第二話 最後の日常
煌々《こうこう》と輝く夕日の中、春人は通学時と同じく慣れ親しんだ道を歩いていく。
特に何も変わったことはなく、今日も平穏な学校生活を終えた。波乱万丈な学生生活なんて、小説かアニメの中にしか存在しない。実際の学校というものは、わりと味気ないものだ。
……そう思うのは、自分が変わっているからなのかもしれないが。
学校での自分は、自らで言うのもなんだが、完璧な平凡として振舞っている。
進んで目立つなんてもってのほかだし、何より自分自身、やるからには普通が好ましい。というワケで、学業においても平均七十点を目標にしている。
学校で自分の評価を聞いても、「知ってる」以上の答えは返ってこないだろう。男女問わず友人はそれなりにいるが、それでもたまの休日くらいしか付き合いはない。他人が嫌いなわけではなく、極力他人と付き合わないようにしているのだ。
不合格になったとはいえ殲教騎士というのは、秘匿されるべき存在。
色々と理由はあるのだが、基本的に超常の力を持つ殲教騎士というものは表の世界へ出してはならないものだ。当然、一般人に存在を知られることも避けなくてはならない。
もし知られたら、殲教騎士という神秘を知ってしまった一般人の、記憶を消すのがセオリーだ。
当然、そんなことはしたくない。
……否、出来ないと言った方が正しいか。
それでも特定の人間との付き合いが深くなれば、余計な波風を立て問題へと発展するだろう。だから気づかれないように日々の生活を送っているのである。
そんなことを考えながら春人は帰路の中、近道である公共の公園内を歩いていく。
公園をしばらく歩いていたら、そこには「痴漢ダメ!」という薄汚れた看板が立てかけられいた。自殺の名所に「命を大事に」という看板が置かれているのと同じか、と思い、春人はそのくだらなさに苦笑する。
街灯が必然と少なくなるこういう場所は意外と多くあり、夜間では犯罪発生率が上昇しやすいのだ。春人もいつかの帰り際に、小学生男児に覚醒剤を売り渡そうとしていた売人を追っ払ったことがあるほど。
多少の危険はあるが、学校近くにあるこの広い公園を通り抜けると、すぐに中心街の外れに出て帰宅することができる。普段の昼間から夕方では親子連れで賑わったり、放課後に学生たちが遊んだりするが、この日本でも今は物騒な事件が立て続けに起きてるからか誰もいない。
春人が公園の内部を歩いていると、ただの靴音が静寂ゆえに一段と甲高く感じる。
いや、待て――
「……なにも、聞こえない? 一体……どうして?」
慌てて春人は立ち止まる。
なんだそれは。いくら公園内だからといって、中心街と密接関係にあるこの場所で、何の音も聞こえないのはおかしい。
物騒になったとはいえ、皆が皆外出しなくなるだろうか。車両の走る音、人々の話し声、その他諸々の音が一切聞こえないなど、そんなことはありえない。
これはまるで、この公園が世界と切り離されたかのような――
そのとき、自分の笑い声以外の声が何処かから聞こえた。口を閉じ、春人は耳を澄ませた。するとか細い女性の声が聞こえてき、それが公園の中から聞こえるものだとわかった。
看板を思い出す。痴漢やら窃盗犯やらが、このへんによく出没するのだろう。
自分には関係ない話だが、春人はそういったものを見過ごせない性格だった。
春人は足音を可能な限り消して公園の中心部に近づき、木々をかきわけて奥へと進む。
慎重に近づいたのは、もし女性を襲っていた場合に背後から犯人を殴り倒すためだ。
そういう犯罪は、追い払うより数発殴ってやった方が被害者のためになる。
音源を探りながら進んでいくと、草を踏み潰して作られた少し広い空間に出た。
そこには人影が一つ。
……ん?
予想とは違う光景に若干戸惑った春人は、次の瞬間、目を剥いた。
一人、ではない。地面にもう一人、倒れている者がいた。公園の街灯が木々の隙間から弱々しく射し込みだし、その場の光景を僅かに照らし出していた。倒れているのは、OLらしき若い女性。顔全体が赤く染まった状態で、ピクリとも動かない。その赤さはペンキか何かのもので、これは悪質なイタズラかもしれない、という楽観的な想像は出来なかった。
確かめるために、春人は一歩踏み出した。その音に人影が振り返る。薄暗い中でもよくわかる、大柄で若い男だった。トレンチコートのような物を着ていたが、胸の部分が赤く汚れ、それは男の口元にまで及んでいた。
春人は素早く視線を走らせる。身長は自分と同じ百七十センチくらい。体重は向こうが上で、脂肪より筋肉の比重が上。右手の指に嵌めている鈍い光沢を発した金属は、いわゆるメリケンサックというやつだろう。
体格の良さに物を言わせ、力ずくで相手を殴り倒しているということか。
このまま問答無用でも良かったが、春人は一応聞いてみることにした。
心臓がバクバクと鳴り、とてつもなくうるさい。
緊張し過ぎて声が出るかどうか不安だったが、ちゃんと出た。
「……あなたは、ここで何してるんですか?」
「もう安心だ」
「……えっ?」
返事の内容も意外だったが、男の反応が思いのほか冷静なことに春人は驚いた。
犯行の現場を見られたというのに、動揺する素振りもない。
男の様子は、むしろ誇らしくさえ見えた。
「君は民間人だね? 任務は無事に終わったから、もう心配しなくていいよ」
男が近寄って来たので、春人は身構えた。
それを見て、男は苦笑を浮かべ右手に嵌めたメリケンサックをコートに仕舞った。
「ああ、混乱しているようだね。すまない、一から説明しよう」
場所を移動したことで街灯から射し込む光量が増し、男の顔がよく見えた。
歳は二十代後半くらい。さっぱりとした清潔感のある顔立ちであり、二枚目と言っていい容姿だった。背広を着てネクタイを締めれば、エリートビジネスマンにも見えるだろう。
金にも女にも不自由しそうにない雰囲気がある。
……こいつは傷害犯もしくは殺人犯、なんだよな?
ついさっきまであった確信が、春人の中で大きく揺らいだ。
男は足元に投げ捨ててあった自身の鞄の中に手を伸ばし、何かを取り出した。それを春人の方へと軽く放り投げる。
春人が何となく受け取ってしまったそれは、黒い革製の手帳だった。
「私は警察の特殊部隊員でね。今、ちょうど任務を終えたところなんだ。本当は極秘中の極秘なんだけど、見られたら説明しないと誤解を招くからね。私の身分はそれに記されているから、確認してくれ。それで君の誤解も解ける。ただし、この件は一切口外しないでほしい。いいね?」
「は、はぁ……」
曖昧に頷きながら、春人は手帳と男の顔を交互に見比べた。
どうにも緊張感が緩んでしまった。男の冷静さは演技ではなさそうだし、となると事件とは無関係なのか。それならば、このOL女性の死体はどう説明するのだろう。
あれは死体ではなく、ただのエキストラで、これは何かのイタズラもしくはテレビか映画の撮影か?
男に焦ってる様子はない。警察の特殊部隊員とかいう話しは信じがたいが、それも急な思いつきで喋ってるようではなかった。
とにかく男の言う通り、手帳を開いて見ることにする。
春人はページをパラパラとめくった。
しかし、中身は全て白紙だった。
「あの、これは……」
春人の言葉が途切れた。頭に衝撃が走り、平衡感覚が僅かに狂う。それが痛みに変換されるより速く、春人はほとんど本能で後ろへ飛び退いていく。すると鼻先を何かが通り過ぎていった。その風圧で前髪が煽られ、春人は肝を冷やした。
よろけながら後退し続ける春人に、形を持った悪意が襲いかかる。顔面に迫ってくるそれに対し、春人は反射的に左腕を上げた。
「ぐっ!」
鈍い音と痛みが体内を駆け巡り、脳から分泌されるアドレナリンが意識を明確にする。
地面を転がるようにして、春人は抜け出した。柔らかい土から固い地面の感触へと変わり、街灯の光が辺りを照らしていた。どうやら夕方から夜になったようだった。
視界が広がったことで余裕を取り戻し、春人は左腕を押さえながら状態を確認する。
「ぐっ、骨まで届いたか……」
春人に続いて出て来た男は、今の攻撃に対する興奮など微塵も窺えなかった。
まったく普通の足取りで、春人の正面に立ち止まる。手には春人が落とした手帳を持っていた。ここまで明るければわかる。今まで喧嘩で何度も目にしてきた春人には、わかる。よくわかってしまう。男の胸や口元を汚している赤い染みは、飛び散った血だ。
「私の素性はわかってくれたと思う」
落ちた手帳をズボンのポケットに仕舞い、男は言った。
「君のような存在を、国家の敵を消すために作られた特殊部隊に所属しているんだよ、私は」
男の話しを聞きながら、春人は左腕の痛みを感じないように意識を集中し、呼吸を整えた。
手帳に視線を落とした隙を狙って、いきなり殴られたのだ。
何が身分を証明する手帳か。ただの奇襲の道具じゃないか。
そんなものに引っ掛かった自分の馬鹿さ加減に、春人は腹が立った。
「国家の根幹を壊す君たちのような邪悪な宇宙人を、私は許すことが出来ない。これは神の断罪と考えてもらっていい。地球の平和のため、私はヒーローと共にいつでも戦う」
その目つき、その口調、その雰囲気、その思想から、春人はこの、男がどういう人間なのかほぼ理解出来た。
なるほど、異常者か。
理路整然と嘘をつける。妄想を真実として話せる。自分の中にある思考を絶対だと断言出来る。そういう狂った人間だ、こいつは。
手帳の件も、きっとこいつにとっては真実なのだろう。
こいつの目には、ただの白紙が政府公認を示す身分証に見えるのだろう。
不気味なほど純粋な輝きを放つ瞳は、春人を宇宙人として認識していた。
正義のために、地球の平和のために殺してきた、と誇らしく本気でそう信じている。
こんな奴が殺人犯。こんな危険な奴が街で普通に暮らす。
春人は虫酸が走った。
「君は、さっきの女の仲間だな? 助けに来たようだが、私にあったのが運の尽きだ。おとなしく殺されなさい」
こんな奴のせいで、真っ当な人間の人生が潰される。
呼吸を正常に戻した春人は、感情の高ぶりが全身に伝わっていくのを感じた。
そして呼吸が、再び速くなっていく。
今度は意図的に、これから爆発するために。
「……お前、たくさん人を殺してきただろう? 人が死ぬってのがどういうことなのか、わかるか?」
「命乞いのつもりかな? それとも時間稼ぎか? 追い詰められると、みんな同じことをするものだね」
男の苦笑を無視して、春人は続けた。
「死ぬってのは、この世から消えるってことだ。どこにもいなくなるってことだ。この意味、わかるか? たとえこの世の富と権力を全て手に入れても、死んだ人間は戻ってこないんだ。絶対に戻ってこない。この意味が、わかるか? 本当にわかるのか?」
何故こうも見ず知らず者の死に感情的になるのか、今の春人には理論立てて説明出来ない。でも黙っているべきではないことだと思った。
「何で殺した! 何で、人を殺すんだ! 死は悲しみを広げるんだぞ!」
「何をそんなに興奮しているのかな?」
激昂する春人とは対照的に、男は平静そのものだった。
「私が君たちを処分するのは任務だからだ。これは人類の正義のため、平和のためなんだよ」
「……ああ、何を言っても無駄か」
謝罪を求めても無駄。殺人行為の是非を問うても無意味。
そんな男を見て春人は腹が据わった。逃げようとか、大声で助けを呼ぼうとか、警察に連絡しようとか、という考えはまったく浮かばなかった。
左腕の感覚はほぼないが、関係ない。
最初の奇襲で額が割れ、いくらか出血しているが殺された者を思えば、関係ない。
右拳に力を入れ、構えて男に敵対の意志を向ける。
男は、理解出来ないという表情で頭を振っていた。
哀れみさえ込めて春人を見つめる。
「かわいそうに。君も宇宙人に狂わされてるね」
「みんな狂ってるさ。狂ってるからこそ気づきにくい。世界がどれだけ歪んでるかを」
春人の意識と口は乖離し始めていた。意識は目前の男に集中し、口は溢れる感情を言葉に変換して紡ぎ出す。両足がガタガタと震え、殺人犯を前にした恐怖と、これから起こることへの興奮が、身体を突き動かそうとする。
男は両手で構えた。鍛え上げられた上半身、重心の安定した下半身、それでいて軽やかなフットワーク。拳を握り、顔を守るように構えるそれはボクシングスタイル。
さっきの攻撃からもわかる通り、男は格闘の素人ではない。
対する春人は、格闘技は趣味レベル。その構えも我流スタイル。
春人は一気に駆け出した。我慢出来なかったのだ。
一分一秒でも速く、ぶっ飛ばして被害者の悲しみを終わらせたい。
真正面から迫る春人を、男は拳で迎撃。左ジャブで動きを止められ、右ストレートが顎を打ち抜き、さらに右のボディブローが春人の腹を抉った。見事なコンビネーション。それでも春人は倒れなかった。苦し紛れに振り回した拳を回避され、再び右ストレートをまともに額に受けた。目の奥で花火が散る。よろけながらも小走りで後退し、春人は男と距離を取った。追撃してくるかと思ったが、男は春人を冷静に観察しているようだった。
左目が腫れた。内臓は平気だ。顎は痛むが、感覚は残っている……。
自分のダメージを分析しながら、春人は男を睨みつけた。
男は普通の強さではない。不良に巻き込まれがちな春人だからこそ、男の強さがよくわかった。引き締まった体格と練習で染み込まれた動き。そして、躊躇いというものがない。
喧嘩等で場数踏んだ者なら誰でも意識的にしてしまう手加減を、まるでしていない。もちろん、素人が加減を忘れて重傷を負わせた例はある。
でもこの男素人ではないのにしていない。殴打による殺人犯だから当たり前か。何故なら殺そうとしているから。
犠牲者を増やしていく過程で、男の殺人技巧も自然と上達していったのだろう。無理をせず、効率よく殴り殺す方法に長けているようだった。
男からもらった打撃は、普通ならどれも気絶しておかしくないものばかり。想像以上に効いた。グローブを付けないボクシングは木製バットで強く殴られるようなものだ。これが帰宅部の中学生なら、とっくに体勢を崩されあの世逝きだろう。最初の奇襲時点で決着しているはずだ。
しかし、春人は生まれつき打たれ強く、回復も早い方だった。喧嘩を売られても大抵殴り負けたことがない。五人の不良と相対しても、そのときは相手全員を返り討ちにしたぐらいだ。
それが養父の指導でさらに底上げされたのだから、おいそれと負けるわけがない。
理由はどうでもいいが、春人は自分の肉体の頑強さに感謝した。
全ての意識を男に向け、それ以外を遮断していく。聞こえるのは自分の荒い息づかいと、心臓の音だけ。公園の景色も白黒に変わり、男の動きに焦点を絞った。吐き気がしそうな頭と腹の痛みも、意識から無理やり追い出しだ。
あと三回も殴られたら意識を失ってしまうかもしれない。そうなったら殺される。ここで終わる。男がすぐに追撃してこないのは、おそらくもう春人を殺すまでの流れが出来ているだろう。腕力と技巧は向こうが上で、凶器を持っていて、人殺しの経験も豊富。
そこで春人は考えるのをやめた。
あとは本能に任せる。どうなっても悔いはない。
春人は腹の底まで息を吸い込み、再び、全速力で男に急接近した。
そして、迎撃の体勢を固める男の顔を目掛けて蹴り上げた。
地面に落ちてた小石を。
それが男の右目に当たったのは最高の幸運。生まれたのは僅かな一瞬の隙だが、それで十分だった。春人は思い切り膝を曲げて膝を沈め、溜まったバネを爆発させた。春人の頭が、男の顎を真上に打ち抜いた。全身を使ったその威力に男の身体はかすかに宙に浮き、しかし、倒れはしなかった。
見た目通りの耐久性。顎を押さえて呻く男を視界に収めながら、春人は素早く左腕に巻いてた腕時計を外し、右拳に巻いた。
昔、従兄妹の兄から小学一年時に貰ったものだ。
聞いたこともないメーカーで、不格好な代物だが、頑丈さだけは素晴らしい一品。
ほとんど鋼鉄で造り上げられた時計。
春人は上半身を豪快に捻り、時計を巻いた右拳を男の顔面に叩き込んだ。普通なら、こんな怪我を負った素人のパンチを受けないだろう。だが今は、顎の痛みに動揺する今だけは、可能性があった。メキメキという音が、春人の拳から伝わってきた。
命中箇所からして、鼻骨と前歯が折れたらしい。
「うぐっ、ぐあぁぁぁっ! 」
悲鳴とともに大きく開けられた男の口に、春人はもう一発叩き込んだ。
血の糸を引きながら拳を戻すと、折れた歯が何本か手の甲に刺さっていた。
「がっ、ぐっ、あぐぅ……」
顔を押さえながら地面をのたうち回る男を見下ろしながら、春人はさらに拳を振り上げたが、それは取り止めた。
犠牲者と同じ目に遭わせるというのが筋なのかもしれない。しかし、何かがそれを思い留まらせる。こんな男、もっと殴っても問題ないのに、捕まったらどうせ刑務所から出られないのに、どうも行き過ぎてると考えて追撃に動けない。
自分の覚悟のなさに舌打ちしたい気分だったが、どうにもならなかった。
右拳に巻いていた時計を捨て、ポケットから携帯電話を取り出そうとしたとき、ボキン、と異様な音がした。男の身体が歪む。ゴキゴキと音を立て続け、身体の内側から膨れ上がり、巨大化する――やがて現れたのは二メートルを超える巨躯だった。手足は太く、信じられないほどガッチリ引き締まっていた。来ていたトレンチコート等の服は破け、その下から出てきた肌は赤褐色に変色していく。肩や腕の筋肉は、バキッ、バキリッと不気味な音を立てて雄牛のように盛り上がっていく。ズボンも吹き飛び、露出していく全てがもう人間からかけ離れていった。
まさに、バケモノだ。
そうとしか言えない。
「ふ―っ、初めましてと言ったほうがいいか?」
声帯まで変わったのか、急に、何人かが喋っているかのような不気味な声で話し出した男は、
「オレは、今までコイツの中にいて殺人衝動を引き起こすように誘導してたんだ……わかるか? 今のオレが――テメェらのような下等生物じゃないってことがよ!」
と、男ではなくなったナニかがそう名乗る。同時にこちらを睨む狂暴な眼は、黄金の輝きを放ってきた。
「あ――がっ……ッ!?」
黄金色に輝くその眼を向けられただけで、春人は身体を動かすことができなくなった。
それは最早呪縛に等しい。直視されただけで人を石化させてしまうような感覚。魔眼。その言葉が適切に思えた。
バケモノと化した男はただただ春人の前で真正面に佇む。両手の骨を鳴らしながら、ただ笑う。いや……嘲笑した。そのまま嘲笑しながら動けない春人を直視しつつ、バケモノは距離を縮める。
その間合いが一メートルにまで縮まり、
「そんなわけでよ、とりあえずオレに喰われとけ」
瞬間、バケモノの拳がノーモーションで春人の鳩尾に放たれた。
「なに、をっ……!?」
身体に突き刺さるほどの衝撃と、肋の何本かが確実に折れたという実感。春人は放物線を描きながら宙を飛んで、そのままアスファルトの地面に落下した。
なんだ、これ……? 人間の持つ腕力と膂力を完全に逸している。あのバケモノは軽く拳を当てただけで、なぜこんなトラックと正面衝突したかのようなダメージを出せるんだ?
「う……ぐっ……がッ!?」
堪らず春人は、血と胃液の混じったものを吐瀉する。
春人はそのまま上手く動けず、昏倒しつつある意識の中、ただ冷たい地面を見つめていた。
――死ぬのか、自分は?
これで自分は死ぬ――理不尽な死だ。つい三十分前まで、自分はいつもと変わらぬ日常を過ごしてたはずだ。それがいきなり殺人犯に襲われたと思ったら、その殺人犯がバケモノに変貌し、わけのわからないまま殺される―不条理極まりない死だ。
嫌だ。そんな死は。
だけど、春人の意思とは無関係に、徐々に身体から体温が消えていく。痛覚も曖昧になり、視界は朧気になり、身体が冷え続ける。
それでも、ふざけるな――と春人はそう思った。自分はこれで終わるのか。たった十四年短い人生を終えるのか? 否だ、そんは断じて否だ。冗談ではない。確かに世界は理不尽に満ち溢れている。だがここでその理不尽を全て受け入れてしまえるほど春人は諦められる性格ではなかった。このまま、こんなところで死ねない!
心が高ぶっていく。春人の怒りが燃え上がり、理不尽への視線への反発を視線に込めてバケモノを睨みつけた。そうだ。まだだ。まだ終われないし、終わってはいけない。こんなところで自分は止まっちゃいけない。こんな――理不尽に屈することは出来ない。自分はまだ、だから――
「ア?」
バケモノの呟きが、聞こえた。
意識を確かに持て。肋を折られたくらいで寝るな。まだ死んだわけじゃないんだから。
バケモノの人間ならざる拳が迫る。超速で繰り出された正拳突きが、春人の顔面を完膚なきまでに破壊しようとするが――
そのとき春人の右手が急激に赤く光った。同時に右手の甲に一瞬円が浮かび上がる。瞬間、そこから赤い光が溢れ、春人を包み込んだ。
春人を包み込んだ光の壁がバケモノの拳を阻んだ。車体を容易に砕けてしまうだろう埒外な一撃を、壁は完璧に受け止めていた。重く、巨大なものが壁に激突したような音が響いたが、壁に護られた春人は無傷だった。
バケモノは突然の出来事に、歯軋りをする。その奥にあるのは、驚愕と、そして――歓喜だった。
「お前は……そうか。その力は殲教騎士か」
バケモノの拳を受け止めた赤い光の壁は、そのまま空気へと溶け込むように消滅した。もはや春人を護るものは存在しない。バケモノがもう一度攻撃してくれば、再び防ぐことが出来るとは思えなかった。
すると、そのとき、
「はぁ~…………しばらく見んうちに、管轄地区の殲教騎士の質も落ちたもんやで」
どこからか聞こえてくるエセ関西弁に、バケモノは唸りを上げて立ち止まった。
木と木に挟まれた路地、前を見ても後ろを振り返っても人影はない。
しかし、
「……いや、それだけ優秀な人材が防衛部に偏ってるということか。霊災が増加してる悪影響や。どうにも不穏なことやで、まったく困るわ……」
背後。
それも手が触れそうな至近距離から、その声は突然聞こえた。飛び退いて振り返ろうとする。だが、身体が動かない。動かせない。指一本、いや、舌すらも微動だに出来なかった。
背後にいる気配が、ゆっくりと歩き出す。カツン、カツン、と足音が鳴る。靴音とは異なる甲高い音が、人気のない公園に響き渡る。
バケモノの身動きを封じた何者かは、動けないバケモノの前に、自分から回り込んできた。だが、それと同時に、バケモノを封じた力が、視覚にまで侵食してきた。バケモノの視界を封じ、容赦なく意識を落とし込んでいき手に持っていた長剣で首を削ぎ落とした。
「ほんま、えらい長期休暇もあったもんやで」
足下に倒れるバケモノが消滅していくのを見下ろしながら、何者かは重大そうにぼやいた。
「あんた、一体……」
「ん? ああ、その話はキミが起きてからや。今は眠っとき」
春人の返しに何者かはそうつぶやくと、春人の意識は薄らいでいく。
ここにきて、今までの疲労……精神的にも、肉体的にも大きなダメージが来たのだろうか? 否、全く違う。この得体の知れない男が何かしらの手段を用いて春人を無理矢理眠らせたのだった。