第89話
「ヴァルハラの大掃除?」
ノルンから呼び出しを受けた私たちが、更にオーディンから呼ばれて頼まれたこと。
それはヴァルハラの大掃除だった。
何が悲しくて、せっかくの夏休みという時間をそんな下らないことに費やさなきゃならんのか、なんて私は考えたが、オーディンは長く生きているだけあって、その辺は狡猾だ。
「もちろんタダで、とは言わぬ。そうさな……人間よ、もし手伝ってくれるというのであれば、お主らの願いを一人一つずつ叶えてやるぞ」
その言葉に、最初はめんどくさそうという顔をしていたメンバーは少しだけやる気を見せる。
「何でも、ってのは?どの程度の範囲叶えてくれるんだ?」
中でも愛美さんの食いつきが良く、他のメンバーが呆れた様にその質問している愛美さんを見ていた。
私でもちょっとしたお願いを叶える程度のことは出来るが、専門ではないからオーディンにはその辺及ばないということは自覚している。
愛美さんが何をお願いしたいのかはわからないが、オーディンにしか叶えられない願いなんていうのもあるかもしれない。
「お主の考えつく程度のことなら何でも叶えてやれるぞ。もし仮に人間界を支配したい、と願うのであれば、それすらも叶えて見せようじゃないか。もちろん、その後のことについては責任持てぬがな」
これまた極端な例を出してくれたもんだが、愛美さんがそういうのを願うタイプの人間でないことはわかっている。
しかし、愛美さんはそれを聞いて俄然やる気が湧いてきている様で、私たちにもよしやるぞ!なんて鼓舞し始めている始末。
だから特にそんなことは心配していないが、一体どれだけのことをすればいいのか、というのが皆目見当もつかない。
「お主らにやってもらいたいのは、このヴァルハラの倉庫の整理。それから、天井と壁、床の掃除なんじゃが……分担してやってもらえるかの?」
そんなの神力で何とかすりゃいいじゃん、と思わなくもないのだが、以前オーディンがこのヴァルハラを作り直した時に言っていたことを不意に思い出す。
『お前たちが暴れてくれたせいでこんな面倒を……一応今回の素材は、神力をある程度弾く性質を持って居るがな。それでも限度はあるから、今後はあまり暴れてくれるなよ』
となると、神力で汚れを落としたり、というのは出来ないことになる。
いや、厳密に言えば出来るかもしれないが、やろうとする場合それなりに力を込める必要があるということだ。
生半可な力では弾かれてしまうし、かと言って力を込め過ぎればまたヴァルハラ崩壊、なんて話になってオーディンからもヘイムダルからも責め苦を受けることは間違いない。
全くもって面倒な話だ、と思うが愛美さんの鼓舞のおかげかみんなも少しずつやる気になっている様だし、大輝を救出に行ったときにはオーディンの世話にもちょっとだけなった、という経緯もあってまぁ借りを作ったままって言うのもな、と私も思い直した。
「一応増援は頼んであるがの。みんなで分担してやってくれ。終わったとわかればヘイムダルに確認させるぞい」
あいつに確認させるのか……日が暮れても終わる気がしない。
そう思ったのはきっと私だけだろう。
あと増援って誰のことなのか。
「あなた、私は何処をやれば良いの?」
「おお、来たか」
この声はフリッグか。
オーディンの妻で、堅物バルドルはこのフリッグとオーディンの息子だ。
そしてその傍らに控えているのはその堅物バルドル。
親子という割にはあんまり似ていなくて、フリッグは淡いグリーンの髪をしていて、身長も桜子よりちょっと低いくらいなのに対し、バルドルは金髪で顔だけは整っていて、一九〇センチはある。
フリッグは目が細いが、バルドルはキリっとした感じの凛々しい目をしている。
一見するとバルドルは爽やかイケメン風に見えるが、私はあまり得意ではなかった。
またバルドルの体からはオーラがピカピカと光っていて、見ていて目がチカチカするから、とっとと視界から消えてもらいたい。
「あなたが宇堂大輝さんですか」
さわやかな笑顔で、バルドルは大輝の手を取る。
初対面なのに一体何してんだこいつ、と思うが大輝は特に嫌がっている様子もないので傍観に徹する。
「そうですけど……」
「そうですか……先日は申し訳ありませんでした。この私の監視が甘かったばかりにロキのやつが……」
そう言ってバルドルは手を離し、その場に跪く。
仰々しいなぁ、なんて思うがあいつにしたら確かに自分の失態だ、なんて考えていてもおかしくはないかもしれない。
それも主神である父から頼まれた仕事のポカをした、ということにもなるのだからあの堅物にはさぞかし堪えたことだろう。
「ああ、いえ……別に痛い思いをしたとかではないし、俺が望んだことでもありましたから」
大輝はそう言ったが、女神化する瞬間は相当苦しそうだったし、私もみんなも生きた心地がしなかった、と人間界に戻ってから語り合った。
結果として、痛い思いは多少していたということになるのだが、ここでそれを言うことでまたこいつはめんどくさいことになりそうだと思った私はひとまず黙ってやり過ごそうと考える。
ちなみにこのバルドルもロキも、特に何か罰を受けたということはない。
神界には何かを罰するという法律の様なものはなく、もめ事は当事者同士で解決を、というのが神界の基本方針だ。
そして今回当事者の最重要人物である大輝は特に何も望まなかったことから、大輝が女神になったこと以外はロキとフレイヤが私にぶっ飛ばされて粉々になった、くらいのものだったという。
くらい、って言葉で済む被害ではなかったと思うけど、本人がそう言ったから私もそれでいいかと思って。
とにかくバルドルに話をさせていると、何時間でも謝っていそうなので適当なところで大輝を引きはがして、私たちはみんなで倉庫にきた。
「全員で倉庫に来ちゃって良かったの?」
明日香はさすがに真面目な子らしく、掃除をする気満々の様だ。
ちょっと男子ぃ!サボらないでよ!とか小学校の頃とか言ってても違和感ないかもしれない。
「まぁ、倉庫整理が一番楽だと思うしね。それに掃除用具も確かこの中に……」
倉庫は割と広い。
埃っぽくもあるのだが、広いおかげでそこまで埃っぽさを感じないでいられる。
そしてだだっ広い倉庫の片隅に、掃除用具が乱雑に入れられた箱を発見した。
「ああ、これね。私は言われた通り、各階の廊下を掃除してくるから。行くわよ、望月」
「了解いたしました。桜子も行くか?」
「じゃあ、ご一緒しようかな」
そう言って三人は箒と塵取り、モップを手に倉庫を出て行った。
愛美さんと朋美は、大輝とお互いとを交互に見ている。
どっちも大輝と組みたいと思っているのだろう。
私もそうだから、よくわかる。
しかし誰と組むことになったとしても、こんな面倒なことはとっとと終わりにして部屋で大輝とイチャつきたい、そう思ったので私は朋美の肩を抱いて、各部屋の掃除に回ることにした。
大輝と愛美さんを二人にしたからって、いつの間にか子どもが沢山出来てました、みたいなネズミを飼った時の様な結果にはならないと思うし、効率って大事だから。
それに大輝みたいな集中して作業をするタイプには、整理とか多分向いてる。
逆に私はああいう細々した作業が嫌いというか苦手と言うか……なので適材適所、と割り切ることにした。
「私も大輝と一緒が良かった」
「まぁ、そう言うだろうとは思ってたよ。だけどね、早く終わらせて帰れば思う存分イチャつけるって結果にもなるわけで」
「はっ!……そうだよね!私頑張る!早く行くよ、睦月!」
私の言葉に闘志を燃やした朋美が、雑巾とバケツを手に意気揚々と一つ目の部屋に入って行った。
大輝のことが絡むとここまで必死になれるってのはすごいと思うけど、やっぱり朋美って単純な方なのかな。
「……そんなに汚れてなくない?」
「まぁ、ここは空き部屋だって聞いてるからね。だけど今度一人、来るらしいから」
「そうなんだ?どんな人……神だっけ。が来るの?」
「イズンっていう女神だね。リンゴの農園を管理してる神なんだけど」
「リンゴ?もしかしてアダムとイブが、っていうあれ?」
「黄金リンゴって言う、神のドーピングアイテム。アダムとイブが食べたのとは違うね」
そんなことを話しながら、私たちは部屋の掃除をしていく。
ここは家具なんかは揃っているし、しかも家賃とか取るわけじゃないから、人間からしたらちょっと羨ましい場所ではあるかもしれない。
「そういえば気になったんだけど」
「どうしたの?」
「シャワーとかついてないんだね。トイレも」
「ああ、基本的には必要ないからね。汚れたと思えば神力で汚れは飛ばせるし、トイレだって催したら体の中身だけ田んぼとか畑の中に転移させちゃえばいいんだから」
「でも、大輝とソールはお風呂がどうって」
「ああ、気分次第だね。お風呂が好きって神もいれば百年単位で入らなくても平気ってやつもいるし」
それを聞いた朋美は何となく顔を青くした様に見える。
人間からしたら、年単位で風呂に入らないなんてのはあり得ない話なんだろう。
実際入浴という風習自体はあるし、入りたければ生成すればいい。
部屋の中に排水の仕組みなんかを作る必要だってない。
一瞬で乾かすなんてことだって、やろうと思えば訳もないのだから。
「あ、やってくれてるのスルーズなんだ?ありがとう!」
桜子よりも低い身長と赤毛が特徴的な細目女が部屋に入ってきて、私たちに礼を述べる。
朋美は一瞬誰?という顔をしたもののこれがイズンであることをすぐに理解した様だ。
「ってことは、あなたが?」
「そう、イズンです。いやぁ、助かっちゃうよ」
「いえいえ……あ、私は桜井朋美です。むつ……スルーズとは人間界での友達って言うか……」
「あ、例の大輝の?聞いてるよぉ?彼にもさっき会ってきた。あ、お礼にリンゴあげようか」
大輝に会っただと……?と朋美が顔を一瞬険しくするが、会っただけでそんな顔してたら新学期始まった時どうするの……。
それにバイトでだって客にはゴマンと女なんか来るだろうに。
そして人間に黄金リンゴなんか与えないでもらいたい。
「神のドーピングアイテムだって聞いてますけど……」
「あはは、まぁ人間が食べた例がないから、どんな効果が出るかわからないんだけどね。食べたくなったら言ってよ」
そんな恐ろしいことを言いながら、イズンは必要らしい荷物をどんどんと部屋に置いていく。
まだ掃除中だってのに、汚れたりしても構わないんだろうか。
まぁここの壁とかみたいに、荷物にまで抗神力の素材とか使ってはないだろうから無用な心配か。
粗方荷物を置いて、イズンはまた農園に戻って行った様だ。
そういえばあいつ、農園に住んでるみたいなもんなのにこんなとこ借りて本当に住むのか?
とは言っても荷物なんかもあるみたいだし、ひとまず掃除だけはしておいてやるのもいいか。
「変わった人……神だったね。桜子より小さいし」
「まぁ、あれでなかなか戦闘力もあるんだよあいつ。あとリンゴはまぁ、効果がわからない以上は食べない方が無難かもね」
私もすっかりと失念していたし朋美本人は知らないだろうが、古代の錬金術師の父を持つホムンクルスである彼女の体内には、膨大な魔力が眠っているという話も聞いている。
人間の体であってもホムンクルスの体であっても、リンゴの効果は未知数で未検証。
現実問題としてどんな影響が出るかわからない以上、変に刺激を与えない方がいいだろう。
「どうしたの?続き、やっちゃおうよ。もう少しだし」
「ん?ああ、少し考え事してて。そうだね、終わらせちゃおう。どうせあいつ、一日当たりでそんなにここにいる時間長くないだろうからパパっとね」
そんなことでいいのか、という顔をしながら朋美も早く終わらせたいという気持ちは同じらしく、私同様のわかりにくい手抜きをしながらイズンの部屋の掃除を終わらせた。
まだあと四十部屋以上あったと思うけど、本当に今日中に終わるのか、これ……。




