とても長閑な昼下がり
今から約半年前に『なんとなく色々と嫌になった』という理由で唐突に会社をやめてから僕は無職だったのだけれど、昨日、巨大な岩に刺さっていた600年前の聖剣を抜いたことによって僕は勇者になった。人生、どのタイミングで何が起こるか、分かったものじゃないね。
どういうわけだか知ったことじゃないけど、その剣には意志が宿っているらしく、勇者である僕の頭に直接言語で語りかけてくる。剣が言うには、3年前に復活した魔王のせいで、現在この世界は着実に破滅の一途を辿っているらしい。
日々の食費も危うい僕としては、世界の危機なんかに関わっている場合じゃないと思ったのだが、しかし勇者の使命は決して放棄できないものなのだとか。剣は言う。もしも僕が勇者であることをやめようとしたならば、その時は自らの魔力で僕を呪い殺すのだと。随分とヤクザな聖剣もあったものだね。
僕は呪い殺されたくないので、しかたなく世界を救うことにする。
「で、魔王ってのはどこにいるわけさ」僕は、勇者としての経歴は再就職する際に必要な職務履歴書に書いても良いものなのだろうかとボンヤリと考えながら剣に訊く。剣は僕の頭に直接、魔王の館の住所を送りこんできた。偶然にも魔王の館は、僕の家の近所にあった。歩いて10数分の距離。まあ、なんて好都合。これなら書店に行くついでに世界を救えるね。
「じゃあ行こうか」僕は聖剣を右手で引っつかんで、サンダルを履きで出かける。関節部分の擦り切れたジャージを身に纏って。
濃灰色のアスファルトの欠片を爪先で蹴飛ばしながら僕は魔王の館へ向かう。途中、犬と散歩をしている老人や、学校帰りの小学生とすれ違った。僕の右手の聖剣に、何らかの反応を示すだろうかと思ったけれど、顔色一つ変えないノーリアクションであったため、どうやらこの剣は僕にしか見えていないらしいと結論付ける。きっと、選ばれた者にしか見えないんだな。うん、ありがち。
聖剣のナビゲートに従って僕は着実に魔王の館へと歩を進める。電線の上でカラスが等間隔に並んでいた。きっとどこかの神経質な輩が正確に並べたのだろう。結構いるよね、物の配置バランスに異様な拘りを見せる人。
長閑なお昼過ぎ。どこからか焼き魚の香ばしい匂いが漂ってくる。そういえば、最近はコンビニの弁当ばかり食べていて、焼き魚なんて久しく口にしてないな。用事をすませたら、スーパーに寄って秋刀魚でも買って帰ろうか。えっと、用事ってなんだっけ。あぁそう、世界を救うのね。うへへ。だるいなぁ。勇者って大変ね。
大欠伸をしながら歩いていると、不意に剣が告げる。目的地に到着したぞと。
「マジで? 館なんてないじゃん」何も、ドイツのノイシュヴァンシュタイン城みたいなのを想像していたわけじゃないが、僕の目の前に或るこの建造物はあまりにもあんまりだ。いかにも中流家庭な感じの、こじんまりとした平屋。グレーの屋根に、黄の強いクリーム色の外壁。これ以上にないほど、普通の家だ。おもちゃみたいな小さな門扉の脇には『石田』と書かれた表札。どうやら魔王の名は石田さんというらしい。
「ホントにこれが魔王の館なの?」僕が念を押すと、聖剣も無駄に威厳たっぷりの口調でそれを肯定する。もしもこいつが人間だったら、カイゼル髭を生えていたに違いない。伊藤博文みたいな。ところで、僕は伊藤博文と板垣退助の見分けがつかない。激しくどうでもいい話だね。ごめんなさいね。
僕はインターホンのボタンを押そうとして、躊躇する。こういう場合、応対に出た人間に、なんて言えば良いんだろう? 素直に、魔王を退治しに来ましたとでも言えば良いのだろうか? んな阿呆な。ただ、残念ながらここでマゴマゴしていても仕方がない。こういう場合は流れに任せるのが一番だぜってんで、僕は半ばやけくそにボタンを指先で押し込む。ポチン。あーあー、押しちゃったー。
「はい」インターホンのスピーカーから女性の声。表札が偽りのないものであれば、彼女が石田さんなのだろう。
「あのー、突然すみませんけど、ちょっとお訊きしたい事がありまして」
「失礼ですが、どちら様ですか?」
「えっと、名乗った所で御存知ないと思いますけど、僕は緒方って言います。隣町の者です」
「用件はなんですか?」
「ええ、ですから、ちょっとお訊きしたい事が」
「セールスなら結構ですよ」
「あ、そういうのじゃないです」
「今、料理をしてるとこなので、手短にお願いします」
「えっと、なんていうか、そのー、あれですよ、あはは、……魔王の」
「あのー、その件でしたら、もう勘弁して頂けませんか」そう言ってインターホンの向こう側で石田さんは、明らかにうんざりしたような溜息をついた。「は?」とか「意味が分かりません」といったような返答を予測していた僕にとって、この言葉は意外だった。
「その、あなたが、あの、魔王なんですか?」
「ええ、そうですけど。じゃあ、あなた、勇者ですか?」
「あ、はい。昨日なったばかりで」
「聖剣に唆されたのか脅されたのか知りませんが、私を殺しにきたと」
「ええ。後者で」
「取り敢えず、『もうこんな不毛な事はやめませんか?』と聖剣に伝えてくれます?」
「あ、はい」
僕は石田さんの言葉をそのまま剣に伝える。剣は否と答えた。
「無理だと言っていますが」
「……仕方ないですねぇ。少々お待ちくださいね」
「はぁ」
言われたとおり、少々お待ちしていると、門の向こうの板チョコみたいな扉がガチャリと開いて、仲から痩せぎすの30歳くらいの女性が現れた。石田さんだろう。
「お入り下さい」
「あ、良いんですか?」
「本当はあんまり良くないんですけど、仕方ないです」
「すみませんね、ホントに。ワガママな聖剣で」
僕は会釈してその家の中、魔王の館に入る。こんな昼食時に急に押しかけたりして、すげぇ迷惑だったことだろう。正直、恐縮した。
居間に通される。薄型の液晶テレビがついていて、無駄に淫靡な雰囲気の昼のドラマがやっていた。
「しばらくそこに掛けていて下さい。作りかけのお昼ご飯が出来上がるまで。あ、緒方さん、でしたけっけ……、あなたも召し上がりますか? チャーハンですけど」
「あ、いえ、お構いなく」
「そうは言っても。私だけ食べるのもなんか変じゃありません?」
「勝手に押しかけた僕がそもそも変なので」
「あ、それは確かにそうですね」
僕は、なんだよ納得するのかよという言葉を飲み込み、微笑んで頷いておく。
「でも、お茶くらいはお出ししますよ。珈琲と紅茶、どちらが良いですか?」
「すみません。じゃ、珈琲で」
石田さんはキッチンで料理の続きを開始した。居間とキッチンは壁で区切られていないため、彼女の後姿が僕の位置から観察できる。
無防備だ。世界を破滅へと導くはずの魔王が、無防備な背中を僕に見せている。
勇者としての僕は、あの背中に聖剣を突立てれば良いのだろうか?
それってどう考えても非道だよね。勇者っぽさは微塵も感じられないなぁ。どちらかというと、それは悪党の行いだ。ま、『勇者』の対偶が『悪党』というわけでもないので、同時にその2要素を兼ね備えていても矛盾は生じないかもしれないけれど、でもやっぱり悪党は嫌だなぁ。
観測者がいて初めて善行や悪行といった評価が成立するのだから、第三者の存在しない今現在、僕が石田さんに突然切りかかったところでそれは何一つ問題はないのだと、剣は言う。レベルの低い詭弁だ。この聖剣にとって、僕は僕自身の観測者の集合に含まれないのだろうか。
僕は基本的に独善的な人間だ。他人の納得以上に自分の欲求を優先する、性質の悪い自己満足野郎だ。だから、それ故に自分の許せない行動は絶対にとらない。僕が悪党になる事を、僕が観測することを、僕が嫌い、僕が拒否した。それで充分だ。もしも石田さんが世界を滅亡に導く魔王だとしても、僕は彼女の背中に切りかかったりはしない。僕がそれをしないと滅んでしまうような世界ならば、どうぞ好きなように滅んでしまえば良い。
それでも、僕が勇者であることを放棄しないのはやはり、聖剣に呪い殺されたくないからだろう。世界の滅亡さえ些事だと思えるのに、僕はこの剣の呪いを恐れているのだろうか。否、別に剣が呪い殺すというのならば、それはそれで構わないのだ。僕はただ、無職であるよりも、勇者でありたいと思った。魔王を殺すことで勇者という立場を継続できるのなら、それも悪くないかなと思った。それだけなんだ。
「どうぞー」僕の目の前に珈琲が置かれた。
「あ、どうも。頂きます」
「砂糖とミルクは入れますか?」
「いえ、僕はいつもブラックで飲むので」
「そうですか」
石田さんが僕の向かい側に座って、ごま油の香りのする卵チャーハンを食べ始める。
僕は珈琲を一口飲んでから口にした。「あの、石田さん」
「はい?」
「魔王、なんですよね」
「ええ、そうですよ」
「世界を滅亡させようと?」
「はい、そうですけど。えっと、それが何か?」
「あ、ただ確認しただけです。お気になさらず」
「私と闘いますか?」
「さぁ、分かりません。考え中です」
「闘うにしても、私がお昼ごはんを食べ終わるまでは、待って下さいね」
「え、あぁ、はい。それは勿論」
珈琲を啜る。
彼女が昼ごはんを食べ終えた後、僕はどうするだろうか。
世界を救済する為に、彼女と闘い、彼女を殺すだろうか。
それとも、戦いに敗れ、世界は滅びることになるだろうか。
あるいは、勇者であることを放棄し、剣に呪い殺されることになるかもしれない。
どの答えが出るかは、今の僕には分からない。
その瞬間になってみないと分からないし、分かり得ない。
物事には順序というものがあり、だから取り敢えず僕は珈琲を飲みながら彼女が昼食を終えるのを待つ。窓から差す日は暖かく、スズメの囀りが聞こえる、とても長閑な昼下がりのことだ。