43 門
エンは、緑の色が濃い木の間を走っていた。
五歳課程最後の日、学舎の訓練場で皆が将来の夢を語った時、いずれそれぞれの道を行くのだと、漠然と察した。
エンの道は、皇帝で。
望んでもいないのに、自分だけ、そんな責任重大な道を進まねばならない。
個々が、孤になる恐怖を感じた。
それでも、幼馴染みが居てくれるから。そう思えばこそ、先の見えぬ暗闇を彷徨う勇気も持てたのだけれど。
ツバメにも道があったことを、どうして失念していたのか。
あんなにも代えがたい相手のことを、自分は結局、何だと思っていたのか。
いつも助けてくれる都合のいい存在だと、思ってはいなかったか。
鬱蒼とした中を、もうどれくらい彷徨っただろう。リィリの森にやや似ているが、緑が深い。
視線を巡らせたら、足がもつれ、転んでしまった。
長袴の膝に血が染み出す。
転ばないようにね、と見送ってくれた姿が蘇った。
痛いよ……母上……
新たに涙が滲んだが、エンは服の袖で拭い、身を起こした。
ふと、水音に気づく。
傷を洗っておこうか。
音を頼りに、じんじんする足を引きずる。
次第に下草が増えてきた。
茂みを避けようとしたら、草が道を開くように動いた。
果ての地では普通にあることなのだろうか。
少々気味が悪かったが、もし足を止めてしまったら、再び動かす気力が湧きそうになかった。
そのまま足を進めると、視界が開けた。
目の前に小さな泉が在る。
水が、素晴らしい透明度だった。
血で汚すのは憚られ、ちょっとだけ手ですくう。
「怪我をしてるの?」
薄い硝子を優しく鳴らすような声だった。
エンが慌てて目を上げると、泉の畔にいつの間にか女の子が立っていた。裾に可愛らしい刺繍の入った、生成りの包衣を着ている。
同い年か、一つ二つ年上に見えた。白い肌、細い手足。長い真っ直ぐな茶色の髪、きらきらした琥珀色の瞳、小さな鼻、桃色の唇。
年も色も造作も違うが、何よりも雰囲気が、母のようだった。
「タハーラ……?」
「そうね」
頷いてから、女の子は円らな目を軽く瞬かせた。「貴男、わたしのお友達に、とても似てるわ」
「……え?」
戸惑う間に、タハーラは包み込んできた。薄荷に似た爽やかな香がする。傷から、痛みが消えていく。
「この葉っぱを巻いておくといいわ」
大きめの柔らかい葉を手渡され、どぎまぎしながら、ありがと、とエンは礼を言う。
言われた通りに袴の裾をめくって葉を膝に宛がっていたら、近くで茂みが揺れた。臙脂色の上着を手にした、もう一人のエンが現れる。
ツバメ――
あ、とタハーラが嬉しそうな顔になった。
「目が覚めたのね」
鏡に映ったような顔が、タハーラを見て当惑気味になる。よく判らないが、少女神にはエンとツバメの見分けが完璧にできているようだ。
ツバメは、人形の身体に早くも馴染んでいるのか、自然な動作でこちらに歩み寄ってきた。
「身体がこうも重いとは思わなかった。それに暑い」
言いながら、ツバメは上着を突き出してくる。
もはや、いくら泣こうがごねようが、互いの道を進み始めたのだと悟った。
エンが渋々上着を受け取ったところへ、使い神の二人も姿を見せる。タハーラは母の風情そのもので、楽しそうに一同を見回した。
「お客様が来たんですね」
オク・マールが、そう、とにっこりする。
「そちらの臙脂の服の子だよ。燕・ラル・ルウ」
「お客様だったのね」
はじめまして、とだけ、エンは改めて挨拶した。タハーラはあどけなく頬を緩める。
「で、こちらはだね……」
オク・マールは黒髪をちょっと掻いて、ツバメを見た。カー・ウージは愛神の使い神に黙って横目を流す。タハーラが小首を傾げた。
ツバメでしょ、とエンが口を開きかけたら、同じ顔が半眼を閉じた。
「名前は無いよ」
そこまで拒絶されてしまったのかと、エンはうつむく。
横で、快い音が笑った。
「素敵ね。じゃあ、好きな名前が名乗れるのね」
「――うん」
幼馴染みも笑みを含んだ声で応じる。エンが顔を上げると幼い二人は笑い合っていた。
ツバメが、こちらを見てニヤリとした。
「決めた。エンにする」
「好きな名前?」
「そう」
明るい二人のやり取りに、エンは鼻の奥がツンとして、泣き笑いを浮かべた。
その後、使い神の案内で果ての地を治めている流帝の所へ導かれ、エンとツバメは茶を振る舞われた。
銀髪の優美な流帝は緑眼を穏やかに細め、楽しく過ごすといい、と果ての地で暮らすことになったツバメに歓迎の言葉をくれた。
そうしてエンは一人、外の世界へ戻ることになった。
流帝が指先を大地に寄せたら、するすると草が絡まりながら生え始めた。根元は少し太くなっていき、やがて上で虹のように曲がり、門のような形になっていく。
エンが切なく眺める横で、ツバメは使い神に紙と筆記具を頼んでいた。すぐに提供された上質の紙に、何か走り書きしていく。数字に見えたので、エンは己に無関係と察し、後は門の完成を見届けた。
名残惜しかったけれど、エンは丸太の席を立つ。
あまり評判は良くないようだったが、父から教わっておいた暇の挨拶を告げた。
並んで見送ってくれる使い神や流帝に、額に両手を掲げて一礼する。
一心に書き物をしていたツバメが、やっと竹筆を置いた。墨を乾かすように紙を振りながら、足早に近づいてくる。
「同じ翠界で生きてくって忘れるな」
やにわにそう言いながら、ツバメは紙を押し付けてきた。「つまり、これからも一緒だ。まぁ、もしこれが解けたら、来ればいい」
カー・ウージが、瞠目した。
「いつの間に――」
「最期の光景かもしれなかったモノを忘れるものか」
ツバメが不敵に笑い、エンは手元を見返す。数行に渡って数式が書かれていた。
しょうがないと言いたげに、使い神達は肩をすくめた。
目頭が熱くなるのを振り切りたくて、エンは口を引き結び、草の門へ足を向けた。
一度だけ振り返り、かけがえの無い姿を瞼の裏に焼き付ける。
同じ姿形だけれど、すぐ傍で凛と前を向き、真摯に生きていた姿――
幼子は、門をくぐった。
そこは、まだ夜だった。
〈お、戻ったな〉
闇の中で、一般的な精霊の、微震する声が起こる。〈そこにおるのだぞ、迎えを呼んでくるからな〉
首肯すれば、ひゅっと一陣の風が吹き過ぎる。
春先の夜の砂漠は、冴えた空気の中に在った。
手に残った紙の文字をそっと押さえ、墨が乾いているのを確かめる。丁寧に畳み、懐におさめた。
一つ息を吐き出し何気なく上向けば、降るような無数の星が見守ってくれていた。
赤い星、青い星、白い星、黄色い星……静かに光っているものもあれば、ちかちかと瞬いているものもある。
知らず息をひそめて仰ぎ続けている間に、幾筋か星が輝き流れる。
涙は、もう流れなかった。




