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燕二人  作者: K+
六暦622
41/45

40 一夜明けて

 翌朝も雨が降り続いていた。

 雨合羽を羽織って、エンは普段と変わり無い時刻に初級学舎の門をくぐった。

 雨天だし、教官の塗江(ぬえ)も来ないだろうし、一科の魔術は訓練場では行わないだろう。校舎へ向かう。

 教室に入ると、いつもの席に星花(ほしか)が居た。その後ろに頼里(らいり)

 エンが向かうと、さほどせず星花が気づいた。おはよう、と三人で挨拶を交わす。

 頼里の机の上には、束ねられた数枚の紙があった。星花はエンが隣に座ると、それを示し、自慢げに言った。

「燕君も後で感想聞かせて。わたし、史学の課題が終わったの」

「わぁ、いいなぁ」

 雨合羽を椅子の背に掛け、エンは額をちょっと掻いた。「僕、調べ始めたばっかりだよ」

 頼里が、少し顔を傾けた。

「幽閉の塔?」

「よく分かったね」

 エンが目を見張ると、頼里は淡々と応じた。

「叔父貴が、昨日、皇子(みこ)があそこで木を倒したそうだから見に行ったと言ってた」

 星花が目を丸めてこちらを見た。

「そんな気味悪そうな所で、なんで木こり?」

「う、うんと……ちょっと塔を見に行くつもりだったんだけど……たまたま、術力が早めに身についてきちゃったみたいで……」

 しどろもどろにエンが応えていると、尾久(おく)が登校してきた。手拭で頭を拭きながら、いそいそとエンの後ろの席に納まる。

 おはよ、と口早に言ってから、くしゃくしゃの髪をそのままに、尾久は窺うようにこちらを見た。

「朝一の告知板、父様に読んでもらったんだ。皇妃は大丈夫なの?」

 その台詞で、星花が身を乗り出してきた。

「何かあったの?」

「塗江教官が皇妃を攫おうとしたんだって」

「えっ、なんで」

 星花は訊いてすぐ、勢い込んで言った。「あっ、解った、皇妃様がとっても綺麗だったからでしょっ」

 父様もそんなようなことを言ってたけどね、と尾久はそばかすを擦った。そんなことで……? と頼里は曖昧な表情で首を傾げる。

 エンは、その方がいい、と思った。

 塗江は綺麗な花が欲しかったのだ、と考える方が。


 あの時――左手が輝いた途端、エンは指先に何かが突き刺さったかのような錯覚があった。生まれて初めて味わった、強烈な痛みだった。それが瞬く間に全身に伝わり、その後の記憶が無い。気を失ってしまったようだ。

 今朝、母に起こされた時には、自分の部屋の寝台に居た。目を覚ましたエンに、両親はあれからあったことなどを話してくれた。

 あの場に居た全員、無事だった事。

 エンの手が光ったのは、予想より早めに術力が身についたからだという事。

 塗江教官は、心の病気だったらしい事。

『碧界を邪界だと思い込んじゃう病?』

 エンが問うと、あぁ、と父は呟くように応じた。


「で、そんな大それたことをしでかした塗江教官は、ちゃんと退治したのね?」

 星花の質問に、尾久が答えた。

「勿論。塔送りだって」

「そっか。良かった」

 星花は、ほっとした様子で息をつく。エンの脳裏に、かの黒い塔が浮かんだ。

 木々の合間から垣間見た姿は、思いのほか低く、小さかった。それが一層、不吉な印象となって記憶に残っている。

 思えば、塗江は何故、あの場所に母を連れてきたのか。

 大陸に無く、ルウの民の島にだけある幽閉の塔。あそこには、罪人というより、ルウでなくなった人が居るのではないか。以前、塔へ送られた人々も然り。ルウとしての誇りを捨てた人が集うのだ。

 そんな場所へ、自分から出かけてしまった。

 エンは冷や汗を知覚した。遅かれ早かれ熟知しなきゃならない、とツバメは言っていた。課題も終わっていない。けれどもう、二度とあの塔には近づきたくなかった。

 頼里が、気懸かりそうな目を向けてきた。

「皇子、もしかして、皇妃の具合、良くないの?」

「ううん」

 エンは焦って首を振った。母は泣いたのか目が赤かったけれど、具合が悪いようでは無かった。「多分、大丈夫。いつものように、朝御飯も作ってくれたし、父上と僕を境界まで見送ってくれたよ」

「そか」

 頼里も尾久も口許をほころばせる。

 星花が言った。

「ねぇ、じゃあ魔術教官、変わる?」

「そうなるよね」

 尾久の明るい返答に、星花は嬉々として言った。

「やったぁ。ヘキト教官が復帰してくれればいいのよね、この前お見舞いした時も元気だったんだもの」

 先日みんなで訪ねていったヘキトは、ちょっと暗い印象の男の人だったけれど、頑張って治るよ、と優しく目を細めて見舞いを喜んでくれた。

 少年三人が大きく同意の頷きを返した時、担当室から階段を下りてくる足音が聞こえた。四人は、一様にぎょっとする。

 塗江が下りてきたのかと思ったが、現れたのは教室担当の女性史学教官だった。

「皆さん、揃っていますか」

 時刻は八時五分に近づいていた。窓際で立ち話をしていた子も席に着き、ざわついていた教室が静まる。

 担当は室内を見渡し、ゆっくり話し始めた。

「お知らせがあります。昨日をもって、塗江教官が学舎をお辞めになりました」

 病気かな、と囁き交わす声が起こる。臨時教官の顔色が冴えない点は、子供達の共通認識だった。前任者も体調不良で退任となれば、また病かと思ってしまう。

 あの顔色の悪さは、心の病から来ていたのかもしれない。

 察したエンの前で、教壇に軽く両手をあずけ、担当は続けた。

「ヘキト教官の体調が治ってきていて、来月には来られそうです。それまで一科は自習していてください。わたくしは教えてはあげられませんが、上に居ます。何かあったら来てくださいね」

 室内に、ほっとした空気が満ちた。

 軽やかに、一科始業を知らせる鈴が鳴る。

 では、と担当が階段を上がっていくと、解放的なざわめきが満ちた。

 そんな中だのに尾久が小声で言い出す。

「そうそう、今度こそ若長お終いみたいだよ」

 星花が完成させた史学の課題を受け取りつつ、エンは耳を傾ける。星花は興味ありげに斜め後ろを向いたし、頼里も頬杖をついて隣を見る。

 尾久は頭を拭いた手拭を首に掛け、その端っこで口許をちょこっと隠しながら続けた。

「塗江を教官に推薦したのって若長だったらしいんだけど、なんで推薦したかって言うと脅迫されたからなんだって」

 星花は細い眉を寄せ、頼里は軽く口を曲げる。

「小物臭がしてたのよね」

 したり顔で星花が評する。尾久は更に続けた。

「警備役がしてたいろんな悪いことを黙ってる代わりに、若長はたくさんお金を受け取ってたそうだよ。去年の裁判の時、それを内緒にする為に、今度は若長が周りにお金を配ったんだって。そのことを老や帝にバらすって塗江は脅したんだ」

 お金が幾らあっても足りないな、とエンは的外れな感想を持つ。星花は、警備役からお金を貰った意味が無いじゃない、と鼻で息をついた。一応動いてるから経済効果はあったかもよ、と、もうすぐ六歳の仲間入りをする頼里がぽそりと言う。

 尾久は締め括りにこう語った。

「昨日の事件、塗江の妹も犯人だったんだけど、その人の自白で若長のことも結局バれたみたいなんだ。老が若長本人にも詳しく聞いてるところだって。父様に、もう銘大と絶対関わるなって言われた」

「相手がめーだい君じゃ、言われなくてもね」

 星花が肩をすくめて両手を開く。

 邪界人だの、やっつけてやるだのと言われたのを思い出し、エンは目を落とす。父親が若長という地位じゃなくなっても銘大とは解り合えない気がして、もどかしさが胸をもやもやさせた。


 その後は常と同じく時間が流れていき、雨音を聞きつつ三科が始まった。

 理数学教官が桁数の多い乗算の手法を解説し、練習問題を出す。

 子供達は一斉に十露盤を手にした。()を弾くぱちぱちと云う音が沸き起こる。

 エンは、自身に起こっていた変化に無頓着だった。

 盤に添えていた左手がむずむずした時も、そうだった。右手で露を弾きつつ、ほぼ無意識に、エンは左手を軽く振った。

 ポッと間近で短い音がし、左手が光った気がした。次の瞬間、ひぃあっ! と素っ頓狂な悲鳴が背後で起こった。立て続けに、がたがたんっ、と激しい物音が起こる。

 首をすくめてエンは振り返った。他の子供達も、音の発生源に目を向けていた。

 床に、銘大(めいだい)が尻餅をついたような恰好でひっくり返っていた。口をぱくぱくさせている。

 左手がちょっと熱くなっていて、エンはそろそろと右手で包み込んだ。

 今朝、起きた時、左手はぴりぴりしていた。けれど微かにそう感じた程度で、登校する頃には気にならなくなっていた。

 今も、痛みは無いけど――

「大変」

 隣で星花が声をあげ、エンは慌てて友人の目線を追った。二人の席の(あいだ)、エン寄りの床の一点から、緩く白煙が立ち昇っている。

「やや」

 教官が進み出た。布靴を履いた片足で、煙の起こっている箇所をぐいぐい踏む。踏みながら、言った。「燕君、肩の力を抜いて――深呼吸しよう」

 エンは急いで言われた通りにする。煙は消え、教官は仕上げのように踵でしゃっしゃっと床を擦った。

「そのまま、燕君は落ち着いて深呼吸を。誰か、担当を呼んできてください」

 素早く頼里が立ち上がった。螺旋階段を駆け上がっていく。

「軽く振っただけで点火させたよ」

 誰かが小声で言うのが聞こえた。深呼吸を繰り返すものの、エンは鼓動が速まる。教官は叱らなかったし、エンもわざとしたことではない。が、失態には違いない。

 ささめき出した子供達を制するように、教官は両手を上げた。

「他の皆さんは練習問題をしてください。今日は宿題を出しますよ」

 ほどなく、頼里と担当が階段を下りてきた。

 担当はエンの目線に屈むと、予想に反して優しく微笑んだ。

「お父上から、もしかしたら、と伺っていました。今日は早退しましょう。副学長が送ってくれます」

 言われるまま、エンは帰り支度をした。鞄を肩に掛けたところで、またね、と星花が囁いてくる。変わり無く接してくれる友人にちょっぴり安堵し、エンは担当と教室を後にしたのだった。



 春はまだ先だった。

 琴巳(ことみ)は暖炉前の敷物の上で、ゆったりと揺れる炎を目に映していた。傍に掛けられたやかんから、薄く湯気が上り始めている。

 こんな風に静かな冬の夜を過ごすのも何年目か。

 隣続きの小部屋から、生成りの寝間着に着替えた栩麗琇那(くりしゅうな)が出てきた。

 まだ沸かないか、と呟くように言って、夫は横に腰を下ろす。昨夜から、少しだけ口数が増えている。

 昨日、琴巳は多くの人に迷惑をかけまくった。

 我が子でもあり、次の皇帝となる幼子の命まで脅かしてしまった。

 後宮に戻った後、当時の状況を聴かねばならない、と柴希(さいき)が呼び出された。代わりに泰佐の奥方、琅玉が来てくれた。

 夫人は、昏睡する燕を見舞い、年寄りの寿命を縮めさせないでくださいまし、と琴巳を叱ってくれた。

 ごめんなさい、と馬鹿の一つ覚えで繰り返すしかなかった琴巳の手を取ると、琅玉(ろうぎょく)は跪いた。うろたえる琴巳の手を額の辺りに掲げ、夫人はとても真摯な口調で言った。

『されば琴巳様、どうか、どうか、ルウの民をお厭いにならないでください』

 今日、栩麗琇那が事件をどう処理したか柴希が話してくれた。被害者を複数確認したとして、実行犯以外は誰も処罰しなかったことを。

 多くが琴巳を許してくれたことになった。

 でも……

『諸悪の根源は貴様だろうが……っ』

 碧界は大気が汚れているから、そこから来た琴巳を受け入れてくれない人が居るのだと思っていた。

 わたし自身を受け入れがたい人も居たんだ……

 皇妃なんて身分なのに、当主の伴侶は後継ぎをしっかり育てることだけが役目だと説明されて。親としての理想でもあったから、頑張ってきたつもりだった。

 しかし、それは世の中のどの親も頑張っていることだ。異世界から押しかけてきた皇妃なら、更にもっと何かをするべきだったんだろう。

 否、そもそも望んではいけなかったのか。栩麗琇那の隣を。

〝諸悪の根源〟という言葉が、何度も脳裏で再生される。

 呑気に過ごしてきた日々は、周りを取り巻く人の好意の上に成り立っていた。

「コトミ」

 独特のイントネーションが耳朶に響いて、琴巳は我に返った。今でも時々胸が痛むほど焦がれている人が、マグカップを向けてくる。

「ありがと……」

 声が掠れかけて。目頭が熱くなって。慌てた。みっともなく泣いてしまうのは、昨日だけで充分だった。

 ミルクティーの熱が、マグカップを通して指先を温めてくれる。栩麗琇那はきっとストレートティーで、カップを片手にのんびりした仕種で片膝を立てた。

「エンが早退したと聞いたんだけど」

「あ、えと、授業中に、力が暴発しちゃったと聞いたわ」

 これぐらいはきちんとしたくて、懸命に琴巳は報告をする。「十時過ぎで、サっちゃんが、安心できるから診てもらいましょうかって言ってくれて。蒼杜さんの所に行ったの。健康そのものだけど、左手はしばらく、急に動かさない方がいいですねって」

 そう、と栩麗琇那はやんわりと目を細める。琴巳は焦って、マグカップを両手で持つ。

「ごめんなさい、もっと早くに――お夕飯の時にでも話しておくんだった」

「構わない。大事ないのは見れば判っていたし」

 口早に応じ、栩麗琇那は暖炉の火に目を流す。

 気をつかっての話題だったらしい。

 琴巳は膝元に目を落とした。

 昔から気をつかわせるばかりで。進歩の無さが情けなくなる。

 ()の後、今晩の茶碗蒸しも美味しかったと、庶民的なコトを夫は口にした。そんな皇帝らしからぬコメントをさせているのも、せめて好物をと思った琴巳のメニュー選択が原因だ。思い至れば、気が滅入る。

 ありがと、と告げる声に力が入らない。いけない、と心奥に叱咤の声が湧き、琴巳はミルクティーをごくんと飲んだ。

 こんな時でも美味しい物は美味しかった。上手な栩麗琇那が淹れたから、尚更だ。

 ほ、と琴巳が息を洩らすと、栩麗琇那はまた低音を紡いだ。

「コトミは、婚の儀の言霊を覚えてるか」

 一瞬、胸が詰まった。

「〝この男性(ひと)と、共に歩みます〟」

 琴巳が必死に平静を装い言霊にすると、微かに、栩麗琇那は密度の濃い睫毛を伏せた。

「コトミはずっと、(たが)えないな」

 だってわたし、それしかできないもの。

 言葉にはできずに、琴巳は栩麗琇那を見やる。夫は自嘲気味に笑んだ。

「俺は、なかなか叶えられないが……」

「〝幸いをこの女性(ひと)に〟? 琇那さん、ずっと叶えてくれてるわ」

 ふわりと栩麗琇那は身を寄せ、額を合わせてきた。切々と、言葉が紡がれる。

「なら、この先も、叶えられるように努める」

 琴巳は泣き笑いしそうになった。

「今、もう叶えてくれた」

 自分も、言霊を守っていきたい。

 婚の儀の時、ただただ栩麗琇那の隣に居たくて、心から誓った言霊だった。

 共に歩んでいく。

 今後は皇妃としても、もっと意識して。

 幸せを届けてくれる人が隣に居るのだから、きっと大丈夫。周りの好意を忘れずに、できることを見つけていこう。

 先ずは、この一言から。

 大好き、と琴巳は愛する人に告げた。

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