八十二話「始まりを告げる声」
1と0には大きな違いがある。
それは単純に有と無の違い。
数学では+1するだけで0は1になるというのに、現実で0が1になるというのは大きな意味を持つ。
それでは1と2ではどうだろうか。
これもまた違う。数学ではなく現実で言うと、一度ならず二度までもというわけだ。
しかし。
2と3には大きな違いがあるだろうか。
……私には違いがあるとは思えない。ただ1違うだけだ。
それならば3と4は? 4と5は? 5と6は?
同様に大きな違いがあるとは思えない。
だから。
「いやああああああああ!!!!」
目の前で叫ぶ女性に。
能力『獣化』で鉤爪のようになった手で引き裂くようにして。
私、モーリスはこれで六人目となる目の前の人間をためらい無く殺した。
罪悪感はとうの昔に忘れた。
大切な物を奪われたのは…………私の方が先なのだから。
ゴールデンウィークが明けてから二週間ほど経った。
クラスの指揮を取って文化祭の準備は順調に進めている彰は夕食中だった。
「彰さん、おかわりしますか?」
「ああ、お願い」
「彰、それ何杯目よ」
「三杯目だ」
由菜のうんざりとした口調に彰は軽く返す。
食卓についているのは三人。彰と同居中の恵梨と隣の家から来ている由菜である。由菜は現在もこうやって夕食時には彰家にやってきていた。
「いつもの事ながらよく食べるわね」
「高校生なんだから当たり前だろ。それに最近は毎日文化祭の準備で駆け回っているからな」
彰が疲れたように言うのは、今週になってから文化祭の準備が本格化してきたという理由がある。いつもは七時間目まである授業も、文化祭準備のために一時間削って六時間になった。
それに合わせて部活の方もほとんどの部が文化祭の準備に入った。(あいにく斉明高校は部活にそこまで熱心ではない。たいていの運動系の部活は大会などで二、三回戦に進めば良いほうというような学校である)
部活で準備がある人はそちらの方に行くが、そうでは無い者はクラスの準備にまわる。その人員を管理し、何をどれくらいの人数で調べさせるのかなどを決めるのが彰の仕事であった。ようは司令塔である。
それだけではなく文化祭のクラス委員として定期的に開かれる文化祭準備会議に出席しないといけなかったり、パレードを歩くときの注意を受けたりと彰の放課後はおおわらわである。
「そうやって疲れている顔をしているけど……充実しているでしょ」
「まあな」
由菜から本心を見透かされる。
去年度、つまり中三の後半はずっと高校の受験勉強だったので学校行事に全力を注ぐというのは久しぶりの事だ。
それに一度きりの高校生活だ。こうやって何かに打ち込むのも青春だろう。
「はいどうぞ」
「サンキュー」
恵梨からおかわりの皿を受け取る彰。
「文化祭の準備といえば……今日由菜さんがパレードの服を一回着てみたんですよ」
恵梨が話に入ってきた。
「そ、その話するの?」
「……つってもただの着物じゃないのか」
彰と由菜が仮装する事になっている庄兵衛とかよは江戸時代の人物のため、仮装といってもそこまで派手では無い着物を着るだけのはずだ。
と、彰は思っていたのだが恵梨が首を振った。
「私もそう思っていたんですけど……それが違うんですよ」
「え? 何が?」
「今日学校にある仮装用の衣装を見に行ったんですが、その中にちょうどいい衣装があって。……ですよね由菜さん」
「うん。……その、江戸時代の結婚式に使うような派手な着物が……」
「……よくそんなのあったな」
それにしても結婚式に使うのとは。……まあ庄兵衛とかよは夫婦だからなあ。
「せっかくだから普通の着物じゃなくてこっちを使おうという事になりまして」
「……ううっ。一緒に行った恵梨と美佳とその他の女子から強引にそれを着せられたのよ。あんな派手なの、私なんかに似合わないわよ。変えましょうよ」
「まあ、由菜は強く頼まれたら嫌といえない性分だもんな」
美佳に強引に迫られ、恵梨がそれを補佐し、その他の女子が脇を固めて薦めた結果、折れた由菜がその服を着たという場面が彰にはたやすく想像できる。
「………………あれ?」
しかしその後が想像できない。
由菜が着物を着てみたらどうなるんだろう?
現代、着物を着るという経験はほとんど無い物だ。幼なじみとして長く過ごしてきた彰も由菜の着物姿を見た事は無い。
だから、それを見た恵梨に聞く事にした。
「恵梨、着物を着た由菜ってどんな感じだったか?」
「聞かないで!!」
ノータイムで叫ぶ由菜。
「……おまえには聞いてないぞ」
「似合ってないのよ!!」
「そういうのは他人の目から見ないとよく分からないだろ。話聞くだけだしいいじゃないか」
「だけど。…………ま、まあそれぐらいいかしら。(……それって彰が私のことを気になったってことだし)」
何かぶつぶつ由菜が言っているが、それに関わらず恵梨は微笑を浮かべ始めた。
「ふふふ。彰さんからそれを聞くとは思いませんでした」
恵梨はポケットから携帯を出す。
「実は由菜さんには内緒で取った写真がこの中に……」
「ダメーーーー!!」
恵梨に飛び掛る由菜。
その動きを予測していた恵梨はひょいと携帯を上げてその手をかわす。
「いいじゃないですか。彰さん、由菜さんはこう言ってますけど、本当は綺麗でしたから」
「ダメなの!! それだけは絶対ダメ!!」
「どうせ本番になったら見られるんですよ」
「それなら今じゃなくても!!」
由菜はかなり本気で取りに行っているが、恵梨は子猫とじゃれるように由菜をいなす。
その光景に彰はすっかり傍観者となってふと思っていた。
平和だなー、と。
「彰さん、パスです」
「逃さないわよ!!」
恵梨が携帯を投げるが、由菜がジャンプ一番で手を伸ばしそれを取る。そして携帯を操作して、
「削除!! これで終わりよ!」
「あー、せっかくのデータが…………ってバックアップ取ってますけどね。テヘ♪」
「全部渡しなさい!!」
「渡すと思いますか?」
……そう感じたのは後になって考えてみると、この夜に起きてしまうことを何となく感じ取っていたからなのかもしれなかった。
モーリスは今しがた出来上がった死体の転がる地面に視線を落とす。
もう夜も遅いため蛍光灯によって照らされている路上には、殺した女の持ち物が散乱しそれを血の赤が染めている。
死体に目を向けると腹はえぐられ、顔はおびえきった表情で固まっている。
それもそのはずだ、モーリスは自分の体を見る。
剛毛で、鋭く長い鉤爪を持ち、牙まで生えてきた自分は物語に出てきそうな狼男のようになっている。普通の人が見たら驚いて当たり前だ。
それは能力『獣化』を発動しているからである。
運動能力が上がり、聴覚視覚が研ぎ澄まされ、野生の勘ともいうべき第六感まで付くこの能力は外見を獣のようにしてしまう。
「グルルルル」
獣の唸り声しか発せなくなるのがこの能力の欠点なのかもしれないが、頭の中では明快に思考が出来るため、人間と獣どちらともの長所を生かせる戦闘に向いた能力である。
「グルルルル」
さて、とつぶやこうとしたが獣の声が響く。
異能力者隠蔽機関とやらの協力を受け、人を殺してから組織の連中が駆けつけてくるまでが最近早くなっているのをモーリスは知っていた。
なので早めにこの場から去ろうと跳躍体勢に入り、
「!!」
そのとき、鋭敏な聴覚がある音を捉えた。
それは誰かがこちらに向かっている音。
タッタッタッ、と走る音がするので車や自転車を使っていないはずなのに、尋常でないほどのスピードでこちらに近づいてくる。
音の発信源の方を向くと、ちょうど角を曲がって姿を現した人物がいた。
「……Shit! 少し遅かったか!!」
こちらの惨状を見て舌打ちをする金髪の少年。
「グルルルル」
そうか、組織は私一人に対してこいつをよこしたのか。
「……まあ姿を捉えられただけアメリカで追い掛け回していた時より良しとしますか」
一息ついて落ち着いた少年がモーリスをねめつける。
モーリスは彼のことを話に聞いた事があった。
まだ歳が二十にもなっていないはずなのに相当な場数を踏んでいて、組織の中でも高い位に位置している。
「そこのモールス? でしたっけ。おとなしく捕まってくれませんか?」
それは電信信号を生み出した人だ、と心の中でツッコんで。
「ガルルルル」
モーリスは戦闘体勢に入った。少年の言葉通りに捕まる気は全く無い。
それを見て少年は、
「……まあこれで大人しくなるようならアメリカから日本まで逃げるはず無いか。
そういうことならこのボク、
能力者ギルド、執行官のルークがじきじきに取り押さえる事にしよう」
芝居がかった口回しの後、ルークはモーリスの動きに対応できるように構える。
こいつ! いちいち人をなめた態度だな!
「ガルッ!!」
モーリスは不快感そのままにルークに突っ込んで行った。
「速度二倍!」
ルークも自身の能力を使ってそれに応戦する。
闇夜に殺人者と執行官の戦いが始まった。
夜。
騒動が一段落した後、由菜は隣の家に帰っていった。
結局彰が由菜の着物姿を見る事はできなかった。由菜の決死のがんばりによりバックアップまで消させる事に成功したようだ。
「まあ、どうせ本番前になれば見る事になるんですしね」
最後に恵梨はそう言っていたが、その通りで彰は文化祭本番を楽しみにする事にした。
するべき家事を終わらせて、現在彰は自室で勉強中である。
文化祭の準備で忙しくても手を抜いたりはしない……と言えればかっこいいが、実際は集中力が落ちているのを実感していた。
「う~~ん。今日は早めに寝る事にするか」
伸びをしながらつぶやいた彰が立ち上がったところで、
すいません。今、時間がありますか? 頼みたい事があるのですが。
頭の中に低い態度の女性の声が響いた。




