06 家出 Ⅱ
食卓の皿には、右に母親、左に柴希の料理が盛られた。エンは先程から、どちらの新年料理も美味そうにぱくついている。
向かいの父親は、昨日から食欲が無いらしい。箸を持ったまま、ぼうっとしていた。
紅茶色の視線が時折、息子が隣の席に置いた手紙へ向く。さっき柴希が、お母上からと言ってエンに手渡した。気になっているようだ。
午前中、お父様に内緒でお出かけするかもしれないと、風邪も治ったらしい母親は面白そうなことを仄めかしていた。そのことについて書いてあるのかもしれない。
母親の説明をエンはよく解っていないようだったが、楽しそうなことだとは感じ取ったように見えた。
鐘結界は侵入に反応する結界だから、〝内緒でお出かけ〟するのは簡単と母親は考えているかもしれない。
しかしながら、後宮に外へ直接通じる扉は無い。この宮殿は高台に在る。水掘に囲まれており、室内は実質二階か三階に相当する高さに位置している。
術力皆無の母親が、頭抜けて鋭敏なルウの皇帝に気取られず出かけるのは、意外と困難な筈だった。
術者の柴希も帰ってしまったし……
「あまり慌てて食べると、喉に詰まらせるぞ」
父親が、母親のような忠言を口にした。エンは食べていた物を飲み込んでから応じる。
「お手紙持って、早く母上のトコに行きたいの」
「……読まずに?」
えへへ、とエンはあどけなく笑った。
牛乳を一息に飲み干すと、両手で持っていた杯を卓に置く。御馳走様ぁ、と辞儀をした。
「母上、御飯どうするんだろう。まだお部屋に一人で居るなら、柴希とのお話で満腹になっちゃったのかなぁ」
「そういえば柴希は帰ったんだったな……」
父親は呟くように言った。席を立つ。「片づけは俺がするから歯磨きをしな」
言い置き、食堂を出ていく。精霊を呼び戻すつもりだろう。
エンは椅子から降りた。手紙を懐にしまうと食堂を出る。言われた通りに洗面所の方へ足を向けた。
背後の境界の扉の近くで、父親が風の精霊を見上げている。姿を見せた精霊が話していた。
〈――今、皇妃は部屋におらず、卓上に紙片があった〉
「どんな」
〈二つに折った上に、そなたの名が真名で半分書かれていたぞ〉
多分〝琇那〟だ。
「部屋に居ないとは、どういうことだ」
〈どういうことと言われてものう〉
精霊が、呑気な口振りで応じている。
エンが角を曲がる寸前、父親はふっと姿を消した。瞬間移動術か。
洗面所と厠は二箇所在るのだが、皇帝一家は一箇所しか使用していない。世話役を柴希以外に任命していないから、利用者数を考えれば妥当だった。
常用の洗面所は両親の寝室や子供部屋に近く、食堂からは結構な距離だ。
弾むように廊下を歩いてエンが洗面所に入りかけた時、父親が足早に寝室から出てきたのが見えた。
寝室の扉を開けたままで、子供部屋を開ける。
エンは洗面所の前で立ち止まって、父親を遠望した。ちょっと小首を傾げる。
父親は子供部屋を覗いてから、やはり扉をそのままに隣室へ向かう。
何をしている……?
次の部屋も次の部屋も、父親は扉という扉を開け放ち始めた。
「父上?」
流石に訝しく思ったのか、エンが問いかけの声を発した。が、皇帝は徐々に歩調が速まってきていた。
洗面所にも飛び込んで、すぐ出てくる。
〝お出かけ〟したのか――?
息子に目もくれず横の部屋へと向かう父親を、エンは茫然と見送った。
せわしく胸元に手をやってから、エンは懐から手紙を引っ張り出す。封筒に、便箋が二枚入っていた。
【母様はこれからお出かけします。お父様のいうことをよくきいて、二人でいっしょに母様のかえりをまっててね。
エンに作るふくは、母様のようにカゼをひいちゃわないよう、あったかいうわぎにします。たのしみにしていてください。】
母親の行動力を侮っていた。
彼女は全てを捨て、たった一人の男を追って、異世界から来るような女性だった。
【今回のことは、できるだけお父様にはないしょにしておいてね。でも、お父様が母様をさがして、とても困っているようだったら、知っていることをぜんぶはなしてあげてください。 エンを大好きな母様より】
父上――とエンは顔を巡らす。
もう部屋の扉は全て開放されていた。
皇帝が長衣の裾を翻し、目の前を駆け過ぎていく。エンは後を追って走り出した。
父親は寝室に走り込み、今度は窓を開け始めた。
吹き込んだ風で、火の無い暖炉近くの卓上から、紙片が床に落ちる。
【私、宮殿を出ます。でも、捜さないで。捜すくらいなら、エンを大事にしてほしいの。お願いです。エンは、琇那さんと私の大切な息子よね? 琴巳】
真名が多くて、エンはすぐに読むのを放棄したようだった。ちょっと目をやっただけで父親を追う。
エンはついて行くのが精一杯で、父上、と呼びかける声も切れ切れだった。
皇帝は、窓を開けては顔を出し、辺りを見回した。
東側の最後の部屋から走り出ると、狂ったように南へ向かって突進しかける。それを、風の精霊が現れ、阻んだ。
〈帝っ、これ以降の窓は人間ならば子供でも出入りは難しい。皇妃には到底無理だっ。アレはラル宮殿には居ないっ。落ち着けっ〉
「何故お前に判るっ!?」
叫んだ皇帝の手が、瞬く間に闇に黒ずむ。次の瞬間、息を切らしたエンが声を割り込ませた。
「は、母上なら、父上に素敵な、贈り物、するから、こっそり出た、だけだよ」
父親はハタとした様子になった。手から靄が消えていく。肩を上下させながら、息子を振り返った。
幼子は汗だくで、全身で息をしていた。
「父上への贈り物、僕も、教えてもら、なかったけど、ぼ、僕にも、新しい上着、作ってくれる、て」
「母上の手紙に、書いてあったのか」
呼吸を整えつつ父親が問いかける。エンは小さく頷いた。握って走った所為で、くしゃくしゃになった便りを差し出す。
さっと目を通し、父親は即に訊いてきた。
「母上は、何処に出かけた?」
聞いてない、とエンは首を振る。父親は、危うく抹消しかけた風の精霊に目を流した。「コトミは、宮殿に居ないと言ったな」
〈うむ。わしの名にかけて断言する〉
皇帝は僅かに眉を寄せた。
最後に皇妃と一緒に居ただろう柴希が帰ってから、三十分程度しか経っていない。柴希は一人で後宮を後にした。彼女の助力無しに、一体、皇妃はどうやって出ていったのか。
信じられずに、扉を片端から開けていったのだろう。
父上、と呼吸の治まってきたエンが言った。
「今日は、お仕事、お昼までだったの?」
はっとしたように、皇帝は開け放たれた客間を覗いた。卓上に時計がある。午後の定時から三十分も経過していた。
「風、メイフェス島と始祖の島にコトミが居ないか捜してくれ。居なかったらそのまま自由に。居たら、悪いが居場所を教えに戻ってきてほしい」
〈よかろ〉
諒承の余韻が消えていき、精霊は気配もすうっと遠ざからせた。
父親は、エンを見た。
「歯は磨いた?」
「あっ――あの……あの、まだ……」
しゅんとなった息子の頭に、ぽふっと父親は手を乗せた。
「これからすぐ歯を磨いて見せに来な。俺は執務室に居る。場所は境界から出て、廊下をひたすら歩き、最後に着いた扉だ。もし場所が判らなくなったら、通りすがりの誰かに訊けばいい」
「っはい」
「扉や窓は俺が片づけることだから放っておいていい。エンは歯磨きに集中しな。母上も俺も虫歯は無い。エンに虫歯が出来たら、母上は帰ってきて早々がっかりするだろう」
「頑張って綺麗にする」
「あぁ。じゃ、俺は行く」
歩き出しかけ、父親は足を止めた。見送る態で立っていたエンに、ちょっとだけ微笑を見せる。「仕事を思い出させてくれて助かった」
そうして皇帝は、そこだけは開放を抑制できていた境界の扉を開けた。
「父上、大丈夫かなぁ」
母さんもやるな、と子供部屋に来るなり言ったツバメに、エンはそう返した。
今日も何処からか一部始終を見聞きしていたらしいツバメは、エンの言葉にもそれを示すような返答をした。
「父さんはゾンガイ、繊細だったんだな。日頃、偉そうにしているくせに」
言いようにいささか反対意見があったが、エンは黙っていた。
先刻〝おやすみ〟を言いに来た父は、今日はきちんと着替えて寝な、と昨夜の失態をさり気無く指摘して出ていった。
その姿は、母が横に居ないだけで、一見いつも通りだったけれど……
「それにしても、父さんが駆けずり回って扉と窓を開けまくったのには仰天した」
ツバメは、今夜はエンが寝台に腰を下ろしているので、出窓に座って言った。月光に後ろから照らされ、浮かび上がった小さな黒い人型から声が聞こえてくる。「あのキョウタイにもだけど、よくあれだけ動き回れるもんだ。丸一日、殆ど何も食べてなかったのにな」
「あ、僕、それ気になってるんだよ。父上、今日の晩御飯も珈琲を半分飲んだだけだ。それで気づいたんだけど、考えてみたらもう一日以上、父上はまともに御飯を食べてない」
エンは両手を不安に組んだ。「今日、僕、晩御飯にハイ・エストのお粥を食べたんだけど、父上が昨夜から食べずに残してた分だったんだよ。父上ったら、僕が食べちゃってから言うんだもの……」
「それは、モクゼンの問題が片づけばひとまず安心できてしまうテンケイ的なコドモのエンと、全て完全に片づくまでは気を抜かないシンチョウ型のオトナである父さんの違いだろうな」
また難しいことを言う。エンは口をすぼめたが、考えを告げた。
「僕、昨日、ハイ・エストのお粥の作り方、見てたんだ。簡単だったから、作ってみようかと思うんだけど」
「勝手に火なんか起こしたら、大目玉だ」
「勝手にはしないよぅ。火は父上に点けてもらうの」
「つまりなにか、今晩うっかり食べてしまった父さんの分のお粥を作ってやりたいって?」
「そうそう」
「あのなぁ、例え作ったとしても、父さんが食べると思うか?」
「う……」
「やめとけ、やめとけ。父さんは好きで食べないんだ。食べたくなったら何か自分で仕入れて食べるさ」
明らかに他人事に対する物言いで、ツバメは枠に背をあずけた。両手を頭の後ろで組むと、話題を転ずる。「そんなことより、あの調子じゃ父さんは部屋でモンモンとしてる。後宮を探検しないか。ツバメは見逃さなかったぞ、昼に、父さんは書庫を無理矢理開けて鍵を壊してしまった。今夜なら、あそこに入れる」
「……僕、興味無いよ、書庫の本には」
エンは、絨毯に写った友人の影を見つめた。「それに、あそここそ勝手に入ったりしたら大目玉だよ? 大事な書付もたくさんしまってあるんだって」
「書付は、ヤクショクのニンメイ書とか皇族の系図なんかだ。ツバメが見たいのは術書だ」
「ツバメは読めるのかもしれないけど、多分、僕にはまだ――」
「ツバメが読んでやる」
幼子は、勢い良く床に降りた。「行こう、エン」
「え――」
エンは術書を読んでもらっても無意味だ。母と同じで、魔術は使えないのだから。「僕、どうせ行くなら、父上のトコに行くよ」
「なんでっ!?」
ツバメは腹立たしそうな声をあげた。「父さんのトコに行ったって、しょうがないじゃんかっ」
「僕、明日お粥を作ってみたいって言うの」
エンは、ぱっと寝台から降り立った。「一生懸命作ったら、父上も食べてくれるかもしれない」
「馬鹿だ馬鹿だ、エンはっ。父さんは母さんが作った新年料理さえ食べてないのにっ、エンの作った物なんか食べるもんかっ」
扉の把手を回しながらエンは言い返した。
「判ってるよ」
判っているが、もしかしたらってコトもある。
それに、そんな結果より、父がどうしているかエンは心配だった。とてもじゃないが、母の帰りを楽しみに待つ雰囲気ではないのだ。
大体、母は今何処に居るのか。誰か信頼できる人が、きちんと傍に居るのか――父は、それが気懸かりで気懸かりでしょうがないに違いない。
風の精霊は、窓の外がとっぷり暗くなっても、訪れなかった。
母の居場所は判らず終いだ。
両親の部屋の扉を叩くと、思いのほか早く開いた。開けた父の視線は、エンより高い所に一瞬投げかけられ、ふっと下りてくる。
「どうした」
廊下より深い闇に包まれた室内を背に、父は屈み込んだ。
エンは、意外な父の背景に小さく口を開閉させた。開けてくれた速さからしても、寝間着に着替えていないところからしても、父は横になっていたわけではないだろう。真っ暗な部屋で、話し相手も無く、何をしていたのか。
エンが半歩後ずさると、父は後ろを振り向きつつ、独り言のように言った。
「怖い夢でも見たのか」
ぽっ、と云う音と同時に、暖炉に淡く火が灯った。ふわっと暖かな光が部屋に広がる。
父はメイフェス島や皇領を守る大切な役目があるから、その為の不思議な魔術を使える。火を起こすのもその内の一つだ。エンは、ちょっと羨ましいと思う。
けれど、母は魔術ができなくても、美味しい料理を作ったり着心地のいい服を作ったりできる。
エンも、魔術が使えないから、母のようなことができるようになりたかった。だから、母が食事を作る時は手順を熱心に見ている。昨日、ハイ・エストが粥を作るのを見覚えたのはその延長だ。
ツバメも、術書なんかこっそり見るより、父上が術を使う時に真剣に見てみた方がいいんじゃないかな……あ、でも、僕がツバメのコトを父上達に話せないように、ツバメもあんまり父上達の傍には行けないのかな。大変なことが起こったら大変だもんね。
エンは自室の方を見たが、友人の姿は無かった。書庫に行ったのか、それとも、いつものように瞬間移動の術で家に帰ってしまったのかは判らなかった。
「エン?」
尋ねるように低声が響き、エンが並んだ目線を合わせると、父はかっこいい顔を少し傾けた。「大丈夫か?」
「う、うん」
「……おいで」
父は両腕を開いた。「一緒に寝れば怖くない」
いいの? と訊いて撤回されたら嫌で、エンはきゅうっと父に抱きついた。父はエンを抱き上げると、エンの使っている物より三倍ほどある寝台まで連れて行ってくれた。
掛け布団をめくると、父はエンを抱いたまま入りかけ、あぁ、と呟いた。
「俺、着替えてなかった」
「うん」
エンはクスクス笑う。入ってな、と父はエンを下ろすと、隣の小部屋へ足を向けた。扉を開けたままで夜着に着替え出す。
眺めながら、エンは気分のままに寝台の上で身体を弾ませた。大きな寝台がぽふんぽふんと揺れて楽しい。
嬉しかった。とっても、嬉しかった。
今日は、初めてがたくさんだ。なかなか一緒に居られない父と、長いこと一緒だ。父の執務室にも行った。父が働いているところを見られた。午後の仕事の間、ずっと傍に居させてくれた。終いには、同じ布団で寝られる。
母が何処に居るかが判らないのは心配だけれど、内緒の贈り物が出来上がれば帰ってくる。
母が見つからなくてがっかりしている父には悪いが、見つからないが故に舞い込んできた特典をエンは喜んでいた。
ホントなら、僕が今居る所は母上が居る場所だ。母上はこの前のお誕生日まで僕に寝間着を着せてくれたけど、父上は今、自分で着てる。父上は一人でできるから、やっぱり母上はこうやって見てるのかな。
戻ってきた父に、エンは尋ねた。
「父上は、母上が怖い夢をよく見るから一緒に寝てあげるの?」
父は眉を上げた。横に入ってきて、髪をかき上げる。
「母上と俺は、婚の儀をして、一緒に寝たいから寝てる。それだけのことだが、エンの言うように、怖い夢で目覚めても、すぐにホッとできるっていい点があるな」
「母上、今晩、怖い夢、見てないといいね」
「あぁ」
父は、エンに布団を着せ掛けてくれた。「そうお祈りしながら、おやすみ」
粥作りの話をすこんと忘れたまま、エンは父の温もりの中で眠りに落ちた。