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事故現場を離れて10分程走ると、良く知った通りに出た。前方に大手デパートの看板が見える。
「あ、・・・ここのデパートのゲームコーナーであたしバイトしてたんです、よ・・・」
「家から近いのか?」
口から出たそれに、しまった、とは思ったのだが。
途中で引き返せなくなって、歯切れの悪いまま言葉を続けると。蒼羽が言葉を返してくる。
こんな風に、割とどうでもいいような話題で、彼が話を続けてくれるので、止めるわけにもいかなくて。
「うーん。自転車で15分ってところです。・・・なんか辞めてから気まずくて、最近あんまり来てないんですよね」
「なんで辞めたんだ?」
「え? えーと、あの、その、ちょっとお客さんと・・・」
「何をした?」
蒼羽が続けて問いかけた。事務的な、仕事の内容以外で蒼羽が会話を続けてくれるのは、とても嬉しかったけれど。その内容は嫌な記憶を引き出してしまう。
「・・・全く・・・困るんだよね、引き下がってくれたから良かったものの」
「申し訳ありません」
しん、と静まり返った閉店後の事務室で、嘆息とともに吐き出された、苦々しい声に。
傍らの店長が頭を下げた。慌ててそれに追随するものの、納得いかない自分の体が拒否反応を起こす。
「彼女は、・・・あのお客様が、体を触ったと言っています。それで怖くて突き飛ばしてしまったと」
「それでって・・・やり方によっちゃ、こっちが訴えられる。河野さん、具体的にはどんな感じだったんだ?」
冷たくも聞こえる、淡々とした口調で。
事の次第が報告されていた。それを告げるのに、自分はとても冷静ではいられなかったのに。そして、その報告に対して、これまた面倒だとでも言うように、デパート側の、顔しか知らない、何かしらの肩書きを持つ幹部の男性が口を開いた。自分の名前を呼んだのも、元から知っていたわけではなく、先程、この部屋に入った時に紹介されたのだ。
「覚えているかな?どんな感じだったか説明してくれないか?」
「っっ!!」
とても高い位置から見下ろすように。
何でもない事のようにそれを言う彼の言葉に、ただ息を呑んだ。目に溜まっていく涙を、零してはいけない、と。夕方と同じ事を思ったのだけれど、もう限界で。
「ああ・・・泣かないでくれ」
心底、面倒だ、と。
それを隠しもしない声が頭の上を通過する。
「・・・山口さん、申し訳ありませんが、彼女も動揺しておりますし、今日はこの辺で。お客様から再度何かありましたら、こちらで受けますので、そのまま回して頂けますか?」
「それは勿論だが・・・君のところの、えーと、本社の誰だったかな?」
「斉藤ですね、・・・明日こちらに寄ると申しておりました」
相変らず静かな声で、店長が山口という男性に話の終わりを促す。それに対して、店長相手では話にならないとでも言うように、本社の、いくつかの支店を管理している人間の名前を挙げられたら。
いくら鈍くても、脅しのようにしか取れなかった。
店舗の一画を借りている、というだけで、デパート側の彼は、こんなにも大きく優位に出れるのか、という事が何となく推測できて。自分の行動が、これ程の結果を招いてしまうとは、思いもよらなくて。
「・・・河野さん、僕らはどうあっても客商売なんだ。だから、お客様第一でなければならなかった。それは分かるね?冷静に対処しなければいけなかったんだ」
「っ、はい」
粒となって零れてしまった塩水を、下を向いて拭う。
厳しく発せられた声は、自分を叱るもの以外の何物でもなく。彼の言葉は尤もだったから。
納得いかないまま、辞めてしまった。
それを思い出して、自然と視線を落としてしまう。
「・・・えっと。突き飛ばして転ばせちゃったんです・・・」
答えを言っても、何も返さない蒼羽の沈黙が居心地悪くて。
「あの、先にお客さんが体触ってきたんです・・・びっくりして、はねのけたら転んでて。その場が治まった後、店長とデパートの人に怒られて、・・・二人とも男の人だから。正当防衛だって言っても分かってくれなかったんです・・・それで、辞めちゃった・・・」
一気にそう言って、また下を向く。
言い辛かったことを吐き出したら、何だか不安になる。
「・・・あたし。悪くないですよね?」
「いや、お前が悪い」
求めていた言葉は彼の口から発せられず。愕然とする。
家族も友人も。アルバイトを辞めた理由を話すと、自分をなぐさめた。辞めて正解だった。緋天に触れた客は許せない。女の子の敵だよ。
誰もが自分の味方で。蒼羽の口から出た予想外の言葉が、冷たく感じられた。
「相手がやった事は明らかに悪いけど。接客の仕事だろう? 落ち着いて対応しなきゃ駄目だ」
触られた時の生理的な嫌悪感が思い出されて。
「でも!本当に嫌な感じだったんです。っ、あんな事されたら誰だって、」
「違う。俺が言ったのはそういう意味じゃない」
自分の言葉を遮って、蒼羽が静かに続ける。
「絡まれた時に上手く対応したか? 少しでも態度のおかしい客がいたら、すぐに責任者に報告して、注意深く様子を見るんじゃないのか? 接客に慣れた上の店員や、男の店員に対応させろ。相手が転んだ後も、お前がしっかり理由を話して謝ったのか? 上司が謝りに出た時、お前はその場で何をしていた?」
蒼羽の言葉に息を呑む。
落ち着いた声で紡ぎだされたその言葉は。まるで氷が急速に溶けていくかの様に、自分の中に広がった。こんな風に、たくさん出てくる言葉のすべては、蒼羽から発信されているのだ。寡黙なはずの彼から。
蒼羽の言いたい事を理解した途端、感じたのは、恥ずかしさと後悔。
自分に怒りの矛先が向かないように、と。
店長は騒ぎの起こった場所から客を誘導し、過度のサービスをし、深々と頭を下げて彼を送り出した。それからバックヤードへと自分を呼んで、何があって自分が彼を突き飛ばしたのか、という事を聞きだした後に、デパートの事務室へと連れて行かれたのだ。
連れて行かれる前に、支店の管理者へ先に連絡し、根回しすることも忘れずに。
守られていた、と今更ながらに気付く。
「・・・蒼羽さんの言う通りだ。あたし、ずっと自分は悪くないって。そう思って何も反省しなかった。・・・最低だ。何でそういう事、一度も考えなかったんだろう。自分の事ばっかり考えてた・・・」
あまりの恥ずかしさに、顔を上げる事ができない。
怒りではなく、悔しさでもなく、恥ずかしさで目が潤む。
「気付いて良かったな。過ぎた事はどうしようもない。気にするな」
後頭部に蒼羽の声が降りた。
それは思いのほか、優しく響く声で。
初めて蒼羽の内面に、ほんの少し触れた気がした。
「・・・っ、今すごい自分が恥ずかしい・・・蒼羽さんってすごい。教えてくれてありがとうございます」
ハンドルを操る蒼羽の横顔を見て、頭を下げた。
それを見て、蒼羽は薄く笑う。
彼が笑ってくれた事で、どこか救われた。
駐車場に車を入れて、緋天と外に出る。
「・・・今日はもう何もないんですか?」
陽射しの下で、何やら恥ずかしそうに口を開く彼女は、どうも先程の会話を、言葉通りまだ恥じているのだろうか。目のふちが赤く染まって、少し濡れているのは、目を潤ませたからかもしれない。どうして彼女の相手をしてしまっているのだろう。自分には何ら関係のない、言わなくてもいいことを口にして、そうやって緋天の気持ちの揺れに反応してしまっている。
「・・・特にないな。戻って食事する」
「あ、そういえばあたしお弁当の事考えてなかった・・・」
「ベリルが用意してると思うけど。いつもその日の門番の分も作っておくんだ。あいつは賑やかな方が好きだからな」
鍵をポケットに入れて言う。
何を丁寧に答えているのだ、と勝手に滑る自分の口を呪った。意図しない内に、自然と口が開いてしまうのは何故だ。ただ、答えを聞いて緋天の頬が緩むから。
駅の前の大通りに出て、どこかから緋天の名前が呼ばれた気がした。
同じ声を聞いたのだろう、彼女は足を止めて辺りを見回す。
「河野さん!あ、やっぱりそうだ。河野さんでしょ!?」
左手の横断歩道を渡って、同じ年代の女を先頭に、何人かがこちらに近づくのが見えた。




