八月十五日、夏
澄み切った青空を見上げるのは久しぶりだった。
大地を照りつける日射を浚うように、せせらぎに冷やされた風が身体を抜けていく。
クヌギの新緑が揺れて擦れ合う音に負けじと蝉時雨が響いていた。
幼少期の僕は病弱で、都会の空気が合わなかった。それもあって小学生の間は祖母の住む田舎に預けられていた。
実際には両親の仲が悪くて別居していた上に、二人とも忙しかったから僕の世話をする暇がなかったから。祖母は僕に同情的だったけれど、ときに優しく、ときに厳しく育ててくれた。
祖母と一緒に住む僕を、田舎の子どもたちはよくこの公園に連れて来てくれたものだ。
中央に渓流があり、その流れに分断された中州は子どもたちにとって最高の遊び場だった。
川遊びに昆虫採集、釣りもやった。ヤブ蚊に刺されるなんて日常茶飯事。
遊び疲れて食べるアイスキャンディーは格別だった。
あとで食べようと川で冷やしておいた西瓜が流れてしまって、みんなで慌てて追いかけようと水に入ったら溺れかけたのも、今となってはいい思い出なのかもしれない。
久しぶりにやってきた公園の中州を歩いていると、竹林の影にひとりの女の子を見つけた。
後ろ姿に昔の面影を感じて声をかける。
「なっちゃん?」
女の子は振り返る。
少し大人びた目鼻立ちの中に、ともに遊んだころのいたずらっぽさが垣間見えた。
彼女は驚いたような顔をして、すぐに笑おうとした。けれど、笑いきれずに困ったように目を細める。
「ようちゃん。帰っとったんやね」
「うん。久しぶりだね」
なっちゃんはくすくす笑う。
「なんね、その言葉遣い。なんかしばらく見ん間に東京に染まっとるごた」
「そんなつもりはないんだけどね。いや、そげなつもりはなかよ」
「イントネーションまで東京やん」
そういって彼女はまた笑う。
高校生になった彼女の横顔は、昔に比べてずっと大人だった。なにより子どもらしい愛嬌のある顔立ちが、大人の女性の美しさに変わる過渡期にあるようで、心なしか残念に思った。
「圭太は?」
「けいちゃんも東京やん。知らんと?」
「ついこの前聞いたけど、直接連絡はとってないよ」
「けいちゃん頭いいけんね。大学は東大目指しとるんやって。高校もなんか東京のえらい有名な進学校とか言いよったばってん、名前の忘れた」
「聞いてもわからないからいいよ」
僕は東京の高校なんて聞いてもわからない。
自分の在籍する高校だって、ろくに登校できていなかった。
中学を卒業する頃から、僕はずっと病室で過ごしてきたから。
「けいちゃんも薄情もんやね。せっかく東京におるんやったら、ようちゃんのお見舞いぐらい行けばよかとに」
「仕方ないよ。都会の高校生は忙しいんじゃないかな」
「なんねそれ。田舎の高校生は暇って?」
なっちゃんは自嘲するように「間違っとらんけど」と笑う。
「けいちゃんね、医者になるんやって」
「医者か。すごいね」
「うん。医者になって病気治すんやって」
「純粋だね、圭太は」
「そういうバカタレやん、けいちゃんは」
最初に僕を外に連れ出したのは他ならぬ圭太だ。
一緒に遊ぼうと連れ回して、僕が風邪を引いても治ったらまた連れ出す。
ほいほい付いて行く僕もどうかと思うけど、結果的に僕は少しだけ身体が強くなった。
なっちゃんは話題を変える。
「東京よりこっちのがよかろ?」
「そうだね。といっても、僕はほとんど病院のベッドの上で暇を持て余していたから、東京のことなんて何もわからないんだけど」
「何しよったん?」
「読書ばっかり。たまにゲームもしたかな。でも、すぐに飽きちゃって。読書にも飽きたら勉強。隣のベッドにいたおじいちゃんが元教師だったんだ」
元教師のおじいちゃんは、僕に色々なことを教えてくれた。
数学の先生をしていたらしいけれど、国語や歴史にも詳しかったし、何より教え方が上手だった。
「わからないことがわかる。これほど面白いことはないってのが口癖」
「うち絶対そのおじいちゃんと合わんわ」
「あはは、そんな気がする」
ふと視線を前に向ける。
目の前を流れる渓流は、昔とちっとも変わっていない。
これから先の未来でも、この流れは変わらないのかもしれない。
「ねえ、ようちゃん」
「うん?」
「うちの初恋、ようちゃんやったんよ」
細い竹の落ち葉を蹴って、なっちゃんは恥ずかしそうに言った。
僕は少しの驚きと喜びに顔が緩む。
「僕も。なっちゃんが初恋だった」
「そっか」
「うん。ずっとなっちゃんにまた会いたいって思ってた」
だから、こうしてなっちゃんとまた会えて、僕はとても嬉しかった。
圭太となっちゃんと僕の三人でよく遊んだこの公園で。
「圭太がいないのはちょっと残念だけどね」
「うちね」なっちゃんは竹林の中にぽっかり空いた青空を見上げる。「けいちゃんから告白されたんよ。医者になって戻ってきたら結婚しようって。馬鹿やん。何年待たせるん。ってか、高校生のくせに結婚って、やっぱり馬鹿やん」
勉強はできるくせに、というなっちゃんの困った顔が面白かった。
「お似合いだよ。なっちゃんと圭太は」
「本当にそう思っとうと?」
「うん。ベストカップルじゃない?」
猪突猛進の圭太に、口うるさいけど世話焼きな性分のなっちゃん。
喧嘩ばかりしている二人だけど、ずっと仲良しだ。
羨ましかった。
「なっちゃんの花嫁衣装見たかったな」
「衣装じゃなくて姿やろ」
「あはは、バレちゃった」
「どうせ、うちはブスやけんね!」
ぷりぷりと怒ってみせるなっちゃんを見つめる。
圭太だったら、もっと素直に思いを伝えられるのだろうか。
なにせ、彼は馬鹿だから。あいつは常に真っ直ぐだ。
「間に合わなかったなぁ……」
ついそんな言葉が口から漏れた。
なっちゃんは押し黙って僕を見つめた。
風に揺れる横髪を耳にかける。
きれいだと思った。
肌に浮かぶ汗に濡れて、彼女の黒髪が艶を帯びたように見える。
「覚えてる? 三人で蛍見た夜のこと」
「うん。覚えとうよ」
「圭太が蛍捕まえようって言い出して、夜の川に入ってさ。僕となっちゃんは必死に止めたのに聞かなくて。圭太が溺れそうになったのを二人で必死に助けてさ。帰ったら大人から馬鹿みたいに怒られて三人で泣いたじゃん」
でも、嫌な思い出じゃない。
僕は圭太の純粋さが大好きだったし、なっちゃんのお節介なところも大好きだった。
三人揃って怒られたのはそれが最初で最後。
「そのあと、なぜか僕だけ風邪引いてさ」
「そうそう。けいちゃんと二人で西瓜持ってお見舞いに行ったら、ようちゃんのおばあちゃんが切ってくれて、ようちゃん食欲なかったけん、けいちゃんとうちで全部食べちゃったもんね」
「それでまた圭太がおばさんから怒られちゃってさ」
あの頃に帰りたい。
何も知らず、何も怖くなかったあの頃に。
なっちゃんは呟くように言った。
「うちね、幸せやったと思う」
そっと彼女の頬に差し出した手は、風に触れるだけだった。
「ねえ、初恋の相手にキスしてもいい?」
「さすが東京に染まった男はやることが違うばい」
なっちゃんは冗談を受け流すようにカラカラ笑った。けれど、急に真面目な顔をして頷く。
「よかよ。でも、けいちゃんには秘密にしとってね」
「うん。言わないし、言えないよ」
「うちね、けいちゃんのこと好きなんよ」
「わかってる」
「でも、ようちゃんのことも好き。こすかよね」
「そんなことないよ」
目を閉じたなっちゃんの唇は暖かい風のように優しく僕の唇を撫でていった。
恥ずかしそうに顔を赤らめて目を背けた彼女は、僕から一歩遠のく。
そうしてくすりと笑った。うちがファーストキスじゃなくて残念やったね、と。
圭太に先を越されていたのが、今はなんだか嬉しかった。
「ようちゃん、ありがとう。最後に会えて嬉しかった。本当やけんね」
ひときわ強い風が竹林を駆け抜ける。
その風に流されるように、なっちゃんの姿はどこかへ消えてしまった。
「ずるいよ、なっちゃん」
明日、圭太が遅れてなっちゃんの初盆に来ると聞いた。チケットが取れなかったらしいと祖母から聞いた。
彼はきっと泣くのだろう。なっちゃんのお葬式で、彼はずいぶん泣きはらしたと聞いた。
僕は入院中で出席できなかったけれど、病室のベッドの上で泣いた。
僕らの人生はずっと先へと進んでいく。
なっちゃんを残したまま。
でも、僕たち三人の思い出も、この場所にずっと残り続ける。