37 迷い
なんと清らな――
【君は水と月の出会いし泉に生まれ
穢れをいだきて清水にかえす
タハーラ
そは、とこしえの女神
迷う者よ、清水涌く泉を求めよ
求める者よ、清水涌く泉に迷え
これ全て、君に身を委ねればよし】
男は、卓上で開いた書物を食い入るように見つめていた。
アレは何かの見間違いだったのだろうか――
弱い角灯の火に浮かび上がった挿絵は、細密画と言えた。
何度見ても、そっくりだ。
頁に宛がわれた指先が震える。
ようやく得た機会なのに。迷っている。
求めてもいるのか――?
木の擦れ合う音がして、部屋の扉が開いた。女が、青白い顔を見せる。
「兄様、帰ってらしてたの……」
するすると女が寄ってきて、男は書物を閉じる。女は向かいに浅く腰かけながら、男の手元に目を落とした。「何を読んでたの……?」
「お前には関係無い」
冷ややかに男は言ったが、女は書物に据えた目を薄めた。
「神学の教本のようね。兄様にも関係無いのではなくて?」
「一応、教官には五科目全ての教本が配布される」
「まさか一年間、丸々勤めるつもりじゃないでしょうね」
女が声を低め、男は細く半眼を閉じた。
「そんな時間は無い」
そうよ、と女は卓の縁に爪を立てる。
「あの薬は、もってふた月なのよ」
「一度聞けば充分だ」
男のこめかみがひくついていたが、女は言い募った。
「これ以上、待つのは嫌――うかうかしてる間に、あの女、のこのこと都に出没したらしい――」
「昨日、見かけた」
遮るように男が言うと、女は顔を歪め、口を横開いた。
「兄様、大丈夫なの? あの女は、婚の儀の僅かな時間で多くを誑かした前科があるのに――」
ガッと男の座っていた椅子が背後に勢い良く倒れ、女が横手に吹っ飛んだ。女の手が引っ掛けた角灯も床に落ち、硝子が飛び散る。
火の揺らめきかけた灯心と硝子の破片を一緒くたに踏みつけ、男は女の胸倉を掴み上げた。
「貴様、兄を何だと思っているっ――誇り高きルウの民の、老にまで上り詰めた血縁を持つ、このわたしがっ――邪界の女風情に惑わされるとでも言うのかっ!?」
喚きながら女の顔に平手を往復させた後、男は突き飛ばした。女は壁に打ち当たり、短く呻いてうずくまる。
男は荒い息を吐きつつ立ち上がった。卓上に残っていた教本を手にする。
「ようやく訪れた好機を、軽はずみに動いて無にできようか。来たる日まで、お前は粛々と帝を正道に立ち帰らせる手筈を確認しておけばいいのだ」
言い捨て、硝子片を更に細かく踏み砕き、男は部屋を出ていった。
女は唇からつたう血も拭わず、朦朧とした目つきで床を見やる。
光の無くなった室内に、冷たく闇が染み込んでいった。
栩麗琇那は軽く眉を寄せ、調書に目を通していた。
執務室の来客用の椅子には、事務役の空依が座している。
今回もたらされた情報は、六歳教室の臨時魔術教官、塗江についてだ。
本年、三十五歳。理葉が六老に名を連ねていた頃は、ゆくゆくはコネで宮勤めになるつもりだったのか。たまに文書の写しなどを請け負いながら、道楽に日々を費やしていたようだ。
それが、碧界から栩麗琇那が帰還し、能力重視の面接試験を開始した為、希望していた就職先への門戸が狭まる。重ねて、大伯父に当たる理葉が失墜。縁戚として立場が悪化した。
日雇い労働さえも記録が無い。理葉が事件を起こした日から六年強、財を削って細々と生活していたのだろう。
いよいよ窮したところへたまたま募集があり、教官を志願したようである。
一応、自然な成り行きに見える。
しかし空依の調書には続きがある。
昨年、栩麗琇那が大陸人に魔術教官を依頼した件は、メイフェスの一部で〝前代未聞の不祥事〟とさえ言われた。ルウの民の恥と捉えた者が少なからず居たわけだ。
ソレを甘受してまで塗江の志願を跳ね付けた若長が、何故、今年になって推薦へと変心したのか。
現若長の訓胡は、前任者から指名を受けるに当たり、旧警備役隊長に口利きを頼んだようだ。どうやら次の指名相手も相当に早いうちから内定している模様。適材適所を推進する皇帝とは、違う流れを進んでいるらしい。
旧警備役隊長は、若かりし折、理葉から色々と便宜を図ってもらっていた。訓胡にしてみれば、恩人の恩人。塗江はその縁戚ということになる。
そんな繋がりでは、はっきり言って薄い。しかしながら塗江には、表沙汰にならない裏の取引を知る機会ならあったかもしれない。
何か嗅ぎ付け、ソレをネタに推薦を乞うたとは考え過ぎか……
脅迫は罪だが、訓胡が被害を届け出ない限りは闇に葬られる一事だろう。そもそも、その程度のことで皇帝が乗り出すことは無い。
黙考しつつ、栩麗琇那は書紙をめくる。
塗江には妹がいる。
数年前に一時期、失踪していたという。
当時は塗江も含めた家族が捜し回ったようだが、半年ばかりで、ひょっこり戻ってきたらしい。本人は、ひと月ほど不思議な草地をうろうろしていたと語ったそうだ。どうも果ての地に迷い込んでいたようである。
この妹も大伯父を当てにしていたのか、職歴が一切無かった。意外にも栩麗琇那の同窓。
栩麗琇那が学舎で共に机を並べた者は二十人以上居た。理江という名を見て記憶をまさぐったが、思い出せない。奇病を患っている魔術教官についても同様だったので、すぐ諦める。
塗江の魔術教官ぶりは子供達にすこぶる不評だ。だが、きっちりと六歳課程の技能指導をしているようなので、今のところ外部が口を出すまでではない。昨年担当した琉志央が、教官として理想的過ぎたというトコロだろう。
栩麗琇那は書類を机上で整え、助かったよ、と空依を見た。
「若長の件だけ、少し老に話しておこう」
警備役隊長とこんな関わりがあるとすれば、訓胡は叩けば埃が出そうだ。琉志央襲撃事件を裁いた際に塵さえ出なかったとなると、却って怪しい。次に指名される長にも注意が必要だ。
目の前の優秀な事務役に更なる調査を頼めば暴いてくれるだろう。けれど、無用な暗事にまで直面させるのは忍びなかった。
そろそろ昼の休憩時刻で、空依を解放しようとしたところへ、薬処からと取次役が封書を持ってきた。
大小一枚ずつ書紙が入っている。栩麗琇那は小さい方を開き、冒頭の内容を漏らした。
「例の病が完治の見込み」
空依が表情を和ませる。栩麗琇那は続きに目を通し、彼方に深謝した。「蒼杜が、診てくれたようだ」
最も頼れるのはかのユタ・カーの申し子だったが、伝染の可能性がある以上、二の足を踏んでいたのだ。彼に相談すれば、診ると必ず言ったろう。踏まえて持ちかけるのは、大陸の守護者の名折れだった。
でも結局、迷惑をかけてしまったな。
苦く口角を上げ、栩麗琇那は大きい方も広げる。治療概要だった。
一読し、栩麗琇那は生真面目に待機していた事務役にも見せる。
「悪いが、塗江の様子を今しばらく」
「畏まりました」
空依は即応した。
二の月に入ってから、六歳課程の史学では、ひと月がかりで取り組む課題が出ていた。
大陸には存在せず、メイフェス・コートにしかない物がある。それが何か、何故かを調べるというモノだった。
去年なら二人一組でやるような内容だったが、一人で取り組むことになっている。
先月に〝大陸を知る〟と題され、書物などから大陸の事物は学んでいた。だから、メイフェス・コートにしかないモノを幾つか見つけ出すところまではこぎ着けていた。
どれについて調べるかを、エンは少々決めかねている。
「何を迷ってるんだ」
寝台から、ツバメが神学の教本を見ながら問うた。
「うーん……」
対象候補を列記した帳面を眺め、エンは生返事をする。
「一人でやる課題だ、そんなに御大層な結果は求められてないさ」
頁をめくる音と共に、ツバメは言を継いだ。「資料の引用だけで済ませられるかもしれないぞ」
んー、と今一度エンが鼻で応じると、私室の扉が叩かれた。父の叩き方だ。
エンが寝台を振り返った時には、枕元に投げ出された教本だけが残っていた。
どうぞ、と声をかけつつ、エンは寝台に光が届くようにしていた角灯の位置を直す。
今年に入ってから、両親は〝おやすみ〟をわざわざ言いに来なくなっていた。夕食後に食堂や居間で共に過ごし、八時過ぎに部屋の前で別れる時の挨拶となっていた。
今夜もつい三十分ほど前、そうして言葉を交わしたばかりだ。
すいと扉が開き、父が顔を見せる。母の姿が背後に無く、エンはちょっと小首を傾げた。一緒じゃないなんて、珍しい。
父は数歩部屋に入ってきて、立ち止まった。止まるや、問うてくる。
「果ての地からの便り、読んだ?」
「うーんと、何となく」
「古語だったか」
「うん、そうなの」
辞書と首っ引きで、やっとこさっとこ解読した。「果ての地に、皇子を招待するって書いてあるみたい」
ツバメが教えてくれた内容そのままだった。最後の数行が、いまいちよく解らなかったけれど。これが読めたなら当然来なさいと、まじないのようなことが書かれていた。
頑張ったな、と父はほんの少し目を細めてから、ややの間、口をつぐんだ。言葉を選ぶようだったが、黙ったままこちらを見る。眼差しで、意図が判った。
「僕、行くつもり」
そう、と応じ、父は軽く顔を傾けた。
「俺も手紙を見ていいだろうか」
エンは机の大きな抽斗を開けた。翻訳に費やした紙きれの合間から封書を引っ張り出す。差し出すと、ありがとう、と父はその場で長い紙を広げて読み始める。ツバメと同じくすらすら読んでいるのが判った。
つと、ツバメそっくりに父も眉根を寄せた。
間の後、深みのある低声が紡がれる。
「皇子だけが招待されているな」
「危ない所では無いよね?」
「その点は大丈夫だと思う」
一抹の不安が解消された。エンが肩の力を抜くと、父は手紙を畳んで封筒に戻す。
こちらへ返してくれてから、父は言った。
「明日、泰佐老が大君にお会いするから、今のところ便りの内容に応じるつもりだと伝えておいてもらうぞ?」
エンが首肯すると、あまり夜更かしはするなよ? と父は扉に手をかける。うん、とエンが顔をほころばせたら、そういえば、と父は肩越しに振り返った。「ヘキト教官、うつる病ではないと判った。今月中には治りそうだ。見舞いに行きたかったら行きな。喜んでくれるだろう」
「わ、じゃあ、みんなで行くよ」
あぁ、と父は微かに笑んで出ていった。
ややして、ツバメが現れた。再び寝台に寝そべると教本を開く。果ての地へ共に行くことは既に決定事項だったからか、父の訪問について何も言うことはないらしい。
明かりの角度を戻し、読書に没頭してしまいそうな幼馴染みをエンは見た。
「ねぇ、僕が幽閉の塔を調べたら、銘大が騒ぐかな」
一人でする課題だから躊躇していたけれど、エンは相談を持ちかけた。「殺さずにおく場でもあるけど、殺しに等しくもある場だ。〝人殺し〟がそこを調べるってどう思うだろう。でも僕は、あの塔こそ、ルウの島にしかないし、ルウの島だからこそある気がする」
ツバメは頁に目をやったまま、真顔で応じた。
「騒ぎたい奴には騒がせておけばいい。幽閉の塔は帝の直轄だ。次期皇帝なら、遅かれ早かれ、幽閉の塔を熟知しなきゃならない」
教本を開いた状態で、ツバメは向けてきた。「見に行くのもいいかもな。タハーラを殺めようとした連中の末路を」
資料の引用だけで済むと言っていたのに何の心境の変化か。エンは瞬いて教本を受け取った。
神学の教本は、詩文めいた文章と美しい色付の挿絵が刷られ、神々や精霊級の紹介に終始している。開かれた頁は、だいぶ後ろの方だ。大陸神の一人、清浄の女神、タハーラの項だった。
真っ先に目が留まった挿絵に、エンは小さく口を開けた。これまでもタハーラの姿はいろんな本で見たが、この教本に描かれた女神は――
きらきらした黒い目。長く綺麗な黒髪。桜色の口。柔らかな乳白色の細い手足。白い長衣を着て、微笑んで水辺に立っている。
「びっくり――この絵、母上にそっくりだ」
「それを見ていたにも関わらず母さんを殺そうとしたんなら、狂ってるな」
ツバメは横向きになると片腕で頭を支える。「まぁ、老なんて年代の連中だから、もっと古い、違う教本で習ったんだろうけど」
エンは、母のような清浄の女神を見つめながら、以前ツバメに聞いた事件に思いを馳せた。
殺人未遂の罪から父が塔送りの裁きを下した者達は、本当に母を狙ったのか……
当事者の口から、違うと言って欲しかった。大好きな母が、誰かに殺したいほど憎まれていたなんて信じたくない。相手が狂っていたなら、その方がいい。
エンは、確かめたくなった。
「僕、他の課題が楽そうな日の放課後、行ってみようかな。幽閉の塔へ」
「他の課題があっても、いつでもいいだろ。父さんが瞬間移動で連れてってくれるさ」
「ううん、僕だけで、歩いて行きたい」
ツバメが、ほんのちょっと眉を上げた。
「子供の足だと、相当に遠いぞ」
「うん。でも、皇子だと名乗ったら、父上の許可が無くても囚人と話ができるかもしれない。もしも叶ったら、父上が傍に居てくれるのは困るよね。僕は母上が殺されそうになったことを、本当は知らない筈でしょ」
「皇子だろうと、十中八九、話すなんて無理だろうけど……」
ツバメは鼻で息をついてから頷く。「まぁ、いいだろう。暇だしな」
幼馴染みらしい返答を得て、エンは機嫌良く他の課題に取りかかった。




