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来た時と同じくらいの速さで蒼羽が先に進む。いつの間にかテントの並ぶ通りから外れていて、少し細い道を歩いていた。自分の足がまた小走りになっているのに気付いて、蒼羽の背中に声をかけた。
「蒼羽さん、あのっ、できれば、スピード落として下さい・・・」
立ち止まって蒼羽が振り返る。そこには驚きの顔。
「ああ、そうだった。悪い」
「っ!!」
自分が追いつくのを待って、蒼羽が言う。
眉間にしわはあったけれど、その言葉に冷たい響きはなくて。悪い、とすんなり謝られて、一瞬息を止めてしまった。これは、この人なりにかなり気を使っているんだと分かって、オーキッドを思い出す。蒼羽がこれだけ言う事を聞く彼は、一体何者なのだろうか。
「・・・ん? あいつ、追いかけてきてるな」
蒼羽が自分の頭を飛び越して、その後ろを見て呟く。
自分へ伝えようとしているのと、独り言と、半分ずつに聞こえて少し頬が緩んでしまった。振り返ると、通りのずっと向こうに、先程のアクセサリー屋の男性がこちらに向かってくるのが見えた。
「ここで待ってろ。すぐ戻る」
「はい」
蒼羽が来た道を引き返すのを見送り、通りの脇に備えられたベンチに腰を下ろして、足をぶらぶら遊ばせる。つま先の向こうには小さなピンクの花が、レンガの隙間に咲いていて、それをつついてから、歩いてきた道を見た。
蒼羽が遠くからでも目立つ赤い髪の彼と話しているのが見えて。しばらく眺めていたら、相手の男性が大きく手を動かして何か言って、蒼羽が真面目にそれに答えるのが見えた。
「無視してない、って事は、大事な話かな?・・・長くなりそう」
また足元の花に目をやって、暇つぶしに足を動かしていると。ふと、その場の日が陰った。上を向くと、目の前にスキンヘッドの大男。にやにや笑いながら何か話しかけている。
目元に傷。派手な紫色のシャツを着ていて、太い腕には刺青らしき模様。
外見で人を判断してはいけない、と分かってはいたけれど。見上げたその男の事は、それで判断していい気がした。彼の後ろには、似たような派手な服を着た、幾分小柄の仲間と思しき二人。
「・・・すみません、言葉通じないので。それに人を待っているんです」
通じないとは判っていても、できるだけ丁寧にそう言って、目の前から立ち去ってくれる事を祈る。
知らない言葉を聞くだけで、どこかへ行くだろうと思って。
大男はこちらの言葉を聞いて、少し驚いたけれど、気にせずに話し続ける。すばやく隣に座って熱心に何かを言って、唐突に右腕が引っ張られた。痛い、と思った時には、引かれた勢いで立ち上がっていて。
「っえ!? ちょっと、あの、離して下さい」
どこかへ行こうと言っているのは雰囲気で分かる。昨日の蒼羽のように、強制的に自分を連れて行こうとする男の腕を離そうとすれば、それ以上に強い力で腕をつかまれた。後ろで立ったままの仲間の二人の顔に、明らかに下卑た笑いが浮かぶのが見えた。
「っっ、もう!! 離してくださいっ!!」
少し強めに言い放って睨む。
こんなに強気に出れたのは、自分でも意外だった。相手の立場が、客でもなんでもないからだろうか。
「離して!!」
大きな声を出して、幾許かの恥ずかしさと、罪悪感と、怒りと。
それ以外にも、どこか高揚して、何かが発散された気がした。
そんな事に驚いていると、つかまれたままの右腕に指を食い込ませて、歩き出されてしまった。
「っい、たい!・・・っいや、・・・」
何とか足を踏みとどめようとしたら、ずるずると靴底が滑って引き摺られる。
誰か見ていないのか、と周りを見渡し、それから、蒼羽と一緒に来たのだ、とようやくその事に気付いた。彼に助けを求めようと振り返って通りを見たら、蒼羽もアクセサリー屋の男性もさっきまでいた場所に見当たらない。
「え!? やだ、どうしよう・・・」
頼りになる相手が見当たらなくて。
出した声が自分の耳にも弱く聞こえた。同じ音を聞いた男が嫌な笑いを浮かべて自分に向き直る。彼の左手は相変わらず腕を握ったままで、右手で首を後ろからつかんだ。何のつもりだろう、と思えば、男の親指が喉の上をさわって、あごを下から支える。
指先が、気持ち悪かった。
そんな風に、誰かに触られたのは初めてで。
とにかく、嫌悪感しか沸いてこない。
脂ぎった男の顔が、間近に近づいてきて、やっとその行動の意味を悟ってしまう。
「や、嫌っ、やめて下さい!!」
またしても。
自分の口から出る抗議の声は、弱々しく響いた。
先程は、強気だと自分でも思っていたのに、同じ気持ちに戻れない。
更に男の笑いが深まる。顔が近付いてきて。
首とあごを押さえられたせいで顔をそむける事も出来ない。
「やだ!!やめてよぅ、やだぁ・・・っ」
どうしようもないほど男の顔が近づいて、涙が浮かんでくる。
空いた左手で、彼の体を押しているのに、少しも動かないのは何故。逃げられないこの状況で、最悪な事をしてくる目の前の男の前で、もう駄目だ、と。
ぎゅう、と目をつぶった。
「やめろ」
聞き覚えのある声だった。
自分がどれだけその声を待ち望んでいたか、ほっとしながら気付く。静かに、空気の間を滑るように出されたその声音が、じわりとどこかに染み渡っていく気がした。目を開けると、先程と同じ距離、ごく間近の男の喉元に、細身の長いナイフが当たっている。きらりとそれが太陽の光を反射して。
そろそろと男の顔が遠ざかって、溜息まじりの低い声が聞こえる。
「・・・手を離せ」
男の右側に蒼羽の背中が見えた。




