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とりあえず身だしなみをと思い、ここに最初に来た日の服に袖を通し、いつもよりは化粧にも気を使った。ピンヒールを履いたところで気がついた。
この服装は私があの男に振られる予定だった時と一緒で縁起が悪すぎる、と。
以前ハリネズミの兄妹に貰ったアクセサリーを取り出して、それを付けると気分は少し落ち着いた。
……どうしてこの方の部屋に来る時はいつも気が重いのだろう。
もしこの扉を開いて結依がいたら……なんて事まで考え出す始末だ。
それでもこの城の主に挨拶のないまま住むわけにもいかない。
顔を2回ほど叩いてから、意を決してノックをした。
重々しく開いた扉の先には、レヴィナギア様ただ1人が窓際に向かい佇んでいた。
一礼してから部屋の中に入ると、ひとりでに扉は閉まった。
「ご挨拶が遅れてすみません。昨日は夜も遅かったので……」
「……」
この沈黙が痛い。
まずは私の要望を聞いてもらおうと思った。
「私は……出来ればもう元の世界には戻りたくないと思ってます。
向こうにはもう何も無くなってしまいました。ここでは皆が私を必要としてくれる。こんな大切なこと、もう二度と忘れたくないんです。
出来れば……もう1度ここで働かせては頂けませんか?」
「……君は私を責めないのか?最初にここに来た時も、今回も私がこちら側に連れてきた。
……送り返すことも出来たのに欺いていた」
「それは、何か事情がおありなのではないのですか?」
こちらを振り返ったレヴィナギア様の顔は驚きを隠してはいなかった。
そんな驚かれるようなことを言ったかと思い、首を傾げると、レヴィナギア様は深い溜息をついた。
「……君が来る前にロージアも、ハリネズミ達も全員まとめて部屋に押し寄せてきた。
……キュイジニエールを再び雇うようにと。
私にはその資格がないと言ったんだが……」
「この城の主はレヴィナギア様なのに、レヴィナギア様以外のどなたが決められるのですか?
……レヴィナギア様は、まだ私を必要としてくださいますか……?」
その言葉の後、なんの返答もなかったけれど、またあの時のように白い紙が降りてきて、その上をレヴィナギア様の指先が撫でた。
「……再雇用の契約書だ。前回のものは君を返した時に私が破棄してしまったから。
今回のものは仮ではない。本契約のものになる。ちゃんと考えてからサインするように」
「分かりました」
悪魔との契約だなんて、本当はもっと悩むような問題なのだろう。
けれど、私の中では答えが既に決まっていた。すらすらと名前の欄にヨナミと印す。
「ヨナミ、君は人間界には何も無くなったと言ったが……どこにも想い人などはいないのか?」
その言葉に胸が大きく跳ねるのを感じた。想い人……それは私の好きなひとということ。
その言葉で思い浮かぶ人はいるけれど、これが本当に好きという感情なのかすらやっぱり一晩くらいじゃ解決しなくて、それでとりあえずこの気持ちには蓋をして、この城に住まわせてもらう許可だけを取りに来ようと決めたのに……。
当の本人にこんなことを言われたら、そんな蓋なんて約立たずだ。
「い、今は……自分の気持ちが分からない……です」
今答えられるだけの、誠心誠意な言葉を言ったつもりだったけれど、最後の方は消え入るほどに小さい声だったことに、我ながら呆れる。
恋だの愛だの、自分の感情に対峙するのもこの年まで初めてだったなんて……つい昨日気付いたのだから、これが精一杯なのだけど。
私は慌ててお辞儀をして、今すぐこの部屋を出たい衝動のまま、急いで後にした。
「……大丈夫。私が囚われなければ問題ない。
けれど……人間に私が嫉妬するなんて、何の因果か」
自嘲の笑みを浮かべたその言葉は、誰に届くことなく消え去った。




