第58話
「愛美さんのお母さん、本当そっくりでしたね」
「まぁな……だけどまぁ、いい加減落ち着いてほしいもんだよ。さっきのかかと落としな、あれであたしの男が何人逃げたと思う?」
「…………」
そんな毎回やってたのか、あれ……。
というか俺も正直、睦月と付き合ったりしてなかったら逃げてた側だったかもしれない。
あいつのおかげで色々常人離れした体験させられてきてるし、普通の人間に比べたら多少肝が据わっていたりってことはあるんじゃないかと思うから。
「そういやあいつも、逃げなかった側だったんだっけな」
「あいつ?」
愛美さんが懐かしそうな顔をして、すぐに影を落とした。
流れから察するに元カレとかそういう立ち位置。
そして愛美さんのお母さんに会ったことがあるって言うことは、それなりに親密だったと推測される。
考えただけで何となくはらわたが煮えくり返るのを感じる。
オーケー、落ち着け。
別にその人が俺の前に現れたとか、そういうんじゃないんだから。
そんなことを考えていたら、愛美さんがふと立ち止まったので俺も止まって、愛美さんを見た。
「どうしたんですか?」
「あ、彰……?」
あきら?
何だそれ、人の名前だろうか。
愛美さんの様子が尋常じゃない。
彼女の視線を追うと、そこにいたのは一人の男性だった。
「……愛美」
「お前、何でこんなとこに……」
彰と呼ばれた男性は、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
正直男の俺から見ても身ぎれいな感じでイケメンだと思う。
それだけで何となく俺の中の、この人の印象は地の底まで落ちる。
まだ話してもいないって言うのに。
「久しぶりだな……二年ぶりくらいか?」
「…………」
愛美さんは答えない。
だが、俺がここで口を挟んでもいいのか迷う。
「そちらは?彼氏かな?随分歳が離れている様に見えるけど」
「お前には関係ない。彼氏だったらどうで、そうじゃなかったらどうだっつーわけ?」
挑発を交えて、いつもみたいに返している様に見えるが、愛美さんの表情に余裕は見えない。
ということは、この人はやっぱり愛美さんの元カレとかそういう立ち位置になるのだろう。
それにしても物凄いタイムリーに現れてくれたもんだ。
まさか待ち伏せていたとか、そういうことはないと思うが……それにしても間が悪い。
見合いが潰れたと思ったら元カレ、言うなれば連戦だ。
そしてその余裕のなさは俺にも徐々に伝染してきている様に思えた。
「別にどうもしないさ……ただ、君が現実を見失っている様であれば、僕はこの手に君を取り戻さなければならないかもしれない。それが僕の罪を贖う、ただ一つ僕に考えつく手段かもしれないからね」
「……勝手なこと言ってんじゃねぇよ。あたしにとってあんたはただの過去の男だ。今更あんたに何かしてもらう様なことなんか、一つもないね」
今にも殴り掛からんばかりの勢いで、愛美さんはその男性を睨みつける。
よほど因縁の深い相手なのか、俺には割って入ることが躊躇われた。
しかし、愛美さんを取り戻す、というその言葉だけは聞き捨てならない。
「あなたは、一体何なんですか?愛美さんにとって、一体何だって言うんです?」
やっとの思いで口を開く。
しかし得体の知れない相手だ、油断はできない。
「……どうやらよほど親密な関係の様だね、君と愛美は。だけど彼女から聞いていないのかな、僕は則本彰。所謂愛美の元カレってやつさ。同時に、元婚約者でもあるけど」
「!?」
突然飛び出す婚約者という言葉。
もちろん元とついてはいたが、それでも愛美さんとこの男がただならぬ関係であったことだけは間違いない様だ。
「てめぇ……さっきからベラベラと……」
「もしかして君から話すつもりだったのかな?彼を傷つけない様に?随分と優しくなったじゃないか、愛美」
「大きなお世話だ。物事には段階ってもんがあるんだよ。大体相手はまだ子どもなんだ、何でもかんでもお前みたいに伝えりゃいいってもんじゃねぇ!!」
愛美さんが怒りを露わにする。
その表情を見ると、俺の中にも言い知れぬ不安が侵食していく様な気がする。
だがそれはそれとして……愛美さんにこんな顔をさせているこの男を許しておくわけにはいかない。
「すみませんね、紹介が遅れて……俺は宇堂大輝。愛美さんの彼氏やってます。あなたが誰で、愛美さんにとってどういう関係だったかはもう、別にいいです。愛美さんが話したくなったら教えてくれるでしょうから」
「お、おい大輝……」
愛美さんを庇う様に立ち、彰さんを見据える。
この人がどんな人間なのかは知らない。
どんな彼氏だったのか、そういうことも全くわからない。
だからこそ、何をしてくるのか予想もつかない。
なら俺に出来るのは、愛美さんを守ることだけだと思った。
「だけど今、愛美さんにこんな顔をさせているのがあなただってことだけはわかるつもりですよ。こんな子どもの俺でもね」
「そうだとしたら、どうするというのかな?戦って守るか?それも面白いね、若者らしくていいじゃないか。だけど愛美はそんなに弱い女ではないと思うけどね。少なくとも、君の様な子どもに守られなくてはならないほど、愛美は弱くない」
「弱い女じゃないから、てめぇはあたしを捨ててったってことか?随分と言ってることが滅茶苦茶だな。そんな歪んだ愛情押し付けられても迷惑だ」
「押し付けているつもりはないよ。だけど君は君の価値を正しく知る必要がある。君にとって相応しいのは間違いなく僕だと思うけどね」
世の中金じゃない。
こんな世の中だけど、俺は少なくともそう思う。
これは精神論だし、現実問題としては確かにお金がなければ生きていくことすら困難だ。
目の前のこの男は社会人で、それなりに金も持っているんだろう。
世の中金じゃない、なんて言っていられるのは本当に金を持っている人間か、子どもの間だけなんだ、ということをこの男は無言で俺に伝えてきている様に感じた。
「何を基準にそんな与太話してんだか知らねぇけどな、あたしはもうあんたと一緒になる気持ちはない。たとえそうしないと死ぬ、なんていう運命だったとしても、あたしはそれなら死を選ぶ」
「嫌われたものだ。だけど、僕が出て行った経緯についてはお互い様だと思っているんだけどね。その点はどう思う?」
「何とも思わねぇよ。それ以上口を開くんじゃねぇ、不愉快だ」
春海が危うかった時に、愛美さんに結婚がどうこう言って壁ドンされたことがあったことを思い出す。
愛美さんが結婚の話はするな、と言いながらただならぬオーラを放っていたあの時のことを。
俺の中で色々が繋がってきた気はする。
「どうにも話にならないみたいだ。今日会ったことは偶然かもしれないが、これも運命なんだろう。改めて言わせてもらうよ。僕についてこい、愛美」
そう言って彰さんが愛美さんに手を差し伸べる。
愛美さんがはっとした顔でその手を見つめた後、その手を払いのけた。
「ふざけるな。あたしにその気はないと言っただろ」
「やれやれ、そういうところは相変わらずだな。僕もそういうところに惹かれたんだけどね。だけど、君をここで逃がすことはしないよ、僕は」
払いのけられた手を愛美さんの肩に回そうと、彰さんが手を伸ばす。
その手を見た瞬間、俺の体は勝手に動いていた。
「そういうのはルール違反でしょ。明らかに嫌がっている相手に何しようって言うんですか」
彰さんの手首を掴んで、再び愛美さんの前に立ちはだかる。
やっぱりこのままってわけにはいかない。
事情を聞くにしても、愛美さんにこんな顔をさせたままってわけにはいかないと、俺は思った。
「子どもの出る幕ではないよ。引っ込んでてくれるかな」
「そういうわけにはいかないですよ。俺は愛美さんの彼氏なんです。彼女に何かしようって言うなら、俺も黙っているわけにはいかないですね」
「そうか。だけどやっぱり君には退場してもらいたい」
彰さんがそう言った直後、俺は彰さんの後方に投げ飛ばされていた。
受け身を取れないまま背中から落下して、盛大に咳き込む。
「大輝!!……彰てめぇ……子ども相手に何してんだよ!!」
「先に手を出してきたのは彼の方だからね。僕は自分を守ったにすぎないんだけど」
「あれが暴力だって言いたいわけか。それに対して暴力で返すのが大人だってか?ますますふざけた野郎だな……」
「聞き分けてくれよ、愛美。僕はこれから、君が更に傷つくのを黙って見ているなんてできないんだ」
「今現在進行形で傷つけてるあんたが、それを言うんですか」
何とかして立ち上がって、彰さんの注意をこちらに引き付ける。
この男は危険だ。
何か普通じゃないものを感じる。
さっきのは合気道の技なんだろうけど、あんなのアニメとかでラスボス級のやつが使うやつだよな……。
「割とタフなんだな。驚いたよ」
「そいつはどうも……俺だって男としてこのまま引き下がるわけにはいかないもんで」
そうは言ったものの、この男を相手にしての勝ち筋が全く見えない。
さっきだって、正直何をされたのかわからないままに投げ飛ばされてしまっていた。
「……まぁいいや、慌てることはない。愛美、また会うこともあるだろう。今日は一旦、彼の勇気に免じて退いておくことにするよ。だけど……君は君の幸せを、きちんと享受するべきだってことを忘れない様にね」
「てめぇ、逃げんのか!!」
「ダメです、愛美さん!!落ち着いて!!」
更に食ってかかろうとした愛美さんを正面から抱きしめて押しとどめる。
肩で息をしながら、立ち去る彰さんを睨む愛美さんをこのまま連れて歩くのは正直困難だと思われた。
「悪い、睦月……ちょっと力を貸してくれるか?」
便利な力に頼るのは俺の本意ではなかったが、睦月に連絡をして俺と愛美さんを迎えにきてもらうことにした。
普段と違う様子の愛美さんに驚いた睦月だったが、簡単に事情を説明すると納得して、俺たちをマンションまでワープさせてくれた。
「少しは落ち着きましたか。とりあえずこれ飲んでください」
睦月のマンションでとりあえず水を冷蔵庫から出して、愛美さんに手渡す。
気まずそうにしながら愛美さんはその水を受け取って、一気に飲み干した。
「……悪かったな、変なことに巻き込んで」
「気にしないでください。今日を迎えるに当たって、ある程度覚悟はしてたんですから」
まぁ、こんなことになるなんて想像もしていなかったけどな。
「こうなったら、話さないわけにいかねぇよな……もう少ししてから話そうと思ってたのに、あの野郎……」
「…………」
立て続けにこんな話になったら俺がしんどいだろうという気遣いかもしれないが、もはやそんなことを言っていられる状況でもない様だ。
先ほどまでの俺には覚悟がやや足りなかったのかもしれない、と俺もふんどしを締め直す様な思いで愛美さんを見る。
「こうなったら全部、話してください。俺もちゃんと聞きますから」
そう言った俺の顔を見て、愛美さんが悲しげに微笑んで、躊躇いがちに口を開いた。




