ー始ー
ーー焦ーー
何かを変え続けることで、人は生きてきた。
人が辿ってきた歴史を見れば一目瞭然で解る。大きい小さいはあれど、歴史は「改革」の連続だ。改革が起きる理由の中で、最も大きな理由は人の”もっとこうありたい”という「欲」だろう。
「欲」とは言い換えれば、人が何かを「愛したい」という思いの塊だとわたしは思う。その塊は破壊力抜群の爆弾であり、常に爆発寸前のある意味危険なものだ。
その塊をぶつけあい、研磨し、人は生活を、遺伝子を、歴史を紡いできた。
「人」と「人」とがそこに住み、社会が成り立っている限り、それは絶対に変わることはない。いくら無縁社会だと揶揄されようとも、孤独を嘆こうとも。
10年くらい前からだろうか、、情報化の普及が進み過ぎて、「情報」の価値が無秩序に上がり、「”無知”なことは負け」の風潮が蔓延し始めたのは、、挙句の果てには「情報中毒」という病気も流行り出し、社会問題となっている。
確かに「情報は武器だ」と言われているが、武器はどこまでいっても武器でしかない。それに気づけない世の中の人々、、いや、皆不都合な真実に目を背けているだけなのかもしれない。何日か前までのわたしも、きっとそうだったのだと今は思う。
不都合な真実、、「欲」や「愛」の一番醜い部分、それはきっと、人間の一番醜い部分に違いない。
伝統と進化が交差し行き交うこの街でも、特にこの駅前では、例に漏れず人々は”愛し合っている”。
将来に不安と焦りに満ちた生活を送るマジメな高校教師も、、この駅を利用する地元の若い学生たちから「”鸛”(コウノトリ)」と呼ばれているらしいホームレスも、、一緒に電車の切符を買っている高校生二人組も、、皆同じだ。
自分の中にある「欲」を、「想いの塊」を、「愛」を、ただひたすらにぶつけ合っている。
ちょっと主観的過ぎるかな、曖昧だろうか。現実味に欠ける?
しかしわたしには、そう思えてならない。というよりかは、そう思っていたい。こう言ってしまったらもはや、わたしのエゴと言っても良いかもしれない。
想いの塊をぶつけ合うために人々は出会い、恋をし、愛を知り、別れを知る。そして人は何度別れを体験しても、求め惹かれてしまう。その気配がこの街でも、どこでも、そこら中で、確かに漂っている。
それは、何故か。
「惹かれてしまうからさ」
とても納得できるものではないかもしれない。自分たちが悩み、苦しむ理由がそんな短絡的なものなのかって。
でもそれが真実だと、わたしは思う。
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日が昇る 日が沈む
月が昇る 月が沈む
ただそれだけの繰り返しの中で 一体 何度 ぶつけ合うのだろうか
ぶつけ合うということは 愛し合うということだ
愛し合うということは 生きるということだ
わたしたちはずっと永遠に そこに人が居る限り ずっとそこに 生き続ける