母さんの弁当
第1章 ミツルとヒロコ
#金網越しのミツル
「あー何で俺だけ」
ミツルは中学校の帰りにふてくされて、町で唯一海の見える丘に寝転がっていた。
弁当箱の中身がいつも変わらず、殆どがコンビニの惣菜を詰めたものだと明らかにわかるので恥ずかしく、育ち盛りには量も足りなかった。
金網越しの小島でさえ、弁当のおかずよりおいしそうに映った。
小学校の時は給食だったので、まさかこんな悩みを抱えることになるとは。
中学で給食を提供しない町にたまたま住んでいることがミツルの不幸なのだが、根本はもっと違うところにあった。
#ヒロコの青春
ミツルの母ヒロコは高校時代にボランティアで行った介護福祉施設で、将来福祉の仕事に就きたいと考えるようになり、その勉強をするために上京した。
育った地方の港町とは違い、人の数と夜の明るさが怖かったが、同じ境遇の友人同士が集まり、それなりに楽しい学生生活を送っていた。
ただ、優しく情に流されやすいという性格から、友人の相談に乗りすぎて自分のことが手いっぱいになることも多かった。
ヒロコの転機は成人式の半年後、大学3年の時に付き合っていた先輩の子どもを身籠ってからだった。
#母として
先輩は一人で何も決められず、彼の両親が上京し、堕胎するように迫られた。
ヒロコが最もショックだったのは、
「うちの息子には将来があるので」
という彼の母親の言葉よりも、彼が自分の意思で両親を説得しなかったことよりも、一つの授かった、小さな生命のことを、彼が一番に考えてくれなかったことだ。
ヒロコは、自分一人でも生まれてくる子どもを育てようと、大学を中退した。
実家の両親は相手に激怒したが、身重のヒロコはもう、関わることさえ嫌だった。
ヒロコは誰にでも優しい女の子から、自分の子どもだけを護る母になった。
第2章 二人の孤独
#窮屈な現実
子どもは実家で産んだが、そこには既に兄夫婦とその子ども二人が同居していた。
気まずさに加えて狭さ、近所の陰口や働き口の無さなど、ヒロコが再び上京するには余りある条件が重なり、学生時代を過ごしたアパートに戻ってきた。
それにしてもこの国は、シングルマザーに冷たい。
ヒロコが大学で専攻していた社会福祉のシステムは机上の空論で、実際には充分に機能していないことを、自分の生活で実感するはめになった。
#金網越しのヒロコ
「あーなんで私だけ」
仕事帰りに幼いミツルを抱き、海の見える丘のベンチに座り込む毎日。
故郷を思い出させる海を金網越しに見ることなく、ただテーブルの木目を凝視していた。
熱が37.5℃を超えれば、保育園からすぐに電話がくる。
理論上ウイルス感染症のリスクが上がるからで、あと0.1℃様子を見て欲しいとは言えない。
そういう時にも融通がきく仕事は殆ど無く、学生時代からおばあちゃんと呼んで親しんだ、老女が一人で切り盛りする弁当屋を手伝い、稼ぎの全てをミツルの命を育むために費やした。
社会保障とは無縁の場所ではあったが、おばあちゃんの優しさだけが、ヒロコにとっての福利厚生だった。
学生にしか見えない出で立ちのヒロコがシングルマザーで苦労していると知った男たちが、金にものを言わせて言い寄ってくる度に、涙と悔しさが溢れて、何度も何度も後悔した。
しかし後悔したのは、我慢してでも実家にしがみついていればということだけで、ミツルを産んだことや、その父親と別れたことは悔やまなかった。
ヒロコは決して情にも金品にも流されず、ミツルのためにと生きていた。
#成長と孤独
ミツルが小学校に入学すると、学童もフル活用して、条件は良くないが正社員で事務の仕事を始めた。
この時のヒロコは、弁当屋のおばあちゃんの優しさより、固定給や社会保険を優先するしかなかった。
ミツルは甘えたい盛りに母に寄りかかれなかったが、粗暴になることもなく、孤独を内に秘めたまま静かな性格に育った。
そして高学年になると、ヒロコが残業をした日は独りアパートで母の帰宅を待つようになった。
ミツルの話し相手は、母が会社からもらってきた小さな古いテレビだけだった。
#一つの弁当
残業した日は必ず、かつて勤めたおばあちゃんの弁当屋でミツルの大好きな唐揚げ弁当を一つ買い、ミツルと分けた。
弁当屋のお米はコシヒカリで、炊飯器の中は安い国産ブレンド米。
母は生きるためとはいえ、ミツルを独りにした後ろめたさから、コシヒカリを彼に食べさせ、自分は炊飯器のブレンド米を食べた。
その時の息子は、孤独から解放されたことと、白米と唐揚げの美味しさから満面の笑みになり、それが余計にヒロコの心が痛む結果となった。
#思春期
ミツルは中学生になった。
第二次性徴と呼ばれる大人への階段を昇り始めた息子に対し、ヒロコはどう接して良いか戸惑うことが増えた。
物心ついた時から父親は存在せず、親イコール母という環境で育ったミツルは、自分の心や身体の急激な変化についていけなくなっていたが、女である母に相談できないことばかりだった。
テレビや友人からの情報を頼りに自分の落ち着きどころを探すミツルだったが、ヒロコにとってもそれは同じで、少ないママ友や仕事場の先輩たちから、必死で情報収集していた。
お互いが初めて迎える脱皮のような暗中模索の毎日で、ミツルは中学校、ヒロコは仕事場でストレスを解消しながら、帰宅してはぶつかることが増えた。
実家に頼ろうにも、父母は年金暮らしとなり年相応の持病も抱えていたので、兄嫁が全権力を掌握しており、相談さえしにくい状況だった。
最終章 唐揚げ
#中学校で
ミツルはサッカーに全てを注ぎ、勉強はできなかったが、学校は楽しかった。
ただ仲間といる時、家族の話題をふられることが耐えられなかった。
加えて昼休みに友人たちの弁当のクオリティーの高さを目の当たりにしてからは、一人でさっと済ませることが多くなり、そのことで母を恨むようにもなっていた。
#すれ違う時間と心
ヒロコは、ミツルに不憫な思いをさせまいと残業をしてでも収入を増やし、ミツルが進学時にやりたいことを何でもできるように貯金をしていた。
その分、日々の食卓が質素であったことは否めない。
仕事ができるようになると、給料も増えるが責任も増える。
商品管理も任されるようになったので、ミツルより早く家を出る回数が増え、朝食のついでに作る弁当も、ついに出来合いの惣菜が増えていった。
ヒロコは心苦しかった。
#反抗
取っ組み合いの喧嘩も、もう母が息子を押さえつけることは難しくなってきた。
人間としては正常な成長であってもヒロコにとっては、それは可愛い息子が男となり、自分の元を離れていくという事実でしかない。
6畳一間は、ミツルが拾ってきたダンボールで二つに仕切られた。
ヒロコは夜、疲れた体を横たえると自分の人生を振り返り、海の見える丘で嘆いていた頃の孤独を思い出し、息子に気づかれないよう一人涙することが増えた。
#弁当ふたたび
ミツルの弁当には、おばあちゃん弁当の唐揚げが必ず入っていた。
幼い頃から食べていた大好物なので、この味はコンビニのものではないとわかっていたが、丘の上で横たわったミツルにとって、母の手作り以外は意味が無かった。
「なんで俺だけ!」
何度も叫び、やり場の無い心を弁当箱に押し込め帰路に着いた。
弁当屋の前を通ると、おばあちゃんがショーケースを掃除していた。
遠い血の繋がった祖母よりも、ミツルにとって祖母らしいおばあちゃんだった。
「ばあちゃん、いつも唐揚げありがとう。今日も美味かったよ」
ばあちゃんとは素直に話ができるミツル。
#おばあちゃんの唐揚げ
笑顔で話を聞くも、その言葉に少し怪訝そうな顔で返事をしたおばあちゃん。
「ミツル、お帰り。お前の母ちゃん、中学校に入ってから唐揚げ買わなくなったよ。作り方教えてやったから、ばあちゃんの味がしたら、そりゃ母ちゃんが作ったんだろよ」
ミツルの頭に衝撃が走り、混乱した。
瞬間、夕焼けの狭間の闇に自転車のヒロコが手を振っているのが見えた。
母を見て悟ったミツルの目から、大粒の涙が溢れ出した。
近づいた母親は号泣する息子を見て、
「ばあちゃん、ミツル失恋でもしたの」
と、冗談ぽく尋ねた。
#母の唐揚げ
おばあちゃんは三角巾をとると客用のベンチに腰掛け、
「ヒロちゃん、あんた、仕事が大変だろうが具合が悪かろうが、毎日唐揚げを作っとったんだね。ミツル、それを今知ったんよ」
ヒロコはハッと息をのみ、自転車を放って直ぐに息子を抱き締めた。
無意識な息子への、見返りを求めない愛情が伝わったことよりも、それを繊細に感知する息子が誇らしかった。
毎日の喧嘩は、全て帳消しにしてお釣りがくるくらいだった。
ミツルは、
「恥ずかしいから離れろ!」
と母親を突き放したが、ヒロコは離さなかった。
今日だけは母の想いが息子の腕力を制したようだ。
おばあちゃんは腰を伸ばすと厨房へ入り、空になったミツルの弁当箱に唐揚げを山ほど詰め込んで、
「ミツル、こっちが本家さ、母ちゃんにはまだまだ負けないよ」
と渡した。
ミツルは恥ずかしそうに受け取り、
「当然だよ、ばあちゃんのほうが美味いに決まってる!」
と、走り出した。
ヒロコはおばあちゃんに会釈をすると、自転車で息子を追いかけた。
#キズとキズナ
昨日も今日も唐揚げ、ミツルの弁当箱には今も毎日唐揚げが入っている。
ミツルは家で親子喧嘩をしても、昼に弁当箱を開けると母の顔を思い浮かべ、友人たちに自慢しながら、唐揚げをお裾分けするようになった。
ヒロコの弁当には唐揚げが無い。
一つでも多くミツルに食べさせたいから。
6畳を二分したダンボールは、ミツルの手で半分だけ撤去されていた。
ヒロコの喧嘩の傷は今も絶えないが、ミツルとの心の絆も絶えることは無かった。
終わり