どもに、花屋の店主は淡々と答える。


 「あぁ、そうだ。私は、お前と"契約"したから、商品を作ってやった。"契約"したから、商品を受け渡した。だが、その商品がどうなるかまでは保証しないし、関わりもない。それが、お前と私の"契約"だ」

 「……店長さんは、何のために、契約してまで、この花を……"花言葉の花"を売るんですか」

 「……"花言葉の花"を売るのは、アタシの持ってる技術の中で、一番金になるからだ。契約は、アタシの身を守るためだ。当然だろう。それは術具なんだからな。適当な扱い方をしたのは客の方なのに、アタシに全責任を負わされたくないんでね」

 

 リュカはマノンの答えを最後まで聞かずに、店を飛び出した。


❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀


 リュカが飛び出していった花屋の中で、盛大にため息を吐いたのはヴァンだった。


 「マノン。何で、あんな言い方した」

 「事実だろ」

 「言い方が悪すぎる。あれじゃあ、あの少年にとってマノンは、『契約』を盾に取って、金だけむしり取る悪徳商売している店長になっている」

 「概ね、間違っていないじゃないか。何が問題だ」

 「契約は法律を守って販売するために必要な措置だから仕方のないことだって、言えばよかったじゃないか。それに、花屋を開いた理由だって……マノン、これじゃあ『真実がねじ曲がっている。』……それは良くないって、学舎で学んだだろ?」

 「黙れ」


 マノンは、怒りを露わにした。


 「さっきから黙って聞いてりゃ、余所者の癖に偉そうな事言いやがって。学舎で学んだ?馬鹿の一つ覚えみたいに、学舎、学舎って、てめぇがそこを出たのは10年も前の話だろ!たった6年ぽっちで追い出された奴が……何も知らない奴が!アタシに口出しするんじゃねぇ!」

 

 ヴァンの顔が歪む。

 言われたくないことを、面と向かってはっきりと言われた事で、さすがのヴァンも、腹がたった。

 それでもヴァンは、マノンに怒りの言葉をぶつける事はせずに、ただただ黙って、店を出ていった。


 花屋には、マノン一人だけが残された。


❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀


 マノンは、会計カウンターに一人座って、店で一番大きな窓から外を眺める。

 店にある振り子時計が3度鳴る。

 もう、午後3時だ。


 リュカだけでなく、ヴァンまで怒らせたマノンは、今日はまだランチを取っていない。

 ここのところ、ランチはヴァンが買ってきてくれていた。お昼になると、それをリュカとヴァンとマノンで、接客用に据えたはずのテーブルで食べていた。

 今日も、本当なら話を終えた後に、ヴァンがサンドイッチを買って来ると言っていたのだが、それを怒らせて、出て行かせたのは、マノンだ。


 自分が悪いことも、マノンにはわかっている。

 けれど、『真実がねじ曲がっている。』という言葉を持ち出されて、マノンは頭に血が上った。

ヴァンは何も知らないのに。

 

 6年前に起きたことの真相なんて。


 店の玄関につけたベルが鳴る。

 

 マノンが顔を上げると、そこには"これからも一緒に"の花を注文した老夫婦が立っていた。

 わざわざ店に来たと言うことは、この老夫婦も、商品に何か文句があるのかもしれない。

 マノンはため息を飲み込んで、対応にあたる。

 

 「……"花言葉の花屋"へ、ようこそ。先日注文された商品に、何か不都合がございましたか?」

 「こんにちは、花屋さん。いいえ、今日はお礼を言いに来たんですよ」

 「……お礼、ですか?」

 「えぇ、先日の花が見事に咲きまして。フジの花をベースにしていただいたからか、とても良い香りがすると近所でも評判になりました」

 「私たち夫婦だけではなく、ご近所さんにも幸せを分けることが出来ました。ですから、是非お礼を言いたいと思って来ました。ありがとう、貴女のおかげよ」

 「ありがとう。素晴らしい花を私たちに作ってくれて」


 老夫婦は、驚いて立っているだけのマノンに笑いかける。

 

 『ねぇ、マノン。この"花言葉の花"たちが上手くいったらさ、きっとみんなが、マノンにありがとうって笑いかけてくれるよ。きっとみんなが、この研究を認めてくれる。そしたら、きっと、二人で幸せになれるよ』


 思い出してしまったミアの言葉に、マノンは涙が溢れる。

 急に涙を溢す若い娘に、老婦人は優しくハンカチを差し出す。

 

 マノンはその優しさに、その時だけ、甘えた。


❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀


 リュカは家に帰ってきてから、自分の部屋に閉じ籠った。

 ベッドの下に身体を潜らせて、マーゴ叔母さんが声をかけて来ても、返事もせずに、ただただじっと、部屋の反対側の壁を見つめていた。


 お母さんがいたら、またリュカがベッドの下に潜っている事にすぐに気がついて、チョコチップのクッキーとホットミルクを持って、側にいてくれるのに。


 マーゴ叔母さんも、他の親戚の人たちも、リュカがベッドの下に潜って出てこなくても、何かをしてはくれない。

 リュカは、お父さんと同じ状態だろうと思われて、放って置かれるだけ。

 誰も、お父さんも、ベッドの下にいるリュカの事なんて、きっと知らない。知っても、何もしてくれない。


 リュカは涙を拭う手に握りしめている小瓶の中の種を見つめる。


 もし、この花が咲いてくれたら。

 もし、この花が上手く行ったら、そしたら、お母さんに会えるかもしれない。


 お母さんは、ベッドの下のリュカを助けてくれるかもしれない。

 項垂れているお父さんを、どうにかしてくれるかもしれない。


 でも、それはずっとじゃない。

 

 この種から咲く花は、リュカの望んでいた"お母さんを生き返らせて欲しい"という願いには近いようで遠いし、それに、失敗したら、どんな花が咲くかもわからない。


 花を咲かせなければいい。

 このまま、瓶の中に種を入れて、しまい込んでしまえばいい。

 

 そう思うのに。

 さっきから、何度もベッドの下に隠している宝箱の缶に手を伸ばしているのに。


 できない。


 リュカは何度目かわからないほど、手を伸ばしては、引っ込めた。その手にひたりと、1枚の花びらが貼り付いた。


 薄い桃色をした、花火のように先が細長く広がる花びら。

 お母さんが好きだと言っていた、ナデシコの花びら。


 そういえば結局、あの花屋の店長に練習用に持たされてラッピングした花束を見てもらっていない。

 花束を上手く作れたら、今、手に握りしめている花の種の料金に当てているお駄賃が増えるはずだったのに。


 『私は、お前と"契約"したから、商品を作ってやった。"契約"したから、商品を受け渡した』


 花屋の店長の言葉を思い出す。

 

 リュカは、"契約"した。

 "契約"したから、この種を受け取った。


 "契約"したから、リュカは、この種の料金を何があっても支払わなきゃならない。


❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀


 マーゴが亡くした妹、オリヴィアの家に夕飯を作り来るようになって、しばらく経つ。

 妹と急に別れることになったその伴侶は、彼女を失った悲しみのあまり、まるで廃人になってしまった。

 妹の残した小さな宝物は、そんな父親の気持ちを上手く察することも出来ずに、日々を生きていかなければならなかった。


 最初のうちは、親戚中が手助けをしていた。

 妻に先立たれたアシルのために、残されたリュカのために。

 けれど、それも半月もすれば、それぞれの負担になる。


 今やマーゴの他に、彼らを助ける親戚は2人しかいない。

 そんな親戚たちだって、いつまでも暇じゃない。マーゴだって、そろそろ限界が来ている。

 

 いい加減、アシルには顔を上げてもらわないと困る。

 そう思いながら、今日も夕飯を作ったマーゴは、どうにも機嫌が悪いらしい甥っ子を呼びに部屋へ行った。


 「リュカ。もう、夕飯の時間だよ。いつまでベッドの下にいるんだい?」


 リュカがベッドの下に潜ってしまう事は、マーゴも知っていた。

 オリヴィアが死んですぐの頃は、しょっちゅうベッドの下に潜って泣いていて、正直、寝室で項垂れているだけのアシルよりも手を焼いた。

 それでも、夕飯の時間になると空腹に耐えられないのか、飽きたのか、必ず出てくる。


 だから、今日も出てくるのだと思っていた。


 部屋からは、何の返事もない。

 それどころか、物音の一つもしない。


 どこかおかしいと思ったマーゴがベッドの下を覗き込んだ時。


 そこに、甥っ子は居なかった。


 マーゴはそれから家中を探し回った。

 何度も名を呼び、バスルームから、物置まで、全ての扉を開けたのに、リュカの姿はどこにもなかった。


 マーゴは慌てて、寝室にいるアシルの元へ走った。


 「アシル!アシル!!大変だ、リュカが、リュカが家のどこにも居ない!」

 「……リュカが、居ない?」


 アシルの顔が空の花瓶ではなくマーゴを見た。

 マーゴの慌てた表情に、アシルは妻を亡くした時の嫌な記憶が蘇る。


 『……お父さん。お母さんが、どこにも居ないの。もう、晩御飯の時間なのに』


 その直後だ。

 妻が事故に遭ったと電話が来たのは。

 

 妻の元へたどり着いた時には、もう、遅かった。


 アシルは電流が流れたかのように、座っていた椅子から立ち上がると、もつれる足で走り出した。


 また、何もできないうちに、家族を失いたくない。


 けれど、走るのがひさびさすぎて、自分の足に躓いて転んだアシルの目の前に落ちていたのは、色とりどりの花びらで、それは、息子の部屋の窓の外へ繋がっているように見えた。


❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀・❁・❀


 老夫婦は、マノンが落ち着くまで側に居てくれた。そして、また機会があれば注文させて欲しいと言って、店を出て行った。


 店の時計はもう7時を過ぎていた。

 

 店じまいをしようとしたマノンの元へ走り込んで来たのは、萎れてくしゃくしゃになった3束の花束を抱えたリュカだった。


 「……店は閉める時間だ。帰りな」

 「帰りません!」


 リュカは、マノンにまず花束を押し付けた。

 マノンは押し付けられた花束たちを一つ一つ、見ていく。

 花束の花は萎れていて見られたものじゃなかったが、包装紙やリボンの使い方は素人がやったには上手かった。

 

 「店長さん、言いましたよね。"契約"したから、この種を、僕に渡したって」

 「そうだな」

 「僕も、店長さんと"契約"しました。何があっても、この花の料金を、支払うって」

 

 そうだ。

 マノンは"契約"した。

 

 何があっても、"花言葉の花"の代金はもらうと。


 「だから、僕、支払うために、ここで働きます。ここで働きながら、この種を、店長さんの前で、育てます」

 「育てるだけなら、別に自分の家でも出来るだろう」

 「家で育てていたら、間違って、他の家族にこの花のことを話してしまって、魔術契約を破ってしまうかもしれないです。そしたら、僕も、店長さんも、ヴァンさんも、みんな危ないでしょう?」

 

 たしかに、ちょっとでもリュカが口を滑らせれば、マノンもヴァンも危ない。

 契約の鎖に首を絞められて死ぬか、禁忌に触れかけたことがわかって営業停止になる。

 ヴァンも契約に加わっていることがわかれば、今の仕事を続けられなくなるだろう。


 「僕、お店の掃除も、花の水を換えるのも、話しかけるのも、ラッピングも、全部します。それで、料金を支払い続けます。それが、"契約"だから。この種を秘密にして育てる事も"契約"です。だから、このお店で、働きながら、育てます」

 「……失敗したら、どうなるかわからないんだぞ」

 「その時は、店長さんが助けてください。だって、僕を助けないと、失敗した花が何かした時に、誰かが何かを聞くと思うし、それに、無関係だって言っても、信じてもらえなければ、契約があっても、店長さんは無関係でいられないと思います」


 マノンは、目の前にいる少年をじっと見据える。

 その目が一切逸らされないのを見て、先にため息を吐いたのは、マノンの方だった。

 

 マノンは頭をガリガリと掻くと、店の扉を開ける。


 「植え付けは、早い方がいい。この際だ、店で一番いい鉢に土、それと肥料に水もサービスしてやる。さっさと、やるぞ」

 「……はい!」


 マノンは花束を抱えて、リュカは種の入った小瓶を握りしめて、花屋へ入って行った。

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