31 魔術授業 Ⅰ
大人達も昼休憩に入った時刻、ラル家の皇子は宮殿に帰り着いた。
明日からは新担当も後宮で昼食をとるそうだが、本日はエン一人で境界の扉を通る。
食堂へ入る前に、廊下の先から父が来るのが見えた。ただいまー、とエンが声を響かせる。父は目をちょっと細めると、手を洗ってきな、と言った。はぁい、と幼子は母への挨拶を後回しにしたのか自室へ走る。
鞄を部屋に置き、洗面所で手洗いうがいを済ませ、エンは食堂の長い暖簾をすり抜けた。
おかえり、と食卓に着いていた母が白い歯をこぼした。ただいま、とエンは隣に座り込む。斜向かいには父も座っていて、食卓には既に、美味しそうな食事が並んでいた。今日は軽食風だ。
パンや小麦の薄皮に萵苣や焼き肉が挟んである物、小さめの握り飯、一口大の薄乾パンの上に乾酪や干し果物が乗せてある物、丸い深皿にタレのかかった生野菜、玉葱と赤茄子の吸物、檸檬と砂糖の水割り。
いただきます、と三人で声を合わせる。
両親が三つずつばかり皿に取り分けてから、エンも皿に盛っていった。
初めての魔術授業が控えているというのに、常と変わりない食欲のようだ。山盛りにするのを見て母が瞬き、たくさんあるからね、と微笑む。
「学舎、楽しかった? 新しい担当さんは、どうかしら?」
握り飯を手にしながらエンが応える。
「多分、まだ寝てる」
「えっ」
「二科に教室で寝ちゃって、三科からは担当室に寝に行って、そのまま大人しくなったよ」
エンの報告に、父が笑いをこらえるように口許を手で覆う。母は困ったような顔をした。
「そういえば、大陸は夜だったわね」
あぁ、と父が低声で応じる。
「やむを得ないと言うか、琉志央らしい。あまり緊張してないようで良かった」
「ある程度は緊張して臨んで欲しいわ」
母は唇をすぼめる。「サっちゃんと監視しに行こうかしら」
「気持ちは解るが、駄目だ」
父はきっぱりと言った。「集中力を削ぐ。極めている琉志央はともかく、子供達に良くない」
そか、と母は真剣な顔で身を正した。
「危ない危ない、エンの邪魔しちゃうトコだったわね」
こういう時の父は、流石に客観的に物を見る。単に、母に横恋慕している新担当に近づけたくないだけかもしれないが。
食事が終わり、エンは自室で理数学の宿題を始めた。この頃、気温が高いと〝外〟へ出るのが億劫だ。妙な眠気も感じる。
計算間違いは無さそうだったので、見直しをしてやらずにうとうとする。そうこうするうちに、一時半を回った。
エンは魔術の教本を手にして部屋を出た。廊下の窓から、両親が中庭に居るのが見えた。今日は雨季の晴れ間で、母は化粧品に使う香草を摘んでいるようだ。父は近くの長椅子に足を組んで座り、母を見ている。相変わらずの光景だ。
開いた窓から、エンは顔を覗かせた。
「五科に行ってくるね」
父母は相次いでこちらを見ると、目を細めた。
「まぁ、気楽に」
「無理しないでね」
はぁい、と応じ、エンは宮殿を出た。再び学舎へ向かう。
だるかったが、かの元魔術師がどんな授業をするのかは興味があった。
魔術を学ぶ場所は体験入学時に覚えていた。公園に面した初級学舎の敷地の一角が、訓練場になっている。
大校舎と各教室の脇を通って、エンはその開けた場所に出た。地面は土が剥き出しな部分が多かったが、ちらほらと雑草も生えている。
半分ばかり集まっている同窓生は、適当に散らばっていた。座っている者と立っている者と、まちまちだ。
隅で頼里が胡坐をかいていて、エンは傍に座った。晴れで良かったね、と言っていたら、星花が来た。午前中は包衣姿だったが、短袴に着替えてきたようだ。べっこう色の髪の毛も、二つに分けて編んでいる。午前中と服装や髪形を変えた女の子は、他にも多かった。
さほどせずに、五歳課程の子供達は全員集まった。りりんりりん、と大校舎から始業の鈴が聞こえ、遠く集会場の鐘楼からも、かーん、と時告げの音が届く。午後二時だ。
数日ぶりに顔を覗かせた太陽が、大地を熱していた。やや蒸し暑い風が流れる。そろそろ雨季が終わり、夏に入ることを予感させた。
いつの間にか子供達は全員座っていた。何人かが教本で己を扇ぐ。星花も顔に、ぱたんぱたんと風を送った。
「まさか担当、まだ寝てたりしないでしょうね」
頼里が胡坐をかいた足を引き寄せながら、首を傾げた。
「大陸って、今何時?」
「リィリ共和国だと、夜中の二時」
エンは答えて、苦笑いした。「寝てるかもね」
「もう。わたし、緊張して、お昼御飯もあんまり喉を通らなかったのに」
星花は頬を膨らませ、両膝を抱える。
五歳課程の五科は四十分ではなく一時間だ。教官が現れないまま四分の一が過ぎたと思われる頃には、幼子達のささめきはざわめきに変わった。
「担当室、見てくる」
頼里がそう言って、骨惜しみせずに五歳教室へ走っていった。みんなで小さな背中を見送り、戻ってくるだろう方を注目していると、別の方角から高めの男性の声が乱入してきた。
「なんだ、魔術教官は何処だ」
刺繍のたくさん入った上着を着て、つばは無いが派手な房の付いた灰色の帽子をかぶった男の人が肩をそびやかせてやって来た。「居ないのかっ」
「父上」
甲高く喜々とした声をあげて、銘大が立ち上がった。駆け寄って訴える。「そうなんだよ、馬鹿にしてるよ、あいつ」
子供達は素早く目を見交わせる。星花の目が胡散臭そうに銘大の父親に向いて、エンは思い出した。銘大の親が要職に就いていることを。
寄合所の若長だっけ……この時間が昼休憩なのかな。
帝は、そろそろ午後の執務に入っている筈だ。エンは彼方に佇んでいる宮殿をちらっと見てから、銘大の父に目を戻す。
眉間に縦皺を寄せ、若長は吐き捨てた。
「大体、大陸人などに務まるわけがないのだ」
しかし、頼里の話では、メイフェス・コートにはなり手が居なかったから琉志央が務めることになったのだ。反対だったのなら、今までこの人は何をしていたのか。
「父上、もう他の魔術教官を連れて来てよ」
銘大が簡単に言った。ほんの僅か若長は表情を固めたが、いいだろう、と鼻を突き上げる。
「こうなったら、もう一度警備役にやらせてやる。連れて来てやるから、待っておれ」
と、視界の端に頼里が映った。走って現れたが、銘大の父を見留めたか、足を止める。
子供達の目が一斉に動き、若長は視線を追った。見る間に耳を赤くさせ、頼里に怒鳴る。
「何分遅刻だと思ってる!」
違う、と言いたげに同窓生達は見上げた。その目に気づくことなく、銘大の父は怒鳴り散らした。「ルウの民ともあろう者が、魔術の重要性を解っておらんのかっ。子供だと思って許されると思ったら大間違いだぞ! 愚か者!!」
その時、頼里の背後から琉志央が姿を見せた。気だるそうに、前髪をかき上げる。
「何か、ここにも氷みたいなのが居るなぁ」
ハイ・エストの守護精霊のことを言っているのだろうが、理解したのはエンぐらいだ。
頼里が、銘大の父に毅然と言った。
「教官を呼びに行ってました」
若長は頬をひくつかせる。エンは気が気じゃなかった。それは他の同窓生も同じで、息をひそめて成り行きを見守る。
頼里が同窓生の中に戻って腰を下ろすと、琉志央は歩み寄って来ながら今一人の大人を見た。
「あんた、何。助手が居るとは聞いてない」
次の瞬間、二人の大人の間でボンッと小さな爆発が起こった。幼子達は短く驚きの声をあげて互いに寄り添う。
若長が一歩後ずさり、背後に隠れるようにしていた銘大は足を踏まれて更に後退する。琉志央はその場で顔を傾けた。瞳が、上空を映したような色に光った。
「御挨拶だな」
今の爆発は銘大の父が何かの術をかけて、琉志央が反応したから起こったようだ。
銘大の父は音高く鼻から息を出した。
「魔術教官ならかわせよう。試しただけだ」
琉志央は怪訝そうな顔になった。
「試せるほどの技能があって、この時間に暇なら、何故あんたが教官をしないんだ」
エンも同じ疑問が浮かんでいた。若長は苛立たしげに言う。
「暇とはなんだ! わたしは若年層をまとめ上げるという大変なお役目中だっ」
「じゃあ、持ち場に戻れ」
あっさりと琉志央は言ってのけた。「冷やかしに初歩の魔術を試される筋合いはない。俺はやらせてくれと言って来たんじゃないぞ、やってくれと頼まれたから来たんだ。勘違いするな」
若長は、わなわなと口を開閉させた。息子は口を横に開き、父親と新担当を交互に見ている。琉志央は半眼を閉じた。
「まぁ、寝坊したから、今日の給料は請求しないでおくさ」
「当然だ、タダ飯を食えると思うな」
銘大の父は腰の脇に両手をつくと、来た方へ足を向けた。「まったく――忙しいのに手間をかけさせおって」
言い捨てながら、去って行く。何だか、みっともない。
子供達が目で感想を確かめ合う前で、琉志央は長袴の隠しに親指をかけ、一人立っている銘大を見た。
「今の、お前の親父か?」
銘大は勢い良く頷くと、両手を拳にして力説した。
「都で老の次に偉いんだ、忙しいんだ」
「だったら、金輪際のこのこ来るなと頼んどけ。邪魔だ」
銘大はぽかんとする。同窓生達は、冷ややかな目で若長の息子を見た。今しがたの父親の言動で、彼は益々周りから距離を置かれそうだ。
極めつけに、琉志央が面倒臭そうに付け加えた。
「あのな、俺一人が横で見てたって、お前らはしくじる可能性があるんだ。まして親なんかが横で見てたら、お前も他の奴も、しなくていいしくじりをやらかす。余計な怪我をしたくなかったら、来させるな」
校舎から、教室での終業を知らせる鈴が聞こえた。
後二十分か、と琉志央は呟いた。立ち尽くしている銘大から視線を外すと、新担当は幼子達を見やる。
「今日は悪かったな、明日は寝坊しないようにする」
一人が、今日はお終いですか、と訊く。琉志央は首の後ろをさすった。「そうなるな。お前ら、帰りたいだろ」
ううん、と誰かが応じた。エンもせっかく来たから、何か教わって帰りたかった。初めて午後も同窓生全員が集まっていて、いつもと違う時の流れに昂揚していたこともある。
首を振る子の多さに、琉志央はちょっとだけ意外そうな顔をしてから、片膝を立てて座り込んだ。
「んじゃ、何かやるかなぁ」
質問、と、すっかり馴染んでいる橙奈が手を挙げた。
「さっきの爆発は眼力同士がぶつかったの?」
だな、と琉志央は頷く。
「同じくらいの力でぶつければ、ああして消せる」
「……それって、意外と難しくない?」
「んー? そういえばそうか。まぁ、慣れれば簡単だぞ。何となく判るようになる、自分に向かってくる力の程度が」
へぇー、と子供達は感心する。エンは、父の台詞を思い出していた。
『琉志央は魔術に関しては見習いじゃない』
魔術教官は小さく欠伸をしてから、そうそう、と言った。
「明日から教本は持って来なくていい。本だと眼力から覚えることになってるけど、先に覚えておいた方がいい術がある。それに、本に載ってないけど、覚えておくと便利なのもあるしな」
「じゃあ、手ぶらでいいんですか」
「暑くなってきてるから、水筒に水か茶でも入れて持って来るといいんじゃないか」
「おやつは?」
「野遊びするんじゃねぇんだぞ」
苦味を含んだ笑みを琉志央が浮かべると、幼子達はけたけた笑う。エンも一緒に笑いながら、何故か、出来損ないの自分でも、ついて行ける気がしてきた。
かーん、と三時を知らせる鐘が鳴った。
子供達が一様にがっかりしたような顔になる中、琉志央は立ち上がった。
「寝坊した分を延長してもいいんだがな、時間外に授業をしては他の親も見に来るかもしれん。気が散ると意味が無い。今日はやめだ。帰りな」
帰路についた大半は、渋々だった。
こうして、初めての魔術授業は終わった。




