26 碧界へ
エンは、大陸の南西にある半島、ヴィンラ・タイディアに初めて来ていた。
父に連れられ、母とラル宮殿の後宮を出たのは三の月二十日の午前七時前だった。瞬間移動で現れた大陸はまだ十九日で、午後七時頃だ。
暗い木立の中を少し歩くと、視界が開けた。先ず、欠けゆく月に照らされた小さな泉が目に入る。そよ吹く風に緩くさざ波が起こり、無数の月影を生んでいた。
三人で畔に歩み寄る。
父が懐から何か取り出した。やわく月光が反射する。先端に飾りの付いた細い鎖らしい。母に向けつつ、言う。
「しぇりふは、すぐに来るから」
うん、と母は鎖を受け取り、父を見た。
「いってきます」
「あぁ」
やや小声で父は応じ、こちらを見た。「母上を頼んだぞ」
はい、とエンが頷くと、母はえくぼを浮かべた。繋いでいたエンの手を握り直す。
「エンも鎖を一緒に持ってね」
手にすると、父が懐に入れていた所為か、鎖はほんのり温かかった。
この鎖は何なのか。それに、これまで考えなかったが、異世界になんて、どうやって行くのだろう。荷物は、母の作った焼き菓子の包みと、エンの学習予定を書いた紙くらいである。
母を見上げたエンの横で、父が言った。
「濡れることはないから、そのまま入ればいい」
碧界って泉の中に在ったんだ!?
思わず水面を覗き込んだエンの手を、母がきゅっと握った。
「エン、一、二の三ね」
一、二の、三――
母が泉に踏み込むと同時に、エンも片足を飛び込ませる。
波の煌めきを見たと思ったら、もう瞳には違う物が映っていた。高価そうな花瓶の乗った、小ぶりの円卓。
足元がふかふかしていた。視線を落とすと毛織の絨毯だ。布靴は、父の言った通り、濡れていなかった。
父を捜して振り返ると、すぐ背後は木肌色の壁だった。
エンと母だけ、埃っぽい臭いのする、小さな部屋の中に来てしまっている。
窓が一つあり、向こう側は真っ暗だった。だのに、室内が全て見渡せる。暖炉も角灯も見当たらないのに、部屋全体が明るかった。
「ここ、泉の底なの?」
訊きながら上を見ると、天井から硝子らしき球が一つ吊るされていた。それが煌々と光っている。術の光を硝子球の中に入れてあるのか。
「ううん。もう碧界なの」
母はその場に立ったまま、向かいの壁に掛かっている絵を見ていた。「ここは、しぇりふさんと言って、お父様のお友達で、母様には教官だった人のお家よ」
言い終えてから、母は軽く咳をした。つと、心配そうにこちらを見る。
「息苦しくはない? 大丈夫?」
「平気。物置部屋みたいな臭いがするけど」
「そういえば、そんな臭いがするわね」
母は苦笑気味に微笑んだ。「きっとお外は、もっと臭いがきついわ。碧界は、翠界より空気が汚れてしまっているのよ」
だから、碧界は疎まれている。
ただそれだけのことで、母まで穢れていると思う人が居る。
エンが知らず唇を噛んだ時、一つだけあった扉からパチと音がした。
扉向こうから、ハイ・エストの声がした。
「入るよ」
「どうぞ」
応じた母が、何かを思い出したようにこちらを見た。「蒼杜さんじゃないのよ?」
エンが首を傾げる間に、扉が開く。寝間着のような服を着た医術師が入ってきた。
「ハイ・エストじゃないの?」
この前に会った時は白金の髪を項の辺りまで真っ直ぐのばしていたけれど、今日は少し短く刈り込んでいる。「髪の毛切ったんだね」
扉を閉めた青年は、おどけたように肩をすくめた。
「相変わらず似ているわけか」
「そっくりです」
母が、くすりと笑った。「エン、蒼杜さんじゃないの。しぇりふさんなのよ」
小さく口を開けて見上げるエンに、しぇりふは手を差し出してきた。
「はじめまして、ルウの皇子。俺はしぇりふ・どぅ・マーニュ。碧界にようこそ」
「あ――は、はじめまして」
ここは〝外〟かな、とエンは片手を服の裾で擦ってから、しぇりふと握手した。「燕・ラル・ルウと言います」
しぇりふは緑の目を細める。
「親子だな。初めて会った時の栩麗琇那を思い出す」
母が嬉しそうに顔をほころばせた。
「やっぱり似てます?」
「見た目? そうだね。それ以上に、纏っている雰囲気が似てる」
砕けた物言いをする〝ハイ・エスト〟に、エンはどぎまぎしてしまう。
しぇりふが母に手を向けた。心得たように、母は持っていた鎖を渡す。しぇりふは胸の隠しから取り出した紙切れを鎖に結わえ、向かいの壁へ歩いていった。先刻、母が眺めていた絵の方へ。
絵の前で寸時立ち止まり、青年はこちらへ踵を返した。胸の前で軽く開いた両手には、持っていた筈の鎖が無い。
母が、呟くように言った。
「行けないんですね」
「そう。残念ながら」
しぇりふは口の片端を上げる。「俺が向こうに踏み出したのと同時に蒼杜もこちらに踏み出せば、行けるかもしれない。ただ、寸分の狂いも許されないから、殆ど不可能だ。戻ることを考えたら、りすくも高過ぎる」
なるほど、と相槌を打つ母の横で、エンはようやく理解した。
どうやら、あの鎖を持っていると世界の行き来ができるのだ。ただ、ハイ・エストとしぇりふは例外らしい。だから、こちらの世界で鎖の取り扱いを任されているのだろう。
鎖の番人は、長袴の隠しに手を入れ、さて、と話題を変えた。
「御家族がお待ちかねだし、行くとしよう」
はい、と応じた母に、しぇりふは隠しから出した物を向けた。「一応、これを燕に。けーたいを模した空気清浄機だ。首からさげておくといい」
「わ、ありがとうございます」
受け取った母が、早速、エンの首に掛けてくれる。つるつるした丈夫そうな紐の先に、エンの手より大きな長方形の石が付いていた。ぴかぴかに磨き上げられていて、思ったよりもずっと軽い。
これは君用、と、しぇりふは続けて小箱を取り出しつつ言った。
「燕は結界を覚えたらしいけど、アレを張ってると、この世界じゃ不都合が多いからね」
確かに数日前、予想より早く術力が付いてきたみたいだな、と父が言い、丁度いい、と結界の張り方を教えてくれた。
『もしも碧界で息苦しいと思ったら、張るといい。けど、お祖父様とお祖母様が怪我をするといけないから、苦しくない時はあまり張らないでくれ』
小箱を手にした母が言う。
「セイデンキみたいなのが起こっちゃうらしいですね」
「この世界の人間は邪気を纏ってしまってるそうだ」
しぇりふは苦笑いを浮かべた。「でもどうやら、空気清浄機で何とかなりそうだな。この部屋にも取り付けておいたんだ。燕も君も大丈夫そうだね」
えぇ、と母が頷く。ちょっと臭いという感想を、エンは言わないことに決めた。
しぇりふが扉の把手に手をかけた。
「じゃあ、先ずは碧界の服に着替えを。着替えたら出発だ」
メイフェス・コートで三月二十日が暮れた。
定時になり、栩麗琇那はうつむきがちに執務室を出る。
昼休み、後宮に戻って、妻と息子が居なくなったことを実感した。
広い中庭で、琴巳の干していった洗濯物が風に揺れていた。それを眺めながら、彼女が作ってくれていた弁当を食べた。やる方ない思考を繰り返しながら。
帰ってきてくれると、信じている。けれど、不安を拭いきれない。
もしも順応の早い燕が碧界を気に入り、翠界には帰りたくないと訴えたら……
足が重かった。億劫だったが、長い廊下を何とか歩き通し、境界に辿り着く。
さっと席を立った境界役は、いつもと違う台詞を口にした。
「四時半より、琅玉殿が滞在中です」
「あぁ……そうだったな」
独り言のように栩麗琇那は応じた。昼と違い、後宮が無人でないことを思い出す。「御苦労だった」
扉に手をのばすと、帝、と境界役が困惑したような声をかけてきた。栩麗琇那はハタとする。鐘結界の手続をしていなかった。
結界を張り、気恥ずかしさに額を掻く。
「すまない」
「いえ」
生真面目に境界役は一礼した。「されば失礼いたします」
「あぁ、御苦労だった」
今一度言って、栩麗琇那は後宮に入る。後ろ手に扉を閉め、一つ息をついた。
真っ直ぐのびている薄暗い廊下が、一箇所だけ、ぼんやりと明るくなっている。扉の無い食堂から明かりが漏れているのだった。
皇妃が里帰り中、皇帝の食事の世話を老長の奥方がしてくれることになっていた。決めたのは栩麗琇那ではなく、琴巳である。異を唱えられるわけもなかった。
食欲は皆無だったが、明かりに向かってぽてぽて歩き、栩麗琇那は食堂の長い暖簾を分けた。
黒檀の卓にはクロスが敷かれているだけだったが、室内にはシチューらしき香が漂っていた。
「只今、戻りました」
「おかえりなさいまし」
言って、厨房から琅玉が出てきた。こちらを見るや立ち止まり、上から下まで眺めてくる。
栩麗琇那は当惑気味に見返した。妻より小柄な長夫人は、碧界の養母に似て少々ふっくらとしてきていた。三人もの子を産み育てた女性だ。
泰佐が栩麗琇那の養育係だった頃は、女手一つで子育てをしていたと聞く。故に、栩麗琇那は老長夫妻に頭が上がらない。
立ち尽くす皇帝の前で、琅玉は血色のいい顔を傾げた。
「上着が裏表に見受けられるのですが」
「え」
栩麗琇那は焦って我が身を確かめた。裏地が表に出ている。「あ……どうりで……」
先刻、すれ違う宮勤め達が、何となくおかしな顔つきをしていた。この所為だ。
「お疲れなれば、たくさん召し上がりますか? 本日は白煮込みを拵えました」
「あ、いえ。すみません、少なめで」
「畏みまして。足りなかったら、おかわりなさってくださいましね。お座りになっててください、御用意いたします」
琅玉が厨房へ入り、栩麗琇那は首の後ろをさすりつつ椅子に腰を落とす。
さほどせず、盆を手にした琅玉が戻ってきた。運んできた物を食卓に並べ始めたが、こちらを見ると手を止める。栩麗琇那様、と訝しそうな声を発した。
「裏がお気に召したのですか?」
はっとして栩麗琇那は腰を浮かした。上着を脱ぐことも、まともに着直すこともしていなかった。
おたおたと袖から腕を抜こうとした時、ビリッと派手な音がする。
げ。
そうっと袖から腕を抜くと、脇がカパカパしているのが判った。裂けてしまったようだ。琅玉の手前、確かめられず、脱ぎ終えた上着を丸めて隣の席に置く。
栩麗琇那が座り直すと、琅玉は黙って給仕を再開した。ナプキン、スプーン、フォーク、シチューの深皿、パンの小皿、サラダの皿、ポット、グラスが並んだ。シチューとパンからは、湯気と芳香が出ている。
ポットからグラスに水を注ぐと、琅玉は盆を脇に抱えて一歩退いた。
一向に食欲は湧かなかったが、いただきます、と栩麗琇那は杯に手をのばす。
待ちかねたように、琅玉が訊いてきた。
「そちらの上着は御自分で繕われるおつもりですか」
咄嗟に返事できずにいると、悪戯っ子をたしなめるように長夫人は言を継いだ。「わたくしがお預かりいたします。お直しして、明日にはお持ちします故」
「……ハイ」
身を縮める栩麗琇那に、琅玉は追い打ちをかける。
「あのままでは、お帰りになった琴巳様がびっくりなさいます」
コトミは、帰ってきてくれるでしょうか。
切実な問だったが吐露できず、栩麗琇那は再び、はい……とだけ言った。
長い長い夜が明けた。
一睡もできないまま、時計の針が六時に近づき、栩麗琇那は気だるい身を寝台から起こす。
いつから俺は、コトミが居ないと眠れなくなったんだ……
自身に呆れつつ、朝の日課にかかる。
水回りを清掃後、入浴をし、洗濯。干すことも、今日は全て自分でしなければならない。
天気はもつかな、と中庭に向いた窓から外を覗いた時、鈴の音が境界の扉付近に客を告げた。窓越しに琅玉が見え、洗濯駕籠を洗い場に置くと、栩麗琇那は食堂へ足を向ける。
「おはよう」
長暖簾を分けて食堂に入ると、昨夜の上着だろう、畳んだ服を卓上に置いた琅玉が振り返った。
「おはよう、ございます」
応じてくれたものの、まじまじと見上げてくる。栩麗琇那は慌てて我が身を見直した。裏を表にはしていない。
「な、何か――?」
「おぐしが、びしょ濡れに見受けられます」
ぱっと頭に手をやると、濡れそぼっている。
しまった……
今日は着替えを持って浴室に行くのを忘れ、入浴後、バスタオルを腰に巻いて寝室まで戻ったのだ。泡を食って衣服を着たもので、髪は後ろに撫でつけたきり、乾かすのを忘れていた。
「今、乾かそうと思っていたところでした」
下手な弁解をして、両手を髪にうずめると掌に術力を集めた。風呂の湯を沸かす要領で熱を使おうとしたのだが、焦げるような臭いがしてきて手を浮かす。
琅玉が、ほぼ母親の顔つきで、きびきびと言った。
「きちんと手拭いでお拭きなさいませ。お服も襟元がびっしょりです。着替えてくださいましね」
「は、はい」
「それから、お鬚を伸ばされるんですか?」
「い、いえ――剃ってきます」
栩麗琇那は食堂を退散する。
髪を乾かし、櫛で整え、鬚を剃り、服を着替えて、鏡で己をあちこち見回す。
目の下にうっすらと隈を見いだし、いささかぎょっとした。指の背でちょっと擦ったが消えるわけもない。諦めて寝室から廊下に出る。
中庭に面した窓を開け、物干し台を廊下の端に設置し、洗濯物を干した。中庭に干して、また何かヘマをしては困るからだ。
全て済ませて栩麗琇那が食堂へ戻ると、琅玉はこちらを視線でひと撫でし、宜しい、と言いたげな表情をする。すっかり母親の顔つきになっていた。
食卓に朝食が並んだ。トマトリゾットとフルーツ主体のサラダ、オレンジジュース。それぞれ、量は夕食の半分ほどになっている。昨夜、栩麗琇那が無理矢理食べた量だった。
やっとこさっとこリゾットとサラダを全て胃に送り込んだ頃、傍らに控えた琅玉が口を開いた。
「本日、昼休憩前に、泰佐がお伺いすると申しておりました」
「そうですか……あぁ、世会の報告ですね」
昨日は春分で、始祖の島では六神と大君が会合した筈だ。連絡など滅多に無いが、皇帝は結果を知っておかねばならない。その為、朝から、帝代理が代わりに出向く。
諒解して、栩麗琇那は果汁の満たされた硝子杯を手にする。琅玉が一呼吸置いて、言った。
「きちんとお休みになってくださいましね。泰佐が益々心配します。昨夜は寄合所で、皇妃がお里帰りされた途端に帝が壊れたと、笑い話になっていたそうでございますよ」
甘酸っぱい果汁を含んで、栩麗琇那は苦笑いする。
「今日は上着を着たままで居ます」
やれやれ、と言うように琅玉はこちらを見た。
「しっかりしてくださらないと、琴巳様に言いつけます」
栩麗琇那はジュースを吹き出しそうになった。咳き込みながら、気をつけます、と何とか言う。
琴巳にこの体たらくがバれるのは、プライドが許さなかった。
気を引き締めて午前の執務に入る。
十一時過ぎ、琅玉の言葉通り、泰佐が執務室に訪れた。
「先の世会に於いて、特別な御沙汰はありません」
帝代理の報告に、栩麗琇那は頷く。世会は年二回、春分と秋分の夜に開かれる。神がこの世界を見捨てていないと、ルウの民に知らせるのが目的だ。
栩麗琇那は一度だけ、碧界の話を希望され、参加したことがある。その時は長引いたが、大抵は、大した議論をするでもなく、短時間で終了しているようだ。
「御苦労さまでした」
労いに泰佐は一礼し、懐から何か取り出した。
「大君より、御許可をいただきました」
老長は進み出ると、机上に、書簡を置いた。「蒼杜・アリクにも連絡済みです。本日、午後七時には御出立を。どうぞ御支度ください」
いきなり何の話になったのか、ついて行けなかった。軽く瞬く。
「一体、何です」
「碧界へ、琴巳様と燕様をお迎えに」
栩麗琇那は、ぽかんとした。
泰佐は、真顔で言を継いだ。
「これ以上壊れてしまわれる前に、どうぞお出かけください」
「ま、待ってください――」
そんな恥ずかしい理由で迎えに行くなど、勘弁してほしかった。内心大いにうろたえつつ、書簡を開く。「昨日出かけたばかりです。それを迎えに行くなんて――」
【ラル家当主、一族及び皇領に甚大なる被害をもたらす前に、伴侶と子を迎えに行く事。
六暦六二一年三の月二十六日迄に、メイフェス・コートへ連れて戻るように。
右は勅命である。 枸紗名・ヒサージ・ルウ】
いやにくっきりと捺された大君の印に、栩麗琇那は頬が引きつる。その前で、泰佐が当然のように述べた。
「お里帰りのお話が出た時点で、我等皆、予感しておりました。故、お役目肩代わりの件を進めていた次第。ある意味、予定通りにございます」
絶句した栩麗琇那に、泰佐はとどめを放った。「昨日から今朝にかけての事々、琅玉から聞いております。お出かけくださらなければ、全て琴巳様に言いつけます」
完敗だった。
机上に両手をつくと、皇帝は帝代理に頭を下げた。




