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まだ時間もある。ゆっくりと歩く、家路に着くまでのいつも通りの風景。
帰宅して、姿見の前でくるりと一周。縛っていたゴムを外すとまだ少しだけ跳ねている髪の毛がひらりと肩にあたる。
「居酒屋と言えど、流石に着替えるか……」
いつもの店で思い浮かぶのは、最寄り駅にある、どこにでもあるチェーン店の居酒屋。
安い・早い・美味いが売りのこの店はどちらかが気に入っているというよりも、仕事終わりでも開いてるからという理由でしかない。
クローゼットの中から出したのはミモレ丈のスカート。
先日、彼と結依と3人で会ったときに彼がとても可愛らしいと褒めていたのを思い出したから、買い物時についでで購入したものの、存在をほとんど忘れ、タグもビニールの袋もそのまま眠っていた引っ張り出すと群青色の布がふわりと広がった。
「たまには女性らしいものも。と思ったけれどやっぱり選ぶ色は地味ね」
鏡ごしに合わせてみると、そんなに悪くはないように思う。
私には濃いピンクは似合わないし……
メイクも直し、髪も今度はしっかりと整えて、付き合った当初にもらったスカーフの結ばれたブランド物の鞄に化粧品や身の回りのものをしまい、少し時間は早いけれど飲みながら待つかと目的の店へ向かうことにした。
店に着くと、まだ客も殆どおらず、もちろん彼もまだ着ていないようだった。
「とりあえず生と、梅水晶を」
結婚ともなれば、式に出る自分も少しは見た目を意識しなくてはならない。
そう思うと、頼もうかと思い浮かんだ唐揚げを引っ込めた。……それでもビールは我慢できなかったのだけれども。
次!次からはハイボールに切り替えるから……!!と、なんとも決意の緩い誓いを立てた。
注文した品と一緒に出されたお通しはりんごのサラダ。
季節感を感じるその品物も美味しくいただきながら彼の到着を待つ。
「ごめん、遅くなった」
「ん……いや、そんな待ってない」
「いやいや、この空いたジョッキの数見れば分かるでしょ。話があるって言ったの忘れた?」
大きいため息とともに怠そうに向かいの席へと座る彼。
ため息をつきたいのはこちらである。
なんの連絡もなく、普段の退勤時間を考えたらここへの到着は二時間近く遅れていた。
これが仕事なら、約束をした時点で時間を決めるけれど、二人の関係には長年の暗黙の了解がある。
それでも確認を怠った自分の落ち度であると、飲み込む。
「それで、話って?」
「いや、その前に会って欲しい人がいる。……来て」
入口の方へ、体を斜めにして、手をあげる。
私もそちらの方へ体を向けようとすると
ーーー えっ、ちょっと待って ーーー
視界はぐらりと歪み、壁に貼られている品書きの文字が反転するように見えた。
そして私の視界に映るのは痛いほど強烈なマゼンタ。
次に目を開いたときの景色はマゼンタではなかった。
太陽のようなものは上がっているのに朝にしては暗くて、空気が重くて、先ほどまで自分が横たわっていた場所はかつては湿地のようなところだったのだろう。
独特の土があちらこちらでひび割れ、葦のようなものが枯れたまま長く放置されている、とても寂しい場所だった。
目の前にあるもので唯一知っているのは、自分が持っていた鞄のみだった。
「……気づいたか」
頭上から聞こえた声と、頬をかすめた黒髪が、明らかに自分のものとは色も長さも違う違和感に震えながら、恐る恐る見上げた。
陶器のように助ける肌。目の色は黒に近い赤。頭から二つ生えている角は黒から深い青へとグラデーションがかかっている。
人間ではない……。それは直感的にわかるような風貌だった。
けれど今の私にはそんなことよりも、此処はどこだろう。何が起きたのか。現状を理解することに精一杯で、頭には疑問符しか浮かばない。
「……あのっ!!」
私が声をかけると、少しだけ目を見開き、その存在は深い青色の煙となって一瞬で消えてしまった。
後に残ったその煙すら、すぐに消えていった。
人間ではない何かでも言葉の話せる唯一の手がかりがなくなってしまった。
微かな希望を持って鞄から出した携帯も、もちろん圏外。
「会社……明日には戻らなきゃ。それにしても……」
おしゃれのつもりで履いて来た慣れないピンヒールを睨みながら、ゆっくり立ち上がり、なんの確証もないまま煙が流れた方向に歩くことにした。