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「どうするんだ?」
濡れた服を着替えた蒼羽が、ワイン色の髪を拭きながら二階から降りてきた。
カウンターの中で卵を溶きながら、そのいつにも増して不機嫌そうな口調に目を細める。
「どうするって・・・一応センターには報告しないとな。こんな事、前例がないからどうなるか判らないけど。その前にあのお嬢さんに状況を説明して、原因も調べたいし。・・・まあ、とっ捕まえてどうこうするって事はないと思うから、安心しろ」
カウンターの椅子に座って、蒼羽は眉間にしわを寄せた。
「別にあの女の心配なんてしてないけど」
ああ、まただ、と。
低く言い放つ蒼羽を軽く睨んで口を開く。
「そういう言い方はやめろと言ってるだろう?第一あの娘は何かに巻き込まれただけだ。何もしてな、」
「笑ってたんだ」
自分の言葉をさえぎって、蒼羽は先ほど緋天の腕を強く掴んでいた左手に目を落とす。
「ずぶぬれになって笑ってたから、狂ってると思ったんだ・・・」
「・・・・・・あのお嬢さんは表の人間なんだろう?」
「そうだ。俺の事を警察と勘違いして、自分の住所をべらべらしゃべっていたからな」
蒼羽は口角を少し上げて、皮肉げに笑った。それが胸の内のどこかを焼いて。彼のそんな口調が悲しかった。溜息をついて蒼羽を見下ろす。
「・・・蒼羽」
もう一度、注意を口にしようと少し厳しい声を出したところで。
とん、とん、とゆっくり階段を降りる足音が聞こえて、言いかけた言葉を飲みこむ。カウンター横の扉を開けて、緋天が顔をのぞかせた。
「あの、お風呂ありがとうございました」
「どういたしまして。さ、蒼羽の隣にどうぞ」
にっこり笑って席をすすめる。毒気を殺がれた。
「・・・あのっ、あの、お暇します。お世話になりましたっ」
狙って笑みを浮かべたのだ。彼女が頬を染めて当然。
喜んでこの場に留まるだろうと思っていたが、誤算だった。逃げられるわけにはいかないのに。頬を染めているのは緊張のせいか、とにかく必死そうな顔でそう言いきって、彼女の体が後ずさる。
「えーと、緋天ちゃん? 話あるって言ったよね?」
「っ、あの、でも、」
素直そうに見えたから、すっかり安心していた。
よく考えたら、彼女にとっては、危険極まりない状況なのだろう。そもそも見ず知らずの場所で無防備に入浴したところで、かなりの判断ミスだ。普通ならば警戒するだろうに、逆に心配になるほど。それだけ素直なのか、単なる頭の弱い女の子なのか。
自分で風呂を勧めておいて、今更彼女を気の毒に思った。とにかくも、遅まきながら今はその危険さに気づいたのだろう。後ずさるその態度が物語っている。
「・・・逃げるな」
出入り口の扉の前で。
蒼羽が素早くそこを塞ぐように移動して、ただ一言、先程と同じように冷たく言い放つ。
びく、と怯えるようにはねた肩。
みるみる潤んでいく双眸。
「蒼羽! ・・・緋天ちゃん、ごめんね。脅そうとか、そういうのじゃないんだ」
泣かせてしまう、と思ったが。
蒼羽を咎めて、できるだけ優しく声をかけると、彼女の体から力が抜けていく。
「お腹すいてない?ちょっと待ってて、もうすぐ出来るから。スペシャルオムライス」
そう言いながら、卵をフライパンに落として。
害のないようにそれを見せれば、その細い首が、こくん、と頷いた。小動物みたいだ、と思い今度は自然と笑みが浮かんだが、手懐けるにはまだ時間がかかりそうだった。
「おいで。・・・緋天ちゃんは、きっと変だと思ってるだろうけど、真面目な話があるんだ。そこに座ってほしい」
手招きをして、あとは作りかけの料理を再開する。
警戒されてはいけない、彼女を逃がしてはならない。目的は同じだが、蒼羽のやり方は逆効果だった。ほんの少しの時間しか共有していないが、緋天については、見ていて分かった事がある。素直で会ったばかりの人間の言うことすら聞くが、蒼羽のような人間の感情に敏感でもある。
普通に考えれば、女の子を脅かすような真似をすれば逃げられるのだが。蒼羽にはそれが分からない。
「何もしないよ。約束する」
手を動かしながら、こちらから近づくことはせずに、じっと待った。相変らず、蒼羽は扉の前。
ようやく彼女の足が動き、さらりと黒髪を揺らして椅子に座る。知らず、ほっと息を吐いた。ここで怯えられては、本当に元も子もない。
「・・・ここお店ですか?」
「んー、・・・今日はもう誰も来ないからいいよ。長い話の前に腹ごしらえしよう」
そっと出された声は、部屋の中を見回して出した、彼女なりの推論らしい。確かに、キッチンの前のカウンターはカフェのようにも見えるのだろう。曖昧に言葉を濁し、監視するようにじっと立っている蒼羽を、お前も座れと目線で呼び寄せた。
大きめの皿にのせたオムライスを緋天と蒼羽の前に置く。湯気を上げるそれの、ソースで描いたうさぎの絵を見て、ようやく緋天の頬が緩んだ。女性と子供を喜ばせることに関しては、自信がある。
「この部分がスペシャルなんですね?・・・あ、」
自分以外のものはどうなのか、と気になったのだろう。緋天は自分の左に座った蒼羽の前の皿をのぞきこんだ。近づいた緋天から少し体をそらして、“へたれ蒼羽”と書かれたオムライスを目にする。眉を下げてこちらを見る彼女に、蒼羽はそっぽを向いた。
「いい子にはちゃんと絵を描いてあげるよ。今日の蒼羽は悪い子だったからね」
「悪い子・・・?」
首を傾げる緋天の表情は、無垢そのもの。何も言わなければそのまま考え続けそうで。
「気にしないで。さあ、食べよう」
「・・・はい。いただきます」
ぱちん、と手を合わせて言った緋天を見て、少し驚いた。
「最近の子にしては珍しいね、緋天ちゃん。誰かさんにも教えてやってよ」
同じように驚いた顔をした蒼羽と目を合わせて笑う。それにむっとした顔をし、蒼羽は手にしたスプーンと皿を見下ろして言った。
「・・・もう食べ始めてるから無理だ」
その言葉に吹き出してしばらく笑いが治まらなかった。
異常な状況でも、彼がそうやって反応をしてくれた事が嬉しくて。