11
「こんな事、今までに一度も起こった事がなかったんだ。向こうの人間が、こっちに入ってくるなんて。だから、正直言って、私も蒼羽もどうすればいいのか分からない」
すっかりぬるくなったカップを手にして、ため息をついた。
ソファを元に戻した彼女は、放心したように、もう一度そこに座ったまま。
「・・・さっきの話だと、穴の向こうの人は、穴が見えないんですよね? あたしはどこからこちらに入って来たんですか?」
首を傾げて言う彼女の言葉にまた驚く。
状況をしっかりと把握して質問をするその様子は、この異常事態に戸惑ってはいるが、大いに興味をそそられているようだった。
「ここの穴は大きくて長いんだ。厳密に言うと、この前の通りと、この建物全部穴の中なんだよ。L字型のね。普通の人には、向こうの世界の人には、ここの通りと、この建物は違う物に見えてるはずなんだ。違う物に見えるし、違う物が存在してる。2つの物が重なっている。こっちの人間にはこの家が見えてる。向こうの人間は違う建物が見えてる。だから。だから、君がここの通りに、この穴の中にいる事はありえないんだ」
緋天はガラス扉の外、レンガ作りの通りに確かめるように目をやる。
「でも。でもあたしは表の商店街を歩いていて。それで横道の、ここの通りが見えてました。本当は違う通りが見えるはずなんですよね?」
その口調は、話を始めた時よりもしっかりしている。
大人だと言い張った彼女を疑ったのは、間違いだったと悟った。
「うん、そうなんだ。何が原因か分からないんだけど。でも実際、君はここにいるから、私達は事実を受け止めなければいけない。私と蒼羽はここの穴を担当してる。だけど私達だけで、何かを決めるには、事が大きすぎる。上の者に指示を仰ごうと思う。これからどうするか決めるのは、上の人間だ」
びく、と体をこわばらせて、緋天は自分を見た。
「上の人間って・・・?」
その言葉に思わず苦笑して、首を振る。
「あ、ごめんごめん、君に危害を加えるような事は絶対しない。私達は平和主義だから。そうだな、でも向こうの世界について研究したり、穴について研究している連中には、興味深い出来事だから。協力を求められる事にはなると思う」
自分の返事に彼女は肩をすくめて笑う。
「すみません、勘違いしちゃいました。でも、今・・・失業中ですごくヒマだから。そういうのって楽しそうですね」
失業中、という言葉を紡ぐ時だけ、緋天の顔が一瞬曇ったのを見た。
学生ではないと言っていたのだから、最近まで、何か仕事をしていたのだろう。それを、きっと意に沿わぬ形で辞めてしまったのだ。そういう表情だった。
「私も。アウトサイドと大っぴらに話す事ができるなんて、夢みたいだ。あ、アウトサイドっていうのは、向こうの人間の事。私達はそう呼んでる」
緋天には、こちらに慣れてもらわなければいけない。
翳りを見せた彼女に笑みを浮かべて、蒼羽を見た。
「蒼羽。これで良かったかな? もしかしたら、急な雨にも対処するきっかけができたかもしれない」
じっと。
本当にじっと押し黙っていた彼は。
横目で緋天を見て、足を組み直して言った。
「・・・別に。俺一人でもやれる」
その言葉を嗜めようと口を開きかけて、やめる。
今日はこれで何度目だ、と少々うんざりしたのだが、よく考えたら、こんな風に蒼羽が他人に口をきくのは珍しい。緋天は蒼羽の横顔を見て、少しうつむいてから、自分を見た。
「えっと、そういえば蒼羽さんは雨に対処する特殊な人なんですよね。なにか名前があるんですか?」
「・・・予報士」
意外な事に。彼女の問いに蒼羽が低くつぶやく。緋天が蒼羽を振り返って嬉しそうに笑う。
それがどれだけ。
緋天以上に、どれだけ嬉しかったか。
「正式には、気象予報士って言うんだ。でも長いから。予報士って言ってる」
付け加えた説明に、蒼羽はもう無表情に戻ってはいたけれど。
彼女がいれば、何かが変わる気がした。
「明日、時間あったらまた来てくれる? 上からの連絡も何かあると思うから」
ガラス扉を開けて、ベリルは自分を見下ろした。
雨はもうすっかりやんでいて、晴れ間がのぞいていて。蒼羽を見たら、相変わらずソファに座ってそっぽを向いている。この二人は正反対だな、と思ったら笑いがこみ上げてきた。それに反応したのだろうか、眉間にしわを寄せたまま、蒼羽が自分を見た。ベリルも不思議そうな顔をして自分を見たので、それがまたおかしく思えて。
「どうしたの?」
「あ、いえ、何でもないです。明日、えっと・・・午後にまた来ます」
慌ててそう言って、外に出た。
また蒼羽にあの冷たい声で何かを言われたくはない。
相変らず柔らかな笑みをたたえているベリルに、ふと疑問に思う事を振り返って聞いてみる。
「あの、気になったんですけど。言葉、どうして言葉が通じてるんですか?」
「ああ、これもね、石のおかげ。このピアスに翻訳機能のある石をつけてる。でも石がなくても日本語はある程度話せるよ。この仕事に就く為に勉強してるからね」
左の耳を指して、ベリルは笑って言葉を続ける。
そこには銀色の金属が、耳のふちを挟むように飾られていた。
「でも見た目が思いっきり英語圏の人だからね。日本人に日本語で話し掛けても皆逃げていくんだ。そういえば緋天ちゃんは私を見ても普通だったね」
「・・・内心はびっくりしてましたよ? 外人さんだ、って。でもそういう事、気にしてる雰囲気じゃなかったから」
ベリルは苦笑して、空を見上げてから再び自分に目を落とした。そんな彼に頭を下げる。
「じゃあ、また明日。・・・蒼羽さんも。さようなら」
部屋の奥に声をかけた。彼が返事をしてくれる事はあまり望んでいなかったけれど。




