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燕二人  作者: K+
六暦622
44/45

43 門

 エンは、緑の色が濃い木の(あいだ)を走っていた。

 五歳課程最後の日、学舎の訓練場で皆が将来の夢を語った時、いずれそれぞれの道を行くのだと、漠然と察した。

 エンの道は、皇帝で。

 望んでもいないのに、自分だけ、そんな責任重大な道を進まねばならない。

 個々が、孤になる恐怖を感じた。

 それでも、幼馴染みが居てくれるから。そう思えばこそ、先の見えぬ暗闇を彷徨う勇気も持てたのだけれど。

 ツバメにも道があったことを、どうして失念していたのか。

 あんなにも代えがたい相手のことを、自分は結局、何だと思っていたのか。

 いつも助けてくれる都合のいい存在だと、思ってはいなかったか。

 鬱蒼とした中を、もうどれくらい彷徨っただろう。リィリの森にやや似ているが、緑が深い。

 視線を巡らせたら、足がもつれ、転んでしまった。

 長袴の膝に血が染み出す。

 転ばないようにね、と見送ってくれた姿が蘇った。

 痛いよ……母上……

 新たに涙が滲んだが、エンは服の袖で拭い、身を起こした。

 ふと、水音に気づく。

 傷を洗っておこうか。

 音を頼りに、じんじんする足を引きずる。

 次第に下草が増えてきた。

 茂みを避けようとしたら、草が道を開くように動いた。

 果ての地では普通にあることなのだろうか。

 少々気味が悪かったが、もし足を止めてしまったら、再び動かす気力が湧きそうになかった。

 そのまま足を進めると、視界が開けた。

 目の前に小さな泉が在る。

 水が、素晴らしい透明度だった。

 血で汚すのは憚られ、ちょっとだけ手ですくう。

「怪我をしてるの?」

 薄い硝子を優しく鳴らすような声だった。

 エンが慌てて目を上げると、泉の畔にいつの間にか女の子が立っていた。裾に可愛らしい刺繍の入った、生成りの包衣を着ている。

 同い年か、一つ二つ年上に見えた。白い肌、細い手足。長い真っ直ぐな茶色の髪、きらきらした琥珀色の瞳、小さな鼻、桃色の唇。

 年も色も造作も違うが、何よりも雰囲気が、母のようだった。

「タハーラ……?」

「そうね」

 頷いてから、女の子は円らな目を軽く瞬かせた。「貴男、わたしのお友達に、とても似てるわ」

「……え?」

 戸惑う()に、タハーラは包み込んできた。薄荷に似た爽やかな香がする。傷から、痛みが消えていく。

「この葉っぱを巻いておくといいわ」

 大きめの柔らかい葉を手渡され、どぎまぎしながら、ありがと、とエンは礼を言う。

 言われた通りに袴の裾をめくって葉を膝に宛がっていたら、近くで茂みが揺れた。臙脂色の上着を手にした、もう一人のエンが現れる。

 ツバメ――

 あ、とタハーラが嬉しそうな顔になった。

「目が覚めたのね」

 鏡に映ったような顔が、タハーラを見て当惑気味になる。よく判らないが、少女神にはエンとツバメの見分けが完璧にできているようだ。

 ツバメは、人形の身体に早くも馴染んでいるのか、自然な動作でこちらに歩み寄ってきた。

「身体がこうも重いとは思わなかった。それに暑い」

 言いながら、ツバメは上着を突き出してくる。

 もはや、いくら泣こうがごねようが、互いの道を進み始めたのだと悟った。

 エンが渋々上着を受け取ったところへ、使い(がみ)の二人も姿を見せる。タハーラは母の風情そのもので、楽しそうに一同を見回した。

「お客様が来たんですね」

 オク・マールが、そう、とにっこりする。

「そちらの臙脂の服の子だよ。燕・ラル・ルウ」

「お客様だったのね」

 はじめまして、とだけ、エンは改めて挨拶した。タハーラはあどけなく頬を緩める。

「で、こちらはだね……」

 オク・マールは黒髪をちょっと掻いて、ツバメを見た。カー・ウージは愛神の使い神に黙って横目を流す。タハーラが小首を傾げた。

 ツバメでしょ、とエンが口を開きかけたら、同じ顔が半眼を閉じた。

「名前は無いよ」

 そこまで拒絶されてしまったのかと、エンはうつむく。

 横で、快い音が笑った。

「素敵ね。じゃあ、好きな名前が名乗れるのね」

「――うん」

 幼馴染みも笑みを含んだ声で応じる。エンが顔を上げると幼い二人は笑い合っていた。

 ツバメが、こちらを見てニヤリとした。

「決めた。エンにする」

「好きな名前?」

「そう」

 明るい二人のやり取りに、エンは鼻の奥がツンとして、泣き笑いを浮かべた。


 その後、使い神の案内で果ての地を治めている流帝(るてい)の所へ導かれ、エンとツバメは茶を振る舞われた。

 銀髪の優美な流帝は緑眼を穏やかに細め、楽しく過ごすといい、と果ての地で暮らすことになったツバメに歓迎の言葉をくれた。



 そうしてエンは一人、外の世界へ戻ることになった。

 流帝が指先を大地に寄せたら、するすると草が絡まりながら生え始めた。根元は少し太くなっていき、やがて上で虹のように曲がり、門のような形になっていく。

 エンが切なく眺める横で、ツバメは使い神に紙と筆記具を頼んでいた。すぐに提供された上質の紙に、何か走り書きしていく。数字に見えたので、エンは己に無関係と察し、後は門の完成を見届けた。

 名残惜しかったけれど、エンは丸太の席を立つ。

 あまり評判は良くないようだったが、父から教わっておいた(いとま)の挨拶を告げた。

 並んで見送ってくれる使い神や流帝に、額に両手を掲げて一礼する。

 一心に書き物をしていたツバメが、やっと竹筆を置いた。墨を乾かすように紙を振りながら、足早に近づいてくる。

「同じ翠界で生きてくって忘れるな」

 やにわにそう言いながら、ツバメは紙を押し付けてきた。「つまり、これからも一緒だ。まぁ、もしこれが解けたら、来ればいい」

 カー・ウージが、瞠目した。

「いつの間に――」

「最期の光景かもしれなかったモノを忘れるものか」

 ツバメが不敵に笑い、エンは手元を見返す。数行に渡って数式が書かれていた。

 しょうがないと言いたげに、使い神達は肩をすくめた。


 目頭が熱くなるのを振り切りたくて、エンは口を引き結び、草の門へ足を向けた。

 一度だけ振り返り、かけがえの無い姿を瞼の裏に焼き付ける。

 同じ姿形だけれど、すぐ傍で凛と前を向き、真摯に生きていた姿――

 幼子は、門をくぐった。



 そこは、まだ夜だった。

〈お、戻ったな〉

 闇の中で、一般的な精霊の、微震する声が起こる。〈そこにおるのだぞ、迎えを呼んでくるからな〉

 首肯すれば、ひゅっと一陣の風が吹き過ぎる。

 春先の夜の砂漠は、冴えた空気の中に在った。

 手に残った紙の文字をそっと押さえ、墨が乾いているのを確かめる。丁寧に畳み、懐におさめた。

 一つ息を吐き出し何気なく(うわ)向けば、降るような無数の星が見守ってくれていた。

 赤い星、青い星、白い星、黄色い星……静かに光っているものもあれば、ちかちかと瞬いているものもある。

 知らず息をひそめて仰ぎ続けている間に、幾筋か星が輝き流れる。

 涙は、もう流れなかった。

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