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燕二人  作者: K+
六暦620
6/45

05 家出 Ⅰ

 一月二日、ラル宮殿のゆったり業務は明日までだ。明後日からは今年度の予定を執行しつつ、来年度、再来年度の計画を立てていく本格業務が始まる。

 昼の休憩時刻に近づく頃、昨日の同時刻とはうって変わり、栩麗琇那(くりしゅうな)は沈んだ気分を抱えていた。

 今朝、やっと目を覚ました妻は熱も下がり、ほぼ完治したようだった。寝ずの番をしていた栩麗琇那は心底安堵したのだが、その幸福感はほんのひと時だった。

 琴巳(ことみ)は、体調は元に戻っても、心が元に戻っていなかった。驚いたことに、未だ息子の件で栩麗琇那に不満を持っていたのだ。

 本気で怒っている彼女に接するのは、栩麗琇那は未体験だ。しかも、矛先は他でも無い自分。

 我知らず嘆息し、栩麗琇那は顎を撫でた。剃るのを忘れていた僅かな鬚の感触が、己が困惑をありありとさせる。

 昨日、薬茶を作りに(つばめ)蒼杜(そうと)が出ていった客間で、琴巳は恐ろしく鋭い台詞を放った。

『解ってくれないなら、琇那さんこそ、わたしの傍に居てくれなくていい』

 思い出しただけでズキッと痛みが走り、栩麗琇那は胸元をさすった。

 琴巳に出会って十五年弱、二人が異世界で過ごしていた期間、栩麗琇那は〝兄〟という立場にあった。

 いずれ世界を隔てて離れ離れになると思っていたし、本意でなかったとはいえ、慕ってくる彼女につれない態度を幾度となくとってきた。

 今になってツケを返されるとは……

 栩麗琇那は早くも、たった一度つれなくされただけで、かなり精神的にこたえていた。

 琴巳の指摘通り言い過ぎたかもしれなかったし、あの後、燕も理解して反省を示してきたので、栩麗琇那は許した。手早く父子間では落着したのに、何故、夫妻間が今もってこじれているのか解らない。

〝解ってくれないなら〟と言葉が浮上してきて、栩麗琇那はくしゃっと髪をかき上げた。


 朝方、瞼を上げた琴巳は開口一番、エンは? と問うた。

『自分の部屋だ』

『……昨日、御飯は二人で食べた?』

『あぁ』

 琴巳はこちらを見てくれたが、何処か探るような目つきだった。

 真偽を測るような……解ったの? と言いたげな……

『今日は夜に蒼杜に来てもらうから、それまで休んでな』

 栩麗琇那が言うと、琴巳は半身を起こした。

『三食分もおせちは残ってないでしょ。もって今日のお昼まで』

『昨日、蒼杜がわざわざ、風邪が伝染らないようにと滋養の薬草粥も作ってくれたんだ。昨夜はそれを食べた』

 愛妻の背後に枕を立てかけながら、栩麗琇那は言った。『コトミの分も、目が覚めたら食べるようにって、作ってくれた』

 温めて持って来る、と言い置き、寝室を出た。

 戻るとベッドがもぬけの殻で、栩麗琇那は粥一式を取り落としそうになった。床にぶちまけるのは免れ、狼狽して妻を捜すと息子の部屋に居た。

 眠っている燕の髪を撫でていた琴巳は、ちらっと、そのくせ射抜くように、こちらを見た。

『〝おやすみ〟を言ってあげなかったわね?』

 見抜かれて栩麗琇那が瞠目すると、琴巳は可愛らしい桜色の唇をきゅっと結んだ。すたすたと脇を通り過ぎ、寝室へ行ってしまう。

 後を追いかけ、つい弁解染みたことを口にした。

『俺、昨夜はずっとコトミの傍に居たから』

『可愛い息子はほったらかしで、美味しいお茶を御馳走になってぐうぐう寝てるのの傍に居るなんて無駄をしてたの?』

 ぐさっと言葉の矢を突き立て、琴巳はそれきり何も言ってくれなくなった。


 参った……

 どうすべきか解らないまま、印章を懐にしまうと執務室を出る。朝、全く同じことを考えつつ執務室に入ったので、尚更閉口である。

 執務宮は、中庭側に窓が一切無いという他は、後宮とほぼ同一の構図だ。

 長い直線の廊下を歩き、角を曲がって境界の扉が視界に入った所で、助かった、と栩麗琇那は洩らしそうになった。

 境界役と和やかな面持ちで言葉を交わしている女性が居る。心理的な理由からか、普段より五割増しに美しく見えた。

柴希(さいき)、せっかくの休みだろうに」

 心から栩麗琇那は称賛した。「女官の鏡だな」

「新たな年早々に、勿体無いお言葉」

 柴希はちょっと膝を折って返礼する。

 鐘結界の手続を済ませ、栩麗琇那は女官を伴うと後宮に入った。



 新年二日目の後宮は、静謐に包まれていた。

 (てい)の半歩後ろを歩き出した柴希は、違和感に眉をひそめた。

 一昨年結婚した柴希は親友の琴巳と、ほぼ同じ家庭を持った。素敵な夫と愛くるしい娘がいる三人家族だ。

 恙無く年が明けた我が家は、賑やかである。

 去年、同じ日に新年料理を交換しに来た時は、皇帝一家にも同様の雰囲気があったのだが……

 栩麗琇那が、ぽつんと告げた。

「実は昨日、コトミが風邪で熱を出した」

 あぁそれで、と柴希は心の内で合点する。

 本人は気づいているのか定かではないが、今日の帝は少々みすぼらしい。執務宮の廊下で見た時から、おや、と思っていたのだ。

 栩麗琇那の愛妻家ぶりは、一般より数段、堂に入っている。琴巳が熱など出した日には、自分のことなど顧みる余裕なんて無いだろう。

 もしも琴巳が先立ったりしたら、帝はその場で後を追っちゃったりして。

 やりかねない危うさがあるのよねぇ、と思いつつ、柴希は栩麗琇那に懸念の目を向ける。青年皇帝は、眼差しの意味を誤解した。

「今日は、もう熱は下がってる。大丈夫だろうが、動き回らずに寝てるよう言ったから退屈してると思う。休暇中に悪いが、少し話でもしていってくれないか」

「御意。元よりそのつもりです」

 慇懃に応じると、帝は滅多に出さない表情を見せた。ほっとしたように、心持ち目を細める。柴希は夫子ある身で、どきっとしてしまった。つくづく、美とは彼の為にある言葉だと思えてしまう。

 角を二つ曲がり、最奥の部屋に着くと、栩麗琇那はコンと扉を軽く叩いた。はぁい、と言う子供の明るい声がした。

 帝が扉を開くと、小さな足音と共に、柴希の大好きな声が近づいて来た。

「おかえりなさぁい」

 栩麗琇那が差しのべた手に、可愛い皇子(みこ)が両手で飛びついた。背後の柴希にすぐ気がつき、顔を輝かせる。「わ、いらっしゃい――お休みじゃなかったの!?」

「お休みだけど来てくれたんだ」

 帝が説明すると、わぁい、と幼子は歓声をあげ、奥を振り向いた。

「母上、柴希が来てくれたよ」

 親子が道を開けてくれる形で、柴希は室内に顔を覗かせた。暖炉脇の肘掛椅子に座っていた親友が、立ち上がって可憐に微笑んだ。確かに大丈夫なようだ。

「いらっしゃい。オセチ、残してあるよ」

和斗(わと)が喜ぶわ」

 笑みを返しながら柴希は夫をダシに使う。実際、去年交換して持ち帰った料理に、夫は、美味い美味いと連発していた。料理の腕の違いは判っているので、柴希は苦笑いするしか無かったものだ。

 琴巳は、その場に佇んだまま、皇子に声をかけた。

「エン、母様お腹があまり空いてないの。お父様と先に御飯を食べてて?」

 昼中動かず騒がずしていたら無理も無い。だが、琴巳はルウの民より遥かにか弱い身体の持ち主だ。柴希は気になった。

「ちゃんと食べないと、風邪がぶり返しちゃうかも」

「ん。後で、ちゃんと食べる」

 琴巳は応じて、清浄の女神のよう、と評されるのが頷ける笑みを見せる。「今は、お茶を一緒にどう?」

 異存は無い。柴希は、持っていた包みを軽く掲げ、帝を見上げた。

「今年は和斗の母上直伝の、特製新年料理を持って来ましたの。どうぞ、お召し上がりくださいませ」

 栩麗琇那は看病疲れか多少ぼんやりと、すまない、と受け取る。

 逆に琴巳はすっかり元気になっている様子で、両手を合わせた。

「わ。エン、家のオセチは飽きてきちゃってたでしょ。良かったね、お昼にいただくのもいいかも」

「えと、えっと――どうも御馳走様」

 皇子が立派な挨拶をしてきて、柴希は我が子の成長を見るようで嬉しかった。それにしても、良い子に育っている。琴巳の話によると躾は殆ど栩麗琇那がしているそうで、まったくもって恐れ入る。良夫賢父だ。

「エン、御飯食べる前に、昨日蒼杜さんに貰ってもらったようなのを用意しておいてくれない? 中に入れてた物、覚えてるかしら」

「おっきい方に入ってるのを、少しずつ分けたよね」

「そう、よく覚えてるね、その通り」

 皇子は、母親そっくりの風情ではにかむ。

 柴希は、ふと妙に思えた。何かが、いつもの琴巳と違う。

 何がだろうと考える前に、栩麗琇那が虚ろな口ぶりで息子を促した。

「じゃ……御飯に、しよう」

 はぁい、と幼子は楽しそうに父親の空いた手を取る。小さな手を包んで歩いていく皇帝の、思いがけず微笑ましい後ろ姿を柴希は寸時見送った。息子もいいわよねぇ、などと思う。

 サっちゃん、と呼ばれた柴希は、切羽詰まったような声音に、慌てて振り返った。

 琴巳が、声質そのものの表情を浮かべていた。

 柴希は雰囲気に押され、扉を閉めた。親友の傍に歩み寄る。

 肩に手をかけ椅子に座らせると、琴巳は耳を疑う台詞を口にした。

「わたし、家出したいの」

 柴希はたっぷり時を要してから、やっとこさっとこ、はい? と聞き返せた。

 琴巳は、真顔で続けた。

「エンには、もう言ってあるの」

「――ちょ、ちょっと待って――」

 柴希は動転して問うた。「母様家出するからね、って!?」

「お父様に素敵な贈り物をあげたいけど、内緒で用意するには、ここじゃ無理だからって」

 琴巳は、あっさりと言った。「エンにも新しい服を作ってあげるから、しばらくお父様と一緒に楽しみに待っててねって」

 目の前に居るのは琴巳なのかと、柴希は我が目も疑った。たった六年の付き合いではあるけれど、彼女はこうもすらすら嘘を口に出来る人物ではない。そう、確信に近い判断を下していた。

「一体、何が……」

 原因? とまでは言わなくても、琴巳には伝わった。

 琴巳は、感情的にならないよう懸命に抑制を試みている様相で、昨日の昼からの出来事を打ち明けてくれた。

 聞きようによっては惚気話とも受け取れたが、彼女は深刻に、夫から愛され過ぎていることを重く見ている。

 柴希は、栩麗琇那が琴巳と婚約する少々前から彼を知っている。

 苛酷な大気環境の異世界に独りで迷い込んで、彼はただただ琴巳を心の支えにしていたらしい。故に、琴巳は異常に感じる程の彼の過保護ぶりも、柴希には解らないでもない。栩麗琇那にとって、文字通り人生の伴侶なのだ、琴巳は。

 とはいえ、琴巳の言い分も尤もだ。

 状況からして、精霊を呼び戻しておけば済んだことである。何せ術力を封じられているから、現段階、傍に居ても皇子はそれほど琴巳の〝護り〟にはならない。

 しかしあの冷静沈着な帝も、愛妻に起こった突然の異変には、うろたえてしまったのだろう。焦燥から発生したモノを、息子に八つ当たりでぶつけてしまったとしか思えない。

 どうりで琴巳がいつもと違うと思った――皇子を持ち上げて帝を無視してたもんね。あ、帝に覇気が無かったのは、琴巳の態度の所為? もしかして、相当参ってる……?

 これで琴巳が家出をしたりすると、栩麗琇那には駄目押しと言えよう。

 柴希の天秤は、皇帝に傾いた。息子を顧みていないと言っても、これまで、栩麗琇那は父親の務めを果たしている。理想的と言える程に。

 だがしかし。

 琴巳って、こういう真っ当な問題には、やったら頑固なのよねぇ……

 柴希は天井を仰いだ。新しい年に入って早速の難問である。と言うより、妃付きの女官になって初めての難問――否、琴巳と友達になって初めての、かもしれない。

 沈黙している相談相手に、琴巳は切々と訴えてきた。

「家出先は考えてあるの。結婚してすぐの頃、大君(おおきみ)の叔父様が、喧嘩したら来なさいって言ってくれたの。一週間くらい、おいてくれないかしら。一週間もあれば、エンの服も作れるし、琇那さんもちょっとはエンのコト考えてくれると思うのよ」

 柴希は目まぐるしく考える。

「大君が皇妃を世話役代わりになんて、できると思う? それに、大君は新年からとてもお忙しくなるのよ。何より、栩麗琇那様はルウの帝たるお方。このテの件を御自分で片づける前に最高峰に知られるのは、大いなる屈辱だわ」

 琴巳は、さっと顔を赤らめた。

「そか――そうよね――ヤだな、わたし、まだ皇妃の自覚が足りてない」

 その反省は尊いモノね。それに、帝に恥をかかせたいほど怒ってるんでもないんだ。だったら、行き先が何処であろうと、琴巳に出ていかれたら彼が機能するかどうかが怪しいって気づくべきなんだケド。

 柴希は思ったことを口にしかけたが、ハタとしてやめた。この窮状にあっても、栩麗琇那は柴希にとりなしを望まなかった。彼は彼なりに、自分の弱みを見せまいとしているのだ。

 帝は、昔っから意地っ張りなのよねぇ……

 皇子が頑固と意地っ張りを受け継いでいたら難物だ、と柴希は余計な方面にまで思考を巡らす。

 その間に、どうしても家出をしたいらしい琴巳は、次の行き先を見いだしたようだった。異世界人の彼女には、逗留可能な地が限られている。出て来るのに、そうそう時間はかからない。

「サっちゃん、お願い、リィリに連れてって」

 琴巳は、このとおり、と顔の前で両手を合わせた。「わたしの家だったトコ、空き家になってるわ。あそこなら慣れてるから、一人でも平気」

「……琴巳、帝はすぐ捜し出すわ。捜さないわけがないもの。それこそ、皇子をそっちのけで捜すんじゃない?」

「置手紙して行こうと思ってるの。わたしを捜すよりエンを大事にして下さいって」

 これでは、説得は諦めざるを得ない。柴希は仕方無く、その場凌ぎの自己防衛に走った。

「ごめん。わたし、帝のお咎めを受けたくないわ。皇子が震え上がっちゃうホドだもの。わたしは卒倒ものよ?」

「サっちゃんに手伝ってもらったなんて、絶対絶対、言うつもり無い」

「言わなくてもバれるの」

 柴希は肩をすくめた。「後宮には鐘結界が張られているわ。今も、琴巳の周りに見えるのと同じ色の膜が、この区域には張り巡らされてる。つまり、わたしは琴巳を連れて出ることはできるけど、帰って来れないのよ。ここに帰って来た時点で、帝はわたしが出ていたことを知ってしまうわ。で、琴巳が消えてたら、わたし以外に誰が消したって言える?」

 琴巳は、可愛らしい顔を曇らせた。

「そっか……どうしよ……エンに、これ以上嘘はつきたくないのに……」

 呟くような言葉に、柴希は、そうか、と気づく。皇子は、もうすぐ母親が内緒で居なくなると思っているのだ。

 幼子にしてみれば、母の行為は父にちょっとした悪戯を仕掛けている風にも取れる。そう思い込ませるのに、琴巳は見事に成功してしまった。

「風邪がぶり返したことにして、今回の父様への贈り物は違う物にしたって、言うしかないんじゃない?」

 柴希が思いつきで言った言葉が、琴巳に手がかりを与えてしまった。

「風――!」

 琴巳は声をあげた。「ここからは精霊さんが出してくれればいいんだわ!」

「えぇ!?」

 突拍子もない方法に、柴希は目を丸めた。「精霊って、風の? でも、風に触られたら皮膚が裂けるわ。無理――」

〈わしは知っておるよ。人間の飛ばし方〉

 不意に、第三者の声が割り込んだ。柴希が慌てて意識を集中すると、気配が近寄って来た。窓の閉まった室内にそよ風が起こり、半透明の淡い姿が現れる。〈簡単だ。くるんでから、下から上に加減して吹き上げればいい〉

 琴巳が、期待する目つきで精霊を見た。

「貴男は、年の瀬からわたしの傍に居てくれてる精霊さん?」

〈無論〉

 精霊の気紛れな参画で親友の家出が実現しては困るので、柴希は口を挟んだ。

「結局、誰が外に出したとしても同じこと。風も責を問われるでしょう。守護の(めい)を受けておいて、その対象が消えでもしたら――」

〈なに、今のうちなら平気じゃ。帝は今、わしが外に出ていると思っている〉

「馬鹿な――」

〈つい先程、呼ぶまで自由にしていろと言いおった。そなたがついたからだろう〉

 精霊は乗り気になっているらしく、滔々と言った。〈皇妃が家出したいと言い出したところまで、わしはここに居たものでな。自由にしろと言われたものの、そなたらの話の展開が気になって外に出なんだ。されば、わしは、皇妃を出してから、帝に呼ばれるまで後宮に入らなければいいわけだろう? わしは責を逃れられる〉

「わ、わ――ありばい成立」

 異世界語らしき単語を、琴巳は興奮しているのか早口で口にした。「サっちゃん、これからすぐ宮殿を出て、そのあと、外に出たわたしを大陸まで連れて行ってくれれば、琇那さんには気づかれないわ!」

 とんでもないことに、琴巳の願いは実現へと動き出してしまった。

 一連托生になってしまった柴希にできるのは、親友に念を押すことのみだった。遅くとも一週間後には帰って来る事。蒼杜には事情を詳らかにしておく事。連絡無しに居場所を変えない事。

「――後、病み上がりなんだから、充分、健康管理するのよ?」

 琴巳は神妙な顔つきでいちいち頷いてから、きゅっと抱きついてきた。

「ありがと――嫌なことさせて、ごめんなさい」

 このコのこういうトコに、めっちゃくちゃ弱いのよねぇ、わたし。

 柴希は心の中で自嘲しつつ、親友の背中をぽんぽんと叩いた。

 琴巳は手早く着替え等の荷物をまとめると、三通の文を書いた。二通は柴希が預り、精霊を加えた三者は寝室を出る。

 琴巳と精霊は中庭に出た。皇妃は、以前にも精霊に飛ばされたことがあるかのように、無言で雪の無い場所を選ぶと荷物を胸に抱え、しゃがみ込む。

 では行くぞ、と言う精霊の合図の後、打ち上げ花火よろしく、見事に突風に吹き上げられた。ぽーんと中天高くまで上がったかと思う間に、弧を描いて視界から消える。

 あんぐりと口を開け、柴希は見送った。自分は飛べるから、あんな飛行は考えもしなかった。きっと、さしもの栩麗琇那も思いつくまい。

 ややの間、感嘆に近い感想を抱いていた柴希は、ハタと自分の役目に移った。素知らぬフリをして帝に(いとま)を告げ、皇子に手紙の一通を託す。

 宮殿を出ると、皇子から受け取った料理の包みを持ったまま、幽閉の塔まで急いだ。琴巳は夫君から聞いていたのか、都の郊外にそれが在ることを知っていた。ルウの民は誰しも、普通は近づきたがらない場所。

 塔の裏手の木陰から、無事に着地していた琴巳が駆け寄ってきた。風の精霊は、柴希が退殿したからだろう、入れ違いに呼ばれて戻っていったという。精霊が宮殿に戻れば琴巳の出奔は露顕するが、家出自体は半ば成功だ。

 もはや完全に成功させるしかなく、柴希は親友の手を取ると、昼のメイフェス島から夜のリィリ共和国へと瞬間移動した。

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