28 二世界
波音が聞こえる。
エンは窓掛を少し寄せ、窓の外を見た。真っ暗で何も見えない。けれど、下方でざわめく水音が、繰り返し繰り返し聞こえる。
上方を見ても、碧界は星が少なく、やはり真っ暗だった。
地上に、明かりを持ってき過ぎた所為だったりして。
窓掛を閉め、エンは机に戻った。学習予定通りにやってみた理数学の問題を眺める。一応、解いてある。
「ツバメ……?」
呟くように呼びかけてみた。
応じて出てくる姿は無い。
溜め息をついて、エンは寝台に足を向けた。ラル宮殿の物より数段ふかふかしている寝台に寝転がる。枕元に置かれた時計は、十時半の辺りに針が来ていた。
この部屋は昔、父の部屋だったそうだ。父が翠界に戻った日から、殆どそのままにしてあると曾祖母が話してくれた。
立派な本棚には異界の文字で書かれた多数の本が並び、机の端には父の筆跡で記された大量の帳面があった。箪笥を開けると、上等な長衣から、ごくごく微かに父の匂いがした。
天井も壁も布張りで、床にも上質の絨毯が敷かれている。明かりは電気と言う物が通っていて部屋中を照らし出せる。広さ以外は、宮殿と呼ばれている翠界の家より、ずっと豪奢だった。
翠界とは比べ物にならない程、豊かな世界。
屋内外を問わず、方々に灯る明かり。自動車、飛行機、電車と言う素晴らしく速い乗り物。つまみを捻るだけで火が起こる台。術力が無くても、大層便利な生活を送れる。
それでも、エンは碧界をあまり好きになれなかった。
翠界よりもたくさんの人が居て、その分、たくさん便利にしたんだろう。親切からだろうに、何故かその数々が冷たく感じる。
何故なのか、聡い幼馴染みなら答えてくれる気がした。けれど、昨晩にちょこっと顔を見せたきり、今晩、ツバメは来ていない。
姿を見せた時は、驚いた。まさか異世界にまで遊びに来るとは思わなかったから。しかしその驚きは、別の驚きでかき消された。
常に、鏡を見ているかのようだったのに。昨日、ツバメの顔色は土気色だった。呼吸が乱れ、酷く苦しそうだった。
『ツバメ? 大丈夫――?』
駆け寄って問いかける間に、少年は激しく咳き込んだ。エンは、首に掛けていたからくりを急いで外した。『これ――これを掛けてみて』
ツバメは弱々しくエンの手を押しやり、蚊の鳴くような声で言った。
『母さんが傍に居ないと、駄目みたいだ』
言うなり瞬間移動で帰ってしまい、それきりである。
お蔭で、昨夜は一人で寝るのが怖くなってしまった。恥ずかしかったけれど、エンは母の部屋に行った。母は、喜んでエンを包んでくれた。
今宵は一人で眠れると思う。
今朝、母が同窓会へ出かけた直後に、父が来た。曾祖父母は涙を浮かべるほど喜んだし、エンもとてもホッとした。
夕食を囲んだ後、曾祖父母が勧めて、父は母を迎えに行った。まだ帰ってきていないが、心配無いだろう。ゆっくりしておいで、と曾祖父が言ったから、そうしているに違いない。
エンは起き上がると寝台を降りた。部屋の入口近くに、明かりのからくりがある。ぱちん、と契約神の好きそうな音がして、暗闇になった。エンは、寝台に戻ると横になった。
明日、きっと、きらきらした母上が起こしてくれる。
目を閉じ、父が隣に居て笑顔になっている母を思い浮かべた。
『琴巳ちゃん、びっくりするわね』
曾祖母が、にこにこしながら言っていた。その横で、母の出かけた場所が書かれた紙を見て、父が呟いた。
『瞬間移動が使えないと不便だな』
そう、瞬間移動には指輪が必要なのだ。対の輪が置いていない場所へは行けない。
誰かを思い浮かべるだけで傍に行くことができたなら、父は簡単に母を迎えに行けたろうに。
不意に、エンは何かが引っ掛かった。
エンと同い年だろうに、十代の父が使っていた異世界のこの部屋に、ツバメが対の輪を置いていたとは思えない。
昨日この場所には、何の術を使って……?
思えば、場所というより、ツバメはエンの傍に現れている気がする。
父上でも、一瞬で母上の傍へ行くことはできないのに。
ツバメはいつも、エンの傍。
エンは、ぞっとした。ツバメが、今も近くに居る気がした。
だが、それなら、これまでの説明がつく。エンの周りで起こった事々を全て知っていたのも、すぐエンの傍に現れることができたのも。
『一週間で帰るから、また遊びに来てね』
宮殿でエンが言った時、呆れたような顔をしていた理由も。
「ツ、ツバメ……?」
暗闇に、エンは恐る恐る、呼んでみた。「ツバメ……居る……?」
もしも居たら――?
ツバメは、一体、エンの何?
両親はツバメに気づいていない。エンにとって、時には両親よりも近しい存在なのに。
エンが泣きたい時、心細い時、苦しい時、ツバメが傍に居てくれて乗り越えられた時がたくさんある。
『母さんが傍に居ないと、駄目みたいだ』
か細い声が蘇り、どくん、とエンの胸が鳴った。
今、ツバメはどうしているのか。母は出かけてしまっている。
もしかして、呼んでも出てこないのは、昨日みたいに苦しんでいるからなんじゃ――
エンは横になったまま、闇の中で目を見張った。どうしよう、と洩らしそうになる。どうすればいいのか、判らない。
ぎゅっとエンは目をつぶった。
もうツバメが何者でも構わなかった。そんなことより、彼を失う方が、何倍も何倍も嫌だった。
母上、父上――お願い、早く帰ってきて!
切望しながら、エンは震える両手を握り締めた。
〝弟〟が変な恰好をしている。
そういえば、夢現に呼び声を聞いた。
今、室内は真っ暗のようだ。
怖いなら、電気を消さなければいいのに。世話が焼ける。
横たわったまま、くしゃっと片手で髪をかき上げた。かき上げた手が、白い輝きを纏って見えた。結界だ。
今朝、エンが戯れに張ったら楽になった。
だから撮影が済んで解いてしまった後、苦し紛れに試みた。呪文を宙に描く古代の術式で何とか成功し、こうして生き延びている。術書を読みあさっていた甲斐があった。
この状態で出れば、平気なんだろうか。
ふと、自嘲した。
〝弟〟が少し震えているからと言って、もはや危険と判っている世界になど出なくてもいいのに。
『碧界では――出ちゃ駄目だよ』
あの不思議な少年の言う通りだった。
その言を守っていたとしても、危うかった。
昨夜、初めての感覚があった。痛みと苦しさ。
碧界に着いてから、母と距離が開くと、胸が苦しくなった。精神的にではなく、物理的に。
翠界と同じ大気は、母の周囲にしか無かった。父が碧界で母に魅かれたのは、これも一因なんじゃないだろうか。
空気清浄機のみでエンが平然としているから、鍛えた父と碧界人の母の子だからだろうと判じていた。
よもや、この身だけが危うくなるなど、思いもしなかった。
昨夜エンが母の傍で眠ってくれなかったら、耐え切れたか判らない。
母は、本当に清浄の女神のよう。
ひょっとすると、精霊級。
翠界では、純粋の存在ゆえに、人として生まれたなら短命。繁殖力も低いとされている。
だが碧界の精霊級は、自分達を結実させたのか。
両手を顔の前に掲げる。白い光に、きらきらと包み込まれている。
綺麗だが、この結界の色は〝弟〟と違う。
自分達は、一つの存在ではなかった……?
ルウの民と精霊級の間に生まれた子だとしたら――
ルウと精霊を兼ね備えたか。
ルウと精霊とに別れたか。
二日後、母の弟である公士の婚の儀が行われた。
もう翠界に戻るまで〝外〟に出ないようにしようと思ったけれど。
鏡に映ったエンがあまりにも浮かない顔をしていたものだから、昨晩、ちょっとだけ出てやった。
『明後日には帰るんだから、そんな情けない顔をするな。明日は叔父さんの婚の儀じゃないか。さっさと寝て、しゃんとしろ』
エンは泣き笑いをするような顔をしていて。
今朝はだいぶん、いつもの子供っぽい顔になっていた。
碧界には塔のような建物が多い。
婚の儀は、そんな塔に隣接した、集会場に似た場所で行われた。
人の好さそうな老人が進行役を務めた。ルウの民は言霊を交わすだけだが、叔父達は指輪を交換したりしていた。
最後に両親が朝晩しているのと同じコトをしたら、儀式は終わったようだった。
続いてヒロウエンなるものがあるそうで、隣の塔に向けて招待客達は移動を始めた。
エンも、父に手を引かれて歩く。並んだ母が、共に参列していたシェリフを見上げた。
「フランスの結婚式もこんな感じですか?」
「所々似ている」
面子からするとリィリ共和国の医療所に居るような感じだったが、〝ハイ・エスト〟が実に砕けた態度だった。「フランスは、ぱーてぃが長い」
「夜明け頃まで?」
「近いな。午前二時、三時がざらだ」
へぇー、と母は楽しそうに応じる。
シェリフはどちらかと言うと医事者見習いに近い恰好で、首元に巻いた白い紐布を軽く緩めた。
「翠界では夜明けまでなのか」
新郎新婦にごく近しい者達は飲み明かす、と父が説明を入れる。
ふぅん、と口角を上げ、シェリフはエンに緑眼を流した。
「碧界はどうだい、燕」
話を振られたエンは、少々迷うように間を置いた。
「便利で、淋しい」
息子の答えに、微かに意外そうな目を父が落としてくる。シェリフは軽く首を傾けた。独り言のように言う。
「そっちの神とやらは、こっちを越える技術を持っているのに、何故、創った世界はああなんだろうと思っていた」
「あぁ、それは俺も不思議な気がしていた」
父も呟くように言う。「六神は自分達の住んでいる世界をそのまま縮小させてはいない」
「そこそこ不便な方が良いと判断したのか……?」
シェリフは愉快そうに皇子を見る。エンは考え考えの様子で問うた。
「不便だと淋しくないの?」
「君の周りでは、何かをする時、誰か居なくちゃいけないようになっているんだろう。でもこちらでは、誰も居なくてもいいようになっている」
やけに納得した口ぶりで、エンは言った。
「僕、居てほしいから淋しかったんだね」
まったくいつまでもコドモだなと、よぎったものの。
今は、それでいいとも思えた。
穏やかに、雫が大地を潤していく。
咲き乱れる花々は、きらきらと露に飾られていた。
少年の青味がかかった黒髪は艶を増し、雲間から差し始めた陽光を受け、丸く虹の冠を頂いているようだった。
草地に佇んでいた茶色い髪の少女が、気づいて口元をほころばせた。少年は、やぁ、と碧眼を細める。
「タハーラ、まだ少し、浄化は慣れないかな」
「だいぶ、大丈夫。わたし、流帝の孫に似ているそうです。時々、手伝ってくれます」
少年は記憶を辿るように少女を見つめてから、あぁ、と笑んだ。
「懐かしい……花緒か。遠慮無く手伝ってもらうといいよ。ルーは元々、人が好きだからね」
はにかみ顔で少女は頷く。少年は、ゆるりと顔を巡らせた。「泉に居なかったから、ここだろうと思ったけど……ケルに留守番でも頼まれたのかな」
「浄化に使う薬が無くなりそうで、貰いに来ました」
その返答に、少年はちょっぴり眉をひそめた。
「薬は定期的に届けるよう頼んでいる筈だけど」
少女は背にかかる髪を揺らす。琥珀に近い澄んだ双眸が、瑞々しい草地の一点を映した。
葉の大きな草の陰から、白髪の少女が四つん這いで出てきた。
「材料の一つが、瓶ごと何処かに行っちゃってるのよ」
会話が聞こえていたようで、ぶつぶつと言いながら少女は淡い若葉色の衣の裾をはたく。「ゼンに新しい瓶を作ってもらってちょうだい。あの薬はその都度作るの、面倒だわ」
「その辺に転がしているから、動物が咥えて行ったんじゃないか? 危ないなぁ」
ここの動物はそんなに馬鹿じゃないでしょ、と少女は水を含んだ長い白髪を重そうにかき上げる。
まぁ伝えておくよ、と少年は請け負い、新米タハーラに目をやる。
「ゼンには少し前に別件を頼んでしまったから、少し時間がかかるかもしれない。役目を押し付けておいてナンだけど、そんなに毎日勤しむことはないよ。楽しく過ごして、ついでにやってくれればいい」
白髪の少女が薄灰色の半眼を閉じる。
「悠長にしてたら、大陸もメイフェスも邪気だらけになっちゃうでしょうに。まともな術者が減ったら困るんでしょ」
「なに、そうなった時はそうなった時だよ」
少年は、ゆるりと口の端を緩めた。「そもそもは、当事者で何とかするべきことだ。邪は人の内からわくのだし」
「しょうがないわね、人間は」
灰の瞳に映ったあどけない顔が、困ったように少年を見上げる。長い指が、柔らかな大地の色の髪を梳いた。
「一番しょうがないのは、創り出した親神かもしれないけどね」
悪戯っぽく、少年は笑った。




