02 ツバメ
六暦六一九年の十の月、四歳になったエンは私室を与えられた。
両親の部屋の隣。三分の一ほどの広さだが、縦長の部屋は、一人で使うには充分だった。机と椅子、本棚、箪笥、姿見、寝台、それらの家具を置いてもゆったりと空きがある。
部屋を貰ったエンは、初め喜んだ。しかし、単に誕生祝いを贈られたことが嬉しかっただけだったので、その日のうちに不安になった。夜、いつも傍に居た父母が居ないことになる。一人で寝るのは初めてだ。
けれど、不安は取り越し苦労となった。心許なかったエンに、母がやんわりと微笑んでくれたのだ。
『寝る前に、父様と少しお話ししに来るわ。素敵な夢が見れるように』
言葉通り、両親は毎晩、枕元で話をして、灯火を消してくれる。時々、何を間違ったか怖い夢を見ることもあったが、目を覚ますと朝の光が包んでくれていた。
年末が近づいた頃には、エンは自分の部屋での寝起きに慣れてしまった。寝て起きる場所が変わっただけで、日常にはさして変化が無かったからだ。
それでも、全く変化が無いわけではない。不思議な友人のツバメが、以前よりよく訪れるようになった。
ツバメは、相変わらずエンと同じ姿で、やはり、エンより物知りだった。最近知った言葉で言い表せる。ツバメはとても〝大人びている〟。
昨年の十二の月、両親の友達の柴希が女の赤子を産んだ。小さなその子は、柴希の大きな腹の中に居た子だと言う。確かに、その子を連れて来た柴希は、腹が大きくなる前の柴希に戻っていた。
ともあれ、エンは大層驚いた。柴希と赤子が帰ってすぐにツバメが現れたので、エンは驚いたままの気分で報告した。が、幼子はけろっとしていた。
『何も驚くことじゃないさ。赤ん坊の種を植えるのが父親のヤクワリで、ある程度タイナイで育てて、その赤ん坊を産むのが母親のヤクワリ。柴希はヤクワリ通りのことをしただけだよ』
『――って、じゃ、エンも種だったの!?』
茫然となって問うたエンに、ツバメはつまらなさそうに応じた。
『エンだけじゃない、みんなそうさ。母さんも父さんも、ツバメもだ』
『ツバメの種を植えた父しゃまと、産んでくれた母上に、エン、会いたいな』
自分達がこんなに似ているから、ツバメの父母もエンの父母に似ている気がした。そう思っての希望だったが、ツバメは呆れ顔で、例の如く不可思議な返答をした――会うとか会わないとかの問題じゃないだろ、と。
同日の夕食時に、新たな疑問が浮かんでいたエンは父に訊いた。母にどうやってエンの種を植えたのかを。
両親は揃って、いたくぎごちなくなった。答をせがんだら、父は思いがけず顔を赤くし、エンがもう少し大きくなったら教える、と言った。母も真っ赤な顔で、何度もそれに頷いた。
仕方無くエンは知ることを諦めかけたが、数日後にツバメが来たので同じことを尋ねてみた。
弱冠三歳の幼子は、さらりと解答を口にした。
『母さんと父さんがくっつくんだよ。くっついた時、父さんは持ってる種を母さんのお腹に送るんだ。まぁ、植えるって言うより、種蒔きって言った方が近かったかな』
あぁー、とエンは納得した。
『父しゃまと母上、よくくっついてる。母上、とても嬉ししょうなんだぁ。父しゃまに種を貰ってたからなんだね』
家族で散歩に出たりすると、母は頬にくりっとえくぼを浮かべ、楽しそうに父の腕にくっつく。父は、いつもはきりっとしているけれど、そういう時は少し優しい目をして母を見ているのだ。母はそんな時によく言う。大好き、と。
納得したエンを見やり、ツバメはおかしな顔をしていたけれど、ま、いいや、と言った。
エンはその後、もしかするとツバメみたいな子が又来るんだと思った。
何処かで見知らぬ父親と母親がくっついて、エンと同じ顔の子が生まれて、エンに、名前を返せ、と言いに来ると思った。
今度は〝えん〟を返し、何の名前を名乗らなければならないのか。その考えで嫌な夢を幾つか見たが、一年経ってもエンの所にはツバメしか来ていない……
こん、と扉が軽い音をたてた。出窓に座っていたエンは、どうぞ、と言いながら飛び降りる。
壁に掛かった時計を見やると、夜の九時。両親が〝おやすみ〟を言いに来る時刻だ。
扉は、ややの間をおき、すいと開いた。叩き方も開け方も、父を示している。
思った通り、父の美麗な顔が現れた。何気無く、それでいて優雅な物腰で半歩退く。長身の背後に居た母が、綺麗な顔を覗かせた。
初めエンは気づかなかったが、両親が揃って来る時はいつもそうだった。父が扉を開けるが、先に部屋に入るのは母なのだ。
先日そのことを話したら、柴希はあでやかに白い歯をこぼした。
『お父上は、お母上がとても大事なのです。ですから、先ずは御自分で扉を開け、お母上が進んでも大丈夫か確認なさってから道をお譲りになり、続けて背後を護られているのでしょう。お母上のお身体は、ルウの民ほどに丈夫ではありません。お父上は、いつも気にかけておいでなのですわ』
それは、エンも感じ取っていた。父は、エンより母を見ていることが多い。母を見る時の方が、目が優しい。この前、ツバメにそれを言ったら、白けた顔をされた。
『エンはコドモだな。そういうの、シットって言うんだ』
ツバメは、父に似た雰囲気で両腕を組んだ。『大体、ハンリョと子供に向けるアイジョウは種類が違う。量はともかく、同じようなシツを求めるのは無理な話さ』
エンは口をすぼめた。ツバメの話は、時を経て益々難解になってきた。難しい単語が実に多い。言い返せたのは、最初の言葉に対してだけだった。
『僕、子供だもん』
「子供は風の子って言うじゃないか」
どきっとする程の美しい低音が響き、エンは我に返った。いつの間にか傍に来ていた母が、横手の父を軽く睨む。
「そんなこと言ってると風邪ひくのよ。ユダンタイテキなんだから」
「ルウの民は風邪をひかないんだ」
「レイガイもあるかもしれないじゃない」
「レイガイがエンとは限らないだろ」
むぅとした顔を母は見せたけれど、エンにもまるで迫力が無く見える。父にこたえる筈もない。珍しく、父はにやにやした。ついと、こちらを見やる。「寒い?」
「ううん」
エンがぽろりと答えると、えぇー、と母は拗ねた顔をした。
「母様、結構寒いのに」
ふわっと、母はエンを包み込んできた。いい匂いにぽうっとするエンの耳元で、ヤだ、と澄んだ声が響いた。「でも冷えてるわよ? お布団入ってあったかくしてね、エン」
素直にエンは寝台に横になった。布団の中で、もう少し起きているつもりだ。取り敢えず、両親の前では寝ておく。部屋を貰って、そんな演技をして、ちょっとしたドキドキを味わうことも、エンは覚えていた。
布団を丁寧に着せ掛けてくれた母は、顔を傾けた。
「何かお話読もっか」
「寝れそうだから、寝る」
そう? と母はやんわりと笑った。
「じゃあ、楽しい夢が見れますように」
「ありがと」
言うと、ふふっと母はえくぼを浮かべた。父も目を細める。
「おやすみ」
低声が囁くように言い、机の上の角灯に灯っていた火が吹き消される。父母は部屋を出ていった。
エンは起きているつもりだったけれど、昼間に読んだ童話の筋を思い返しているうち、眠ってしまった。
子供部屋に、静かな寝息だけが満ちる。
自由も満ちる。
じっくり考える時間が増えたのはいい。ただ、両親の部屋と別れてしまい、無為な時間も増えた気がする。
片膝を抱えて窓の張出に腰かけた。厚手の窓掛の隙間から、何をするでもなく外を見やる。知らず、眉を上げた。
灰色の空から、ふわりふわりと純白の綿雪が舞い降りてくる。
しばしぼんやりと、その様を眺めた。
エンならば、はしゃいで、両親に知らせに行きそうだ。
そろりと出窓から降り、部屋を出る。
廊下も闇に覆われているが、子供部屋の窓辺と同じく、父親の結界の光がぼんやりと壁を浮き上がらせていた。
夜は中庭を除外して鐘結界を張るから、庭に面した壁が明かり代わりのように光っている。
気づく者など居ないだろうが、光の届かない廊下の端を両親の寝室へ向かう。
そっと扉に寄り添うと、遠く室内から母親の声が聞こえた。
「妙に寒いと思った……大晦日らしくなってきたわ」
あぁ、と応じる低声も耳に届く。
「積もりそうだな」
「そしたら明日、エンが喜ぶわ。雪だるま作れるぐらい降らないかな」
「…………」
「できたら雪兎も作りたいなぁ。エンに見せてあげられるわ、白い兎さん。動物好きだから喜びそうじゃない?」
応じる声は無いようで、会話が途切れた。
扉に寄りかかり、中庭に面した小窓越しに、次々と行き過ぎる綿花のような雪を見つめる。
知らせなくても、両親は雪に気づいた。
知らせたくても、両親は気づかないのに。自分は何をやっているのだか……
鼻で息をついた時、母親の声が再び聞こえた。ひそめたように。
「エン?」
「……いや、悪かった」
父親の声が淡々と応じる。「そんな気配を感じた気がした。心の隅で気になっている所為か……」
皇帝は、異界帰りで感覚が相当鋭敏だと言われている。
ようやく真の息子に気づいたのか?
僅かな期待が湧いたものの、危機感の方が大きい。眉根を寄せて扉から身を離す。
低声が近づいてきた。
「監視するようで迷っていたんだが、今夜は、鐘結界を使おう」
「エンの部屋に?」
「部屋を除いた後宮に張り直す」
げ。
舌打ちする間も惜しんで駆け出した。
背後で、ぱし、と指を鳴らす音が起こる。中庭に面した壁から、淡い金粉が消え失せた。
子供部屋に駆け込む寸前、寝室の扉が開く。ちらりと、片手を発光させた父親が見えた。半裸で。
駆け込んだ扉を振り返れば、ぽぅっと金色に光り始める。
エンに見られたら見られたで、説明すればいいだけだろうに。
第一、今更だ。今頃気をつかうなら、もっと前から気をつかってほしかった。
「ったく……」
思わず声を洩らしたが、当のエンは起きる気配が無い。一人、早々と夢の中だ。
来年こそは、この馬鹿げた状況を打破できるだろうか……
窓の張出に座り直し、灰色の外を眺めやる。
しんしんと雪が降り積もっていく。
静かに、六暦六一九年は暮れていった。
新しい年を迎えた日、エンが最初に会ったのは瓜二つの少年だった。エンの部屋で、朝日が差し込む窓辺に、片膝を抱えて座っていた。
寝台に半身を起こしたエンは、驚きを込めて名を呼んだ。
「ツバメ――おはよぅ」
目元を指の腹でひと撫でして、エンは口許をほころばせた。「目が覚めたらツバメが居るなんて、びっくり。いつ来たの――まだ六時じゃん。僕、こんなに早く起きたの初めてかも」
「…………」
「でも今日、新年日だよねぇ。ツバメは、お家でお祝いしないの?」
「…………」
「僕のトコは毎年お祝いするんだよ。母上、昨日から御馳走作ってたもの」
寝台を降りたエンは、ツバメの背後、窓の外が奇妙に眩しい気がした。
窓掛が少し開いていて、外が見える。見やって、エンは口を開けた。
「わ――わぁ――っ」
窓の外には、都の広大な公園がある。そこが一面、白一色に覆われていた。「雪降ったんだね――きれーいっ」
エンはツバメ越しに、身を乗り出すようにして外を眺めた。公園向こうの田園も、その向こうの森も純白の世界だ。連なる山並の隙から見える海だけが、紺碧の色を一際鮮やかに波うたせている。
胸がきゅんとなり、エンは両親に知らせたくなった。こんな時間だ、今日はエンが一番に起きたに違いない。
踵を返すと、ツバメが口早に台詞を発した。
「何処行く」
振り返りながら、エンは扉に手をかけた。
「雪のこと、父上達に教えてくる」
「教えなくたって知ってる。昨夜、エンが寝た頃に降り出したんだから」
扉口で立ち止まったエンは、口をつぼめた。
「ツバメ、起こしに来てくれても良かったのに。僕、降ってるところ見たかったよぅ」
ツバメは窓辺から降りると、苛立たしげに頭を掻いた。
「エンのイシキが目覚めていると、ツバメの自由度は下がる。せっかく自由になれる時間を、わざわざ短くする馬鹿がいるか」
新年早々わけの解らないことを言われ、エンは眉をひそめた。ツバメは、こちらが理解できないのを面白がっているような気がしてくる。エンは、腹立たしくなった。
「僕、父上達の所に行くから。降ったのは知ってても、こんなに積もったのは知らないもん」
エンは扉を押し開けた。「教えてくるから、ツバメ、待ってて。後で遊ぼう」
「これ以上何かに待たされるのは御免さ」
ツバメは、ふいっとそっぽを向いた。向くなり、目の前から消える。
エンは口を曲げた。何だよぅ、と独り言を洩らしてしまう。
「ツバメの馬鹿馬鹿。たまには一日中、居ればいいのに」
つまんないの、とエンは廊下に出ながらぼやいた。エンにとって、ツバメは幼馴染みのような存在だ。他にそんな相手はいない。なんで腹なんか立ててしまったんだろう。
鼻の頭がツンとなり、エンは母に包んで欲しくなった。隣室に向かって駆け出す。
扉を叩くと、すぐ開いた。ふっと母の匂いがして、エンは長衣を纏った足にしがみつく。
「どうした」
真上で低声が響き、エンは慌てて顔を上げた。父の美貌が、屈んできた。「早起きしたな。怖い夢でも見た?」
赤ちゃんみたいだと思われたかもしれない。
そう思うと、エンは顔が熱くなった。母にそう思われるのは気にならないのに、父にそう思われるのは何故か気恥ずかしい。
「ち、違うの――あの、あの、雪がね、雪が積もってたから、だから――だから――」
あぁ、と美声が応じ、エンは抱き上げられた。又、微かに花の香がした。いつもは母からする匂いだ。それが、今朝は父からも薫ってくる。父の傍に行くと、普段は干したての布団の匂いがするのだけれど……
視界が高くなったエンは、母の姿を捜した。母は、布団にくるまり、寝台で目を閉じていた。気持ち良さそうな寝顔だ。
「僕、教えてあげようと思ったんだけど……」
エンは呟くように言うと、言葉を切る。あんなに幸せそうに眠っている母を起こすのは、悪い気がした。
父は窓辺に寄り、外に目をやりながら、やんわりと言った。
「七時半に起こすから、そうしたら教えな。母上は、エンと雪だるまを作りたがるだろう。これだけ積もれば作れる」
父が普段通りで、しがみついたことが、エンは恥ずかしくなくなってきた。
「父上、今日、お仕事遅くからなんだよね。母上ね、昨日、お料理作りながら嬉しそうだった」
「ふぅん」
「お料理ね、とっても美味しいよ」
父は、ほんの少し眉を上げてこちらを見る。エンは舌を覗かせた。「明日ねって言われたけど、ちょっとつまみ食いしちゃった」
父は、くしゃくしゃっと髪を撫でてきた。
「母上と俺の分、残してある?」
大丈夫、とエンは答え、安堵からくすくす笑う。父は、こつんと額を叩いてきた。「けど、これっきりだ。母上は今日食べて欲しくて作ったんだから。気持ちを無駄にさせるな」
「――はい」
了解すると、父は唇の端を上げた。
「まぁ、今度食べたくなったら母上に言ってみな。ひょっとすると、いいって言う」
「あぁ、そっか」
エンが両手を合わせると、父は愉快そうな笑声を洩らした。
「どんどん母上に似てくるなぁ」
どうもそれは、褒め言葉らしかった。エンははにかんで笑みをこぼす。
それからしばらく窓外の雪景色を楽しんで、エンは床に下ろされた。迎えに行くから着替えの支度をしておきな、と背を押され、はぁい、と両親の部屋を後にする。
皇子が出ていき、皇帝は優雅に寝台へ歩み寄った。長い睫毛を伏せた妃を見下ろし、愛しげにその名を囁く。
「コトミ、一時間ぐらい寝る?」
漆黒の瞳が、甘えた風情をたたえて夫を見上げた。
「それより、珈琲をもう一杯下サイ」
青年は朝日を受け、蜜のような笑みを浮かべた。
「風呂の用意をしてから、さっきより濃いのを淹れる」
「大好き」
幸せそうに目を細めた妃に、帝はそっと笑みを寄せた。