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キュイジニエールに捧ぐ悪魔の落款 作者:睡蓮

新しい雇用主

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定刻の鐘はとうになり終えた夜七時過ぎ。それでも私の前に積まれた白い紙の山、山、山。
はぁ、とため息を一度つき、ぐっと背伸びをする。


「チーフ、今日もまだ残業ですか?」

「まぁ、明日休みをもらうわけだしキリがいいところまでね」

「働きすぎてこの間の新人みたいに休みの次の日、会社来ないとかやめてくださいよねー。じゃあ、お先っす」


彼、やっぱり来てないのね。
そんな気はしていたけれどこの会社では日常茶飯事。新卒社員が定着する方が稀なこと。やはり人に対しての仕事量が多すぎる。だから同じ部署でも同じ案件に関わっていない人になど気を回す余裕もなかった。
私が今更突発的に辞めるとは考えていないけれど……もし辞めるとしたら寿退社か。
明日がそれを決める大切な日になればいいけれど、彼の口からそんなことは聞いたこともない。それでも淡い期待をしているってことは私はやっぱり彼が好きなのかな。
そんな女性らしい気持ちに自分自身で違和感を感じながら、また新しい書類へと手をかける。





昨夜は結局、終電間際まで仕事をこなしていたけれど帰宅途中に日付が変わってもいつもより遅く起きた朝も私の携帯には何も連絡はない。


「……まぁ、そんな気はしてたんだけどね。そう上手くはいかないか」


今日は私の誕生日であり、彼との記念日だ。彼からは仕事を休むようにも待ち合わせも何もしていなかった。
けれど私たちが出会ってもう何年も経つ。お互い会社での立場も落ち着いて、そろそろ結婚……と本人たちより周囲がせついてくる。
だから何かサプライズでも用意されていたらと気を回し、休みを取った。
……それも徒労に終わったんだけれども。


「今から会社に行っても仕方ないし、近所でたまにはランチでもしようかな」


いつもより眠ったせいか重い体を動かし、最低限の身だしなみを整える。
髪を後ろで一つに結び、ジーンズにスニーカーと、この姿を友人である結依でも見せればまた怒られるのだろうと苦笑する。

近所に出来たカフェが美味しいとその友人に聞いた。
大学病院の真下にあるそのカフェのラテは絶品らしい。
普段は紅茶、仕事の時はブラックしか飲まないけれどおすすめと聞いたらそれを頼むしかない。
店に着くと一緒にパンを注文し、久しぶりのランチを満喫。
確かにラテは美味しかったけれど、可愛いうさぎが描かれていると飲むにも躊躇してしまった。次からはやっぱり自分の好きなものを……
そんなことをぼんやりと考えながら会計を済ませ、出口へ振り返ると人にぶつかった衝撃でまだ閉め切っていなかった財布の中のカード類が床へばら撒かれた。


「大丈夫ですか?」

「すっ、すみません!!」


私よりも素早くしゃがみこんだその人は手際よくカードを一つにまとめていく。
白い服を着て、首からIDのようなものを下げている。おそらく上にある大学病院の関係者なのだろう。


「はい、どうぞ」

「すみません、拾っていただいて……ありがとうございます」


その人はメガネをかけていて、瞳は左右、少しだけ違う色をしているように見えた。
男性にこんな風に思うのはいいことなのかわからないけれどただ、美しい人だなと思った。
私がずっとその瞳をのぞいているからか、突然その人ははっと目を見開き驚いているようだった。
その時、私の鞄の中が震えていることに気付く。
携帯を見るとそこには彼の名前。
私は慌てて再度礼を言い、お店を出た。
ふわり秋風に乗って今の季節の甘い花の香りが私の横を通り過ぎる。
ドアを閉める瞬間、私を呼び止めるような声が聞こえたが、私はその時には既に電話に出ていた。


「もしもし?」

「あれ、この時間にすぐに電話繋がるなんて珍しいな。今日休み?」


その瞬間全てを察した。この人は私の誕生日も記念日もすっかり忘れていたのだと。


「まぁ……」

「それなら夜、いつもの店来て。話があるから」


……え、話?
全てを察したと思ったけれど私の勘違い??
彼の声のトーンはいつもより冷たい気がするけれど、これは期待していいのだろうか。

ふと、思い出す彼に告白された日。
自分の気持ちなんて分からないまま勢いに押されてしまった。だけど結婚とはそういうものなんだろうと。
誰かに愛されている方が幸せなんだと決めつけていた。
誰かに愛されて、結婚して、子供を産んで。
それが普通の女性の幸せなのだろうと、自分のことなのに、どこか意識が乖離している。
でも、そんなことにも自分では気付けないでいた。

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