25 春惜月
月が変わると、二人一組でやる課題が史学の他にも登場した。
一の月は史学のみだったが、二の月は理数学の宿題で。様々な物の測量や、天候の読み方を習練するのがその内容だ。組でやると、些細な間違いが格段に減るということだった。
二の月に入ってすぐ、新たに女の子が一名入学した。また一人になっちゃう、とエンはその子が紹介された時、心から歓迎できなかった。
ところが、一人になったのは別の同窓生となった。星花が、エンを変わらず誘ってくれたからだ。
結果、一人あぶれてしまった少年が泣き出し、又もや教室に気まずい空気が生じた。
耐えられなくなって、エンは星花に、自分は一人でもいいのでその子と組んだらどうかと提案した。そうしたら、星花は猛然と反論してきた。
『あのね、わたしたち二人は既にはみ出し者の洗礼を受けたの。一度で充分! 他の子も一人ずつ体験してみればいいの! あ、そうよ、そしたら一匹狼に目覚める子も居るんじゃない? そしたらそしたら、後はその子が孤独を愛すればいいのっ』
その日の夜は、ツバメが長いこと思い出し笑いをしていて、予習復習に手間取った。
幸いにも、次の週、更に一人の少女が追っかけ入学してきた。誰も独りぼっちにならなくなった。
入学の儀を思い返すに、後二名入ってくる筈だ。奇遇にも、現在、男子と女子は同数。誕生日が同じ男の子と女の子が入ってくれば丸く納まるね、と星花が言い、エンはこくこく頷いたものだ。まず無いな、とツバメは一蹴していたが。
続く入学者は無く、十四人で受けた月末の試験が終わり、暦は三の月になった。
初日、登校してきたエンの目に先ず入ったのは、いつも自分が座る辺りに出来ている人だかりだった。
円を作るように集まっている同窓生の横顔が何処となく剣呑で、エンは立ち止まる。行き場を失った心地で目を泳がせ、昨日の試験の結果順位を書き連ねた貼り紙に気づいた。一番上に〝燕〟がある。
良かった。父上と母上に褒めてもらえるや。ツバメも、教えた甲斐があった、って言ってくれる。
前回一緒に一番だった寿々玻は五番に下がっていた。六番に居た星花は四番に上がっている。
上がったね、と言えば、星花は関係有ることから無いことまで色々とお喋りしてくれるだろう。
エンは、教室でたった一人の友人の姿を捜した。ひょっとしたら、前方の面々の中に居るのか。
人の輪から少し外れた席には、寿々玻と能登と尾久が座っていた。割と遅刻の多い銘大は、まだのようだ。三人共、輪に注目しているそぶりがある。
星花が居るかどうかだけ確かめようと、エンは同窓生達に近寄った。輪を構成していた五、六人の子供が、あ、と言いたげな顔をして二、三歩退く。
星花が、輪の中心に居た。綺麗な顔をぶすっとさせている。エンと目が合うと、素早く周りを見回した。
「誘いたかったら誘えばっ」
沈黙が漂った。
エンはわけが解らず、鞄を肩から下ろすこともできず、場違いな所に入ってきてしまった感で友人を見た。
「あの、何……?」
星花は口を尖らせて言った。
「今月も二人でやる宿題が出たら、貴男とやりたいんですって」
「僕と、組んでくれるの?」
「今まで仲間外れにしてたくせに、ちょーっと二連続で首席になったら掌返すなんて、見え見えでイヤラシイよ」
星花は益々口を突き出した。「って言ったら、みんな、怒り出してさ。多勢に無勢だから折れたのよ――じゃ、誘えばいい。でもわたしも誘うわよって。そしたら、今度は黙りこくるし」
エンは困惑して一同を見た。取り巻いていた内の一人が、不服そうに訴えた。
「皇子は、いろんな子と組んだこと無いもん。ずっと星花君と組んでるから、星花君が誘ったら、僕らが誘っても星花君と組むでしょ」
「……うん、そうだね……ごめんね」
エンがそう応じると、星花はころっと満足そうな顔になった。けれど、周りは当然ながら冴えない表情のままだ。又、中の一人が言った。
「寿々玻君をみんなが誘いたかった時は、自然に、手三種で勝てたら組むって感じだったのに……」
皆の視線が向いた。見られた寿々玻は、困ったように少し目を逸らした。それでも、意見を述べる。
「いろんな相手と組むのも面白いよ。今は誰もあぶれずに二人組が作れるし、皇子さえ良ければ、手三種で決めてみたら……?」
ようやく多くの表情が和らいだ。エンも、他の子と関わることに興味が湧いた。が、星花は再び膨れっ面になっていた。
「わたし、手三種弱いの。燕君と組めなかった誰かと組むことになっちゃうから、嫌よ」
勝手なことばっかり、と誰かが言った。
最初に勝手なことを言ってきたのはそっちじゃない、と星花は言い返した。
「大体、めーだい君には何も言わないで、わたしには言ってくるなんて馬鹿にしてるわ。同じように寿々玻君を殆ど独り占めしてるのに」
痛い点だったのか、周りが言葉に詰まる。エンは、これ以上こじれるのは良くない気がした。何せ、後六年弱はこの顔ぶれで授業を受けるのだから。
「ねぇ、こんなことで喧嘩はよそうよ。二人組も毎回、教官に指定してもらわない? それなら、誰と組むことになっても、一応、納得できるでしょ」
なるほど、といった顔を何人かが見せたが、数人が肩をすくめた。
「いろんな人と組ませてくれるかなぁ。今まで組んでた人と組み合わせちゃうんじゃない?」
そういう点に関して教官達がいい加減だというのは、エンだけが思っていたのではないらしい。
一から七まで紙に書いたくじを、ふた組作って、みんなで一本ずつ引くのはどうかな。
エンが新しい案を考えついたのとほぼ同時に、寿々玻が静かに言った。
「そろそろ始業だし、取り敢えず今度は手三種で決めたら? で、星花君、負けたら、僕と組まない?」
二ヵ月前、憧れていたと明言していた相手からの言葉である。星花は、ちょっともじもじしてから、う、うん……と応じた。
お蔭で、皆は何となく仲直りができた。エンが見守る中、揃って手三種をし、星花は言葉どおり初めで負けてしまい、苦笑い。勝ち残った少年と、宜しくね、とエンは笑顔を交わした。
寿々玻と組むことになったものの、いつものように星花はエンの隣に座った。一緒に手三種をした六人も、星花と角を突き合わせるのはやめたか、近くに座った。思いがけず友達ができたようで、エンは嬉しかった。
こうして、一つの嵐はさほど猛威を振るわず終息し、新たな嵐がやって来る……
一科始業の十分前、螺旋階段から足音が聞こえてきた。今日は連絡事項があるらしい。
エンは不安な心地で、降りてきたユウタ担当を見た。もしも新たに誰か入学してくる知らせだったら、又、誰と組むかで揉めることになりかねない。周りも同じことを思ったのか、空気が緊張した。
教壇に立ったユウタは澄ました態度で、ぱんっと手を叩く。
「本日から同窓の仲間が一名加わる。前に来るんだ、ライリ君。黒板に名前の真名を」
子供達は新顔を捜し、それぞれ視線を巡らせた。けれど、担当の声に応じる者がない。
室内を一瞥し、ユウタは不快そうに四角い顔の口を横一文字にした。
「居ないのか」
その台詞が終わらないうちに、教室へ向かって走ってくる足音が響いてきた。一つではなく複数。
先ずは銘大が走り込んできた。来るなり、勝ち誇ったようにキンキン声で言う。
「食糧役がボクを抜かそうなんて百年早いや!」
続いてすぐに、見慣れない少年が駆け込んできた。他の五歳児と違って、端正な顔が少し日に焼けている。茶色の髪も、短く刈り込んでいた。少年は銘大には反応せず、壇上の担当教官を見て立ち止まり、言った。
「遅れてすみません」
言われて教官に気づいたのか、銘大はハタと表情を改めた。おはようございます、と棒読みな挨拶を前方に放つと、口をへの字にして寿々玻の方へ行く。
ユウタはフンと鼻を鳴らし、名前の真名を、と黒板を示した。
はい、と少年は応え、〝頼里〟と上手な字を書いた。よぉし、とユウタは言ったが、付け足した。
「初日から遅れて来るのはいかんなぁ。君は既に、同窓生より二ヵ月分の学習が遅れているんだから」
はい、と頼里はややうつむく。食糧役がついて来れるわけないよ、と嘲るように言う銘大のひそひそ声が聞こえ、エンは眉根を寄せた。
銘大は先程から、やけに食糧役を蔑む。食糧役はこの島の住人の為に食べ物の一部を作ってくれている、とても大事な役目の人達ではないのか。
しばしば、銘大は周りを見下す言動をする。エンのことは未だに人殺し呼ばわりだ。
星花が教えてくれたのだが、銘大の父親は都で寄合所の若長をしているらしい。老の次くらいに偉い役なのだそうだ。聞いた時、身分なんて所詮は飾りだ、と言ったツバメの台詞が少し解った。人柄と身分は、必ずしも一致しない。
始業の鈴が鳴った。
座っていいぞ、と言い置き、ユウタは階段を上がっていった。最前列に座っているエンは、布にくるんだ道具一式を抱え直した頼里と、目が合った。あれだけ銘大に馬鹿にされても、深い臙脂色の眼差しが毅然としている。
感嘆から一瞬見とれ、次いで何となしに、エンは片方空いていた席に手を置いた。
「ここ、良かったら」
頼里はちょっと驚いたような顔をして、首を振った。教壇を降りると、周りに誰も居ない後ろの席に着く。エンと同じく目で追っていたのか、星花がこそっと囁いてきた。
「一匹狼っぽいね。誰とも組めなくても平気かな」
「史学はいいかもしれないけど、理数学は初めから一人って心細そう」
エンは、先日受け取った三の月二十日から一週間の学習予定表を思い出しつつ、言った。「今月の後半、升に入れた水の量とかを計算したりするみたいだもの」
「えっ、うえー、計算は一人でやりたくないわ」
うん、と同意した時、語学教官の麻政が教室に入ってきた。一科が始まり、二人はお喋りをやめる。
語学は今月も、公用語での読み書き修練に終始するようだ。公用語で書かれた短い物語を数章ずつ朗読し、時間の終わりに、その日に新しく出てきた十の真名の書き取り小試験を行う。
これまで遅れて入学してきた子は大抵、最初の小試験の成績が悪かった。問題となる真名は毎日少しずつ難しいモノになっているのに、いきなり書いてみろと言われても無理な話だ。
ところが、頼里は十問中八問正解してのけた。
終業後にユウタが階下にやって来て、新入生、と紙片を渡すと、ほぅ、と麻政教官は呟くように言った。
「覚えの無い顔だと思っていたら新しい子か。頑張って独学していたんだね」
この調子で努力するといい、と頼里に微笑んで麻政は教室を出ていく。
頼里少年は得意げな様子も見せず、理数学の教本や十露盤を机に出し始めた。前方の席から眺めやりつつ、星花が面白そうに言った。
「燕君、碧界になんか行ってたら抜かされちゃうかもよ」
「うん。僕、向こうでも、できるだけ勉強する」
魔術の殆ど使えない出来損ないの皇子だ。他の勉強ぐらいはまともな成績を出して、面目を保ちたい。生真面目に応えたエンに、星花はほんのちょっと心配そうな顔をした。
「碧界って邪気が充満してるんでしょう? 勉強なんかできるのかしら」
「父上も母上も、向こうの上級学舎を卒業したんだって。大丈夫だよ」
「……あのね、元気に帰ってきてね」
星花は真顔になって言った。「わたし、今、一番の仲良しは燕君なんだから」
「そうなの?」
エンは、とても嬉しくなった。はにかんで笑みをこぼす。「じゃあ、僕、帰ってこなきゃね」
うん、と星花がにっこりすると、二科始業の鈴が鳴った。
理数学教官の丙亮は几帳面で、教室にすぐやって来る。本日も例に漏れず、きびきびと入ってきて授業が始まった。
今週は掛算を覚えるとのことで、手法の説明を受けた後、子供達は練習問題に挑まされた。
終業時刻が近づくと、丙亮は黒板に二十問も新たに書き並べた。そして、常套句を口にした。
「これは今日の宿題です。今回も二人一組で解いてみるように。手分けしても良いし、各々解いてから答合わせをするも良い。但し、大人に手伝ってもらってはいけませんよ。各自の正解数で、今月も二十九日に御褒美をあげます」
先月の褒美は教官お手製の飴だった。今月は何だろう。何であれ、五歳児達の多くは、今月も理数学の宿題を真剣に取り組むに違いない。エンも星花と、先月、張り切った。ツバメは冷めた目をしていたが。
子供達が帳面に問題を写し終えた頃、丁度、終業を知らせる鈴が鳴った。黒板を丁寧に布で拭き取り、では終わります、と丙亮は告げる。
丙亮が時間通りに動くと判っているようで、ユウタが足早に階段を降りてきた。新入生、と紙片を渡す。教官は頷いて受け取ると、せかせか教室を出ていった。担当もさっさと二階へ戻っていく。
教室が子供達だけになると、一斉に組作りが始まった。
エンは、手三種で組むことが決まった少年と目を見交わしたが、後ろの席が気になった。頼里はぽつんと座ったままで、何が始まったのかと言いたげに同窓生に目を走らせている。
と、銘大の甲高い声が叫ぶように言った。
「酷いよ、ボクが来る前に決めちゃうなんてっ」
見ると、頬を紅潮させた銘大が寿々玻に詰め寄っていた。「大体、星花って、いつも人殺しと組んでる奴じゃないかっ。なんでそんなのと組むのさ!?」
「僕、二の月試験で順位が落ちてしまったから、勉強の仕方とか、教えてもらおうと思ったんだよ」
寿々玻が困り顔で、それでも冷静に言った。「理数学は特に、先月は君、ずっと僕と組んだだろう? 君も、違う人と計算練習してみた方がいいと思う」
「ヤだよ! 酷いや、ボクが計算苦手なの知ってるくせにっ」
鼻の頭まで赤くさせた銘大は、立ち尽くしていた星花をキッと睨みつけた。「何なんだよ、お前っ。人殺しと組んでろよっ」
星花はムッとした顔で一旦口を開きかけたが、きゅっと唇を引き結んだ。母親から、銘大とは揉め事を起こすなと言われているそうなのだ。
寿々玻が、眉をひそめた。
「星花君には、僕から組もうって言ったんだ」
「取り消せばいいじゃんっ」
唾を飛ばして言い切った銘大を、エンは呆気にとられて見つめた。視線に気づいたのか、銘大は憎々しげにこちらを見た。「人殺しと組む奴なんて、ろくなのじゃないって決まってる」
エンと組もうとしていた少年が、うつむく。
星花が、絞り出すように言った。
「わたし、宿題、一人でやる……ごめん、寿々玻君」
寿々玻は目を落とし、そう……と応じる。銘大が満足したように勢い良く鼻を啜り上げ、寿々玻の隣に座った。自分が組む相手は決定したと確信したのか、神学の教本を出し始める。
星花は下唇を噛んで、くるりと前に向き直ると椅子に座り込んだ。成り行きに息を潜めていた他の子供達は、少々小声で、自分が組む相手を決め出す。
エンは、自分を一番の仲良しだと言ってくれた星花を一人にしたくなかった。エンと組む予定だった少年に提案する。
「君、星花と組まない?」
「え、ボク……」
少年は口ごもって横手を見た。「あの……やっぱり、いつも組んでる子と……」
「そか……そうだね」
エンは察して、小さく笑って見せた。ごめん、と口早に言って、少年は見守るようにしていた五人の同窓生の輪に加わる。
歯がゆさに目を泳がせたエンは、頼里を見留めた。少年は銘大の方を見ていたが、すぐこちらに気づいた。目を逸らさず見返してきたので、エンは口を開いた。
「頼里君、課題を星花とやってみない?」
「皇子は、組まないの?」
状況をしっかり把握しているらしい返答に、エンは頷いた。
「一人余るんだ。丁度、僕、今月は四週から五週にかけて休学するの。組の課題は一人でやった方が良さそうでしょ?」
フゥン、と応じ、頼里はエンの隣に目を流す。星花が振り返っていて、エンと頼里を交互に見ていた。
星花と頼里が、互いに向け、同時に言った。
「良かったら、一緒に――」
「決まったね」
エンはくすくす笑った。一人になってしまったけれど、何故か清々しかった。
三の月に入ったコートリ・プノスは、穏やかな陽光を浴び、午後二時を迎えている。
網の目のような小路を、迷いを見せずに銘大が駆けていく。一軒のありふれた二階家の前で立ち止まると、上の窓へ向けて高い声を張り上げた。
「能登ー、玉投げしよーっ」
さほどせず、両開きの窓が外へ向けて開いた。能登と尾久が顔を覗かせ、銘大は軽く顔を傾けた。「尾久も居たのか、丁度いいや。遊ぼうよ」
尾久が、小さな目を精一杯丸めて問うた。
「理数学の宿題、もう終わったの?」
「さっぱり解んないから、明日、寿々玻に見せてもらうんだ」
いいなぁ、と能登が言い、尾久は肩をすくめる。
「おれ達、やっと五問解いたところだよ」
「えーっ、そんなんじゃ、いつ終わるんだよ」
銘大は口を尖らせた。「お前らも見せてもらえばいいじゃん。降りてこいよー」
能登と尾久は顔を見合わせた。能登が応じるように手を振ると、尾久が、そばかすの散った顔を僅かにしかめた。
「見せてもらうんじゃ、怠けてるのと一緒だよ。宿題怠けたら、おれ、父様に怒られちゃうよ」
「黙ってれば判んないだろ。寿々玻なら、ひょっとしたら全問正解だ。御褒美もばっちりだぞ」
踵を返した能登に、渋々といった感で尾久は続く。
三人は、首都の外れの草地に出て、玉投げをした。
投げられた小さな玉を受け取り損ね、走ることも多い。一時間もすると、三人は心地好く疲れて草地に寝転んだ。
乱れていた息が元に戻った頃、銘大が身を起こし、草地に置いていた玉を見た。近くの草がパシと弾け飛ぶ。
額の汗を服の袖で拭い、銘大は口を曲げた。
「どうも眼力、上手くいかない」
「お、教わらずに眼力は危ないよ。教わるまでは、移動と発光以外の使用を禁止されてるじゃん」
尾久が慌てたように半身を起こす。能登が胡坐をかいた。
「ユウタ担当って銘大の父様の友達なんだろ。教えてもらえないの?」
「あの担当は友達じゃないし、魔術教官でもない。ただの警備役」
銘大は口を歪めて言った。「父上は魔術教官が務まる者を連れてくるようにって警備隊長に命じたのに、今年は忙しいから六の月いっぱいまでしか人員を割けないとか言って、あの担当が連れてこられたんだ」
えっ、と、能登と尾久は目を見張る。能登は眉根を寄せた。
「じゃあ、七の月からどうなるの」
「父上が選んでるとこなんだけど、皇帝が口出ししてきてるらしい」
銘大の言に、尾久が複雑そうな顔になる。
「帝が決めてくれるんなら、そっちの方がいいんじゃないの……?」
「何言ってんだよ! 邪界人の女を皇妃にしちゃった皇帝が決める教官なんて、ろくなのじゃないぞ!」
一際高い声で銘大は喚いた。「きっとあの邪界の血が混じった出来損ないに合わせて、へぼ教官に決めちゃうに違いないんだっ」
あー、と能登が嘆くような声をあげた。
「あのてんで意気地の無い、出来損ないに合わせた教官になるのかぁ」
「だから、今のうちから自力で覚えるしかないのさ」
銘大は大きく鼻息を出して玉を見た。
ぼふっと、近くの草地が土埃を上げた。
春分を一週間後に控えた深夜、満ちた月を窓辺で見ていた幼子は、微かな足音に気づいて張出から滑り降りた。
寝台で眠る瓜二つの姿に添うと、子供部屋の前で音が止まった。静かに扉が開く。
月明かりで、父だと判った。
密やかに近づいてくる。
もしや――
察した時には、その術式が始まっていた。
突如、圧倒的な眩い光に包まれた。
何をされているのか、具体的に知ることが叶わない。しかし恐らく、封印術だ。
せっかく、僅かなり術力が引き出せるようになっていたのに。
又も無為な日々を過ごさねばならないのか。
それより、何が起こるか判らない異界に行くのに、術力が使えない状態にされては――
足掻きたくとも、自分にはどうすることもできない。
最初に封じられた時も、気づいたらこの状態だった。
否、封じられる前の記憶は無い。
目覚めたら、この状況だったのだ。
どうにか自由になりたくて書物を読みあさったけれど、はっきりとした打開策を得られないまま今日まで来てしまった。
そして又、ふりだしに戻されるのか――
どれくらい経ったろうか。
視界を埋め尽くしていた光が消えた。
急いで辺りを窺えば、そっと立ち去る父の背中が見えた。扉が閉まる。
何事も無かったかのような、寝息が聞こえる。
数歩、離れてみた。
何となく、右手に違和感がある。喉の封印が解けた時と同じような……
解除されてる――?
瞠目して横たわる右手と見比べる。投げ出された手から、緩く術力の波が立ち上っていた。
封じるのではなく、解除したのか――!
湧き上がる興奮のまま、手に術力を集められるか試みる。
何事も起こらない。
自棄くそで手を振り回してみたが、虚しくなっただけだった。
「まだ駄目なのか……っ」
窓辺の張出に拳を当て、押し殺した声を絞り出した。
ふと、部屋に射し込む月光が遮られた。顔を上げ、ぎょっとする。
窓硝子の向こうに、人が居た。
この部屋の外、下は水堀だ。部屋は実質二、三階に位置するような構造なのに、目の高さに十代半ば程の少年が居る。闇に溶け込んだ髪色、夜を吸収しきれず煌めく碧い瞳。
今まで、エン以外と視線がしっかり合ったことは無かった。なのに、少年の双眸は、こちらを真っ直ぐ見ている気がした。
思わず後ずさったら、少年はふっと笑んだ。
窓越しに、唇が開いた。辛うじて声が届く。
「やぁ」
返せずにいると、構わず少年は続けた。「碧界に行くそうだから、忠告しに来た」
何者なのか。何故、ルウの皇子が異界へ行くと知っているのか。
何より、自分が、どうして見えているのか。
「碧界では、そうして出ちゃ駄目だよ」
少年はそう言ってから優しく目を細め、すっと視界から消えた。
出るなと言うのか――つまりここは、出ている場だと言うのか。
自分も、そういう表現を使っていたけれど。
茫然と、立ち尽くす。
月が、傾いていった。




