42 果ての地
短いようでいて、無為に過ごせば長く。一日一日が過ぎて行った。
辛うじて、生き延びている。
ただ、もう〝外〟へ出られなかった。
夜、幾度呼ばれても。
その名前、返さないと……
思うけれど、力が入らない。
昨晩も、皇子は己が名を絞り出すように繰り返し、長い間、声を殺して泣いていた。
今月の学舎での成績は散々だ。
こんな調子じゃ、また出来損ないと言われかねないだろうに。
発破をかけることさえ、できなくなってしまった。
春分の朝、エンは母が起こしに来る前に自室を出た。
瞼が少々腫れてしまっている。何とかしないと、心配させてしまう。
洗面所で何度か顔を洗って、ようやく寝惚けまなこぐらいになった。
ぽたぽたと水の滴る顔を鏡に見て、エンは鼻を啜る。
ツバメは、こんな情けない表情をしていたことは一度も無かった。
ぐいぐい顔を拭い、エンは奥歯を噛み締める。
ラル家の皇子らしくして、幼馴染みの行きたがっていた所へ行かなければ。
ちゃんと、行かなければ。
その一念だけで、今日を迎えた。
果ての地は動いているそうだ。
たまに大陸やメイフェス島に重なって、入口が開くのだという。
その入口の前まで、両親と柴希がついて来てくれることになっていた。
いつも学舎へ出かける辺りの時刻に、エン達は瞬間移動で後宮を発った。
先ずはメイフェス島の南西に在る始祖の島に降り立つ。この島は大君の大叔父の住まいだ。
平屋根の白く四角い建物の中に入ると、中年の男性が出迎えてきた。その案内で、芝の植わった大きな庭を囲む回廊を進む。庭に面して壁は無く、円柱が等間隔で並んでいた。
庭には人の大きな石像が六体、対談でもしているように配されていた。横目で見る間に、一室に通される。
応接間のような部屋には、見知らぬ先客が二人居た。
成人したばかりだろうか。それにしては、堂々とした印象を醸す少年と少女だった。
少女の方が、お年寄りのように真っ白な髪だったからかもしれない。姿勢良く椅子に腰かけ、机に向いて何か見ているようだった。
横で佇む黒髪の少年がこちらを見て、落ち着いた声音で、やぁ、と発した。
父が、すいと両手で一つの拳を作ると額に掲げる。ルウの民の正礼を父がする相手と言えば大君にだけだったので、エンは面食らった。面食らったが、真似をする。
エンの隣では、母も柴希も祈るように同じ仕種をしていた。案内をしてくれた男性も同様だ。
男性は更なる一礼の後、部屋を出ていく。
扉の閉まる小さな物音が消えると、少年が再び口を開いた。
「もう少しで入口が判るからね」
父が白髪の少女に配慮するように、抑えた声で問うた。
「使い神も直接には行けないのですか」
エンは口を開けそうになったのを辛うじてとどめ、少年を見上げる。様々な書物に載っている大陸神が、目の前に……?
うん、と気さくな口調で少年は応じた。
「毎回、計算をして、入口の場所を割り出してるんだよ」
言われてまじまじと見やれば、白髪の少女は文字のびっしり書かれた紙に目を落としているのだった。片手の指が、十露盤を弾いているかのように動いている。
少年に手招きされ、エンは近寄って覗かせてもらう。目眩を起こしそうな数式が、数行に渡って書かれていた。
こんな問題を作る人も作る人だし、解こうと思う人も酔狂だ。
こっそりとそんな感想をエンは持ったけれど、少女は解こうと思った上に、解いてしまったようだった。
「皇領ティカ地区のようだ」
どれどれ、と少年が机上に畳んであった大判の紙を広げる。大陸の地図らしい。緯度と経度なのか、数字を少女が告げる。
「そうだね。砂漠の只中だね」
少年が確認すると、母が不安そうな表情になる。
見て取ったのか、父がぽんと母の背を叩いた。
「大丈夫だ」
果ての地は数日同じ場所に入口が在り、少しの時間滞在する分には、出口も同じ場所になるそうだ。
エンは果ての地を辞去したら、その場に居るようにと言われていた。そうすれば、柴希か父が迎えに来てくれることになっている。
では行こう、と少年が足取り軽く部屋を出る。一同は回廊に出て、別な一室に入った。石の階段を降りて、地下に行く。
広間のような場所に、瞬間移動の魔法陣があった。術力の無い人や、大勢が移動する時には便利な陣だ。
四角い石の台座の上に、ぼんやりと術の光で文様が浮かび上がっている。使い神の少年が、ポッと指先を光らせると、術力で何かをかき足した。
使い神は六人居る筈で、男女三人ずつ。白髪の少女は恐らくユタ・カーの使い神、カー・ウージ。
黒髪が青味がかっているということは、少年はウル・ラ・カーの使い神、オク・マールだろうか。
清浄の女神と仲がいいんだっけ……?
ツバメから教わったことが思い出されて、エンは急に胸が詰まる。
目頭が熱くなるのをこらえ、使い神二人に続き、父と手を繋いでエンは魔法陣に踏み込んだ。
陣移動は陣から陣への筈だったが、現れたのは開けた場所だった。
父に手を引かれて数歩ずれれば、母と柴希の二人も続いて来る。
辺りは、ひんやりとした闇の中だった。足元の沈み込む感覚は砂と思う。
さっき割り出したティカ地区の砂漠に、直接来たらしい。
目が慣れてくると、薄白く砂地が延々と広がっているのが判ってきた。本当に砂漠の只中だ。
そこだね、と少年が地の一点を指した。
よくよく見ると、そこだけ風が吹いても砂が動かないようだ。
「じゃあ、皇子はちゃんと帰すから、安心しておくれ」
少年が大人達を見て、ほのりと笑む。エンは顎を引いた。
「いってきます」
「失礼の無いように」
「気をつけてね。転ばないようにね」
父母が相次いで言う。
エンは乾いた砂漠の空気を一つ吸い込み、ソコヘ踏み出した。
ピィ――ッと、甲高い鳥の声がした。
夜の砂漠よりは明るかったが、視界は翳っていた。空気が湿りを帯びた物に変わっている。
辺りには、恐ろしく太く巨大な、灰色の柱が無秩序に立っていた。よく見ると、それは木。ずっと上空に向けて枝葉を伸ばしている。
地に転がっている柱かと思った物は広がる根で、大人でも両腕で抱え込めそうにない太さだ。落ちている木の葉は、布団より大きく思えた。
エンが呆然と立ち尽くす間に、派手な色の何かが飛び跳ねながら向かってきた。ソレは大きくない。子供のように見える。
最後にひときわ跳躍し、子供はエンと二人の使い神の足元に着地した。高い声で断定する。
「迷ったね、迷ったね」
蜜柑色の編み帽子を、割合目深に被っている。お蔭で眉が判別できず、緑色のどんぐり眼が目立っていた。少しの睫毛は深緑色。鼻の上向いた、よく日に焼けた少し年上の男の子に見えた。十歳前後か。
冬物みたいな帽子を被っているのに、小麦色の半身は裸で、毛皮製らしき黒い短袴に、やはり蜜柑色の足首丈の靴を履いている。奇抜な出で立ちだった。
「迷ってないよ、ダク」
オク・マールが、口の片端に笑みを浮かべつつ言った。露骨に男の子は不満そうな顔をする。
「つまらない人間」
言い捨てると、男の子はくるんととんぼ返りした。ぱっと消える。
カー・ウージが、相変わらずだな、と評しつつ、エンの腕を取った。歩き始める。
途端、碧界の車にでも乗ったかのように、灰色主体の景色が物凄い速度で後ろへ流れた。
十数歩だったかと思う。
ぱっと視界が鮮やかになる。灰色だった場所から一変し、大陸やメイフェスと変わらぬ大きさの花が咲く、緑の草地が広がっていた。
春分になったばかりだったが、色も豊富に花々は競い咲いていた。柔らかく甘い香が揺れている。
入口は翳っていて時間が判別しがたかったが、この草地には日の光が差し、昼間のようだった。
目まぐるしい景色の変わりように、エンは驚くことしかできない。けれど少しでも、いろんなモノを見たかった。
ツバメが来たがっていた場所――
さっきの薄暗い森はどうかと思うが、ここなら納得だ。とても綺麗な所だった。
エンが顔を巡らせていると、さて、とオク・マールが言った。
「先に何だっけ――何かの薬の瓶があるんだっけ」
カー・ウージがぼそりと、浄化薬と媚薬、と言う。エンはハタとして、預かっていた小瓶の包みを懐から出す。
皇子として頑張って謝罪の文言を練習してきたのだが、使い神少年は砕けた様子で、ソレソレ、と手をひらひらさせる。エンは逡巡したものの、練習してきた通りに言った。
「ルウの民としてお恥ずかしい限りです。重ね重ね申し訳ないのですが、浄化薬は盗人が瓶ごと消失させてしまいました。どうか媚薬のみで御容赦ください」
使い神二人が、並んで見下ろしてくる。少年は可笑しそうに。少女は軽く口を曲げて。
「栩麗琇那はもう少し子供らしい台本を用意できなかったのか。物凄い違和感だ」
「そうかい? 蒼杜辺りは、この年頃で言ってのけたと思うね」
評価が二分している中、エンは上目づかいに包みを差し出す。
鷹揚にオク・マールが受け取った。後で持ち主に返しておくよ、と青い目を細める。
「で、そろそろ出れるんじゃないかと思うんだよ、君の兄弟」
何でも無いことのように唐突に話題にされて、エンは反応が遅れた。え、と声は出せずに吐息だけ漏れる。
ツバメのこと……?
カー・ウージが、少し行った先で屈み込んだ。草の陰から誰かを抱き起こすようにする。
誰か判った時、エンは我を忘れた。
「ツバメ――っ!?」
駆け寄り、エンは連呼した。「ツバメ――ツバメ、大丈夫? ツバメっ」
今日は最後に見た時のように透けていなかった。自分がぐったりしているかのようだ。
「同じ名前を名乗っていたのかい? ややこしいことをしていたもんだね」
少年の声が遠く聞こえる。エンはいつの間にか泣いていた。泣きながら幼馴染みに縋っていた。
触れる身体がひんやりしていて、夢中で正装の上着を脱いで着せかける。
淡々と、オク・マールが続けた。
「ぎりぎり間に合ったのは判っている。果ての地は精霊に適した大気だ。大丈夫だから出ておいで。皇子が心配してるじゃないか」
ゆらっと、傍らに淡く影が差した。エンは目の端に映った姿にぎょっとして顔を向ける。薄い姿のままのツバメが立っていた。
じゃ、こっちは誰――!?
上着を掛けたばかりの瓜二つの存在と隣を見比べ、エンは今し方現れた幼馴染みの方に後ずさる。
薄いツバメは、エンと並んで唇を軽く噛んだ。噛み締めるように問を発する。
「精霊……?」
そう、とオク・マールは頷いた。
「わたしよりもウージから聞いてみておくれ。わたしは未だに、君が何なのかいまいちだ」
わたしも仮定でしか語れないが、とカー・ウージは横たわる子供の傍らに座り込む。
「そなたは、元々六核精霊として誕生したのだろう。産みの親は琴巳ではない。栩麗琇那だ」
ツバメの表情が強張る。
膝元で咲いている花を撫でつつ、勘違いしてはいけないのは、と少女は台詞を続けた。
「意図してのことではない。あまりにも皇子の潜在術力が高かった為に、封印できたものの、副産物として誕生してしまったのだ。我が子の内に六核精霊を精製してしまったなんて、当人は気づいていないと思う。正規の術式に則ったものではないしな」
エンは、そんな変てこな話はどうでも良かったのだけれど、ツバメがひとまずしっかりと立っているし、何も言えずに隣に居るしかなかった。
ユタ・カーの使い神は、知的な眼差しをツバメに向けた。
「そなたは聡いようなので、これで大よそ解ったのではないか」
父のような色合いになってしまっている睫毛を震わせ、ツバメは目を落とした。
「封印が解けるごと、核が減っていたわけか」
「そなたは今や、三核精霊になってしまった」
カー・ウージは生温かい風に流れた白髪を払う。「普通の三核精霊なら半日で大気に還るが、非常に丈夫な人間の内に核が在った為か、そなたは今日までもった」
不穏な内容にエンはツバメを見つめる。銀に近い瞳が力無く見返してきた前で、オク・マールが会話に戻ってきた。
「まぁ、君は精霊と精霊級の中間みたいなモノなのかな。翠界初の稀有な存在だ。このまま皇子の一部に戻ってしまうのは惜しい。それで、わたし達は新しく核を作ってみたわけだよ」
エンとツバメは同時に、横たわっている存在を見た。
作った――? 人形ということ――?
「ゼンの傑作だ。ほぼ精霊の君が動かせる肉体。精霊に近い精霊級の極限型」
「そちらの身体に入ったら、もう精霊のように核に籠もることはできないし、術力も消えよう。でも、そなたはこの地でなら、人間として生を全うできる筈だ」
使い神二人が口々に言う。
ツバメが前に出かけたので、エンは咄嗟に肘の辺りを掴む。透けているから貫通してしまうかと思ったものの、引き止められた。
「よく――よく解んないけど、僕の術力を封印すればいいんでしょ。そうすれば、ツバメ、また元気になるんでしょ」
「ソレに入っても元気になれるみたいだ」
ツバメは冷たい言い方をした。「やっと自由になれるかもしれない」
どきりとして、エンは口が歪む。
「僕が縛ってたって言うの……?」
「今聞いただろ。お前の所為で生まれて、お前の所為で好きに動くこともできずに、挙句消えかけた。正直、もう駄目だと諦めてた」
これまでも、皮肉混じりにそんな意味合いのことを言われた気もする。だが、ここまではっきりと言葉にされたのは初めてだった。
愕然としたエンの手から、ツバメは腕を抜く。
他に誰かが居る所では泣くまいとしてきたのに、果ての地では抑えが利かなかった。
「僕は、ずっと、一緒、に、居られると、思って……」
「無理に決まってる。こっちは何もできないのに、お前ばかりが毎日を楽しむ様を、今後も見続けていけって言うのか」
「そんなこと、言ってない……っ」
そんなつもりで言ってない。
けれど、ツバメの言う通りなのだと心の隅が理解していて。そんな日々を大事な存在に強いていたのだと解って。得体の知れない人形の中に入らないと、生き残れない状態にしてしまって。
泣きじゃくるしかないエンに、ツバメはとどめのように付け加えた。
「そもそも皇子のくせに、術力を封じればいいって寝言か? 寝てから言えよ」
「寝てない――起きてる――っ。ツバメ、馬鹿馬鹿っ」
居たたまれなくなって、エンは泣き声をあげると駆け出した。
小さな姿が木陰に見えなくなり、使い神の少年少女は、残った儚い存在に目を戻す。
幼子は、横たわっている器から目を上げ、二人の視線を受け止めた。
「何だかんだ言っても単なる精霊なんでしょ。果ての地でただ生かす為に、こんなモノまで用意してくれたとは思えません。その中に入るとしても、どんな代償を払わねばならないのか、聞いておきたいんですが」
大人びた幼児に、立ち上がりながらカー・ウージは白い歯をこぼす。
「そなたは精霊でなく、精霊級になってほしいのだ。果ての地の或る泉は邪を浄化し術力に還元する役割を担っているのだが、精霊級の手を経ると浄化力が増す。昨今は、増した状態でないと浄化しきれなくなっている次第だ」
オク・マールが、皇子の走っていった方へ再度目を投げつつ言った。
「要するに、タハーラの助手をしてほしいのさ。三代目の新米が、一人で頑張っているからね」
神妙な面持ちで聞く幼子は、ふと、ぐらりと身体を傾ける。あぁ、と少年は苦笑した。「核に引っ張られてるね。随分遠くまで走ってるな、皇子は」
幼子は引かれるように足をよろめかせつつ、眉を寄せた。
「ここ、危険は無いですよね?」
「うん、まぁ。件の泉の方角に行ったし、大丈夫だよ」
愛神の使い神は目を細める。「さっきのは荒療治だったね。早く仲直りするといい」
カー・ウージが抱き起こす器に手を差しのべ、幼子はさばさばした様相で笑んだ。
「あいつ、お人好しだから、あれぐらい言わないと解らないんだもの」




