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燕二人  作者: K+
六暦620
14/45

13 遊び

 七の月中旬の朝、いつものように、エンは父に髪を洗ってもらっていた。

 一日の内で父と過ごした気がするのは、この入浴の三十分余りだ。

 他の時、父の気持ちの大半は母に向いている。もしかすると、母がエンに微笑んだり話しかけてくれなかったら、父はエンがそばに居ること自体、気づいてくれないかもしれない。

 年の初めに母が贈ってくれた〝水入らず〟の二日間が、エンが一番長く父と居られた記録だ。もうそれがずっと最高記録だろうな、とツバメが言っていた。エンもそう思う。あれ以来、両親は前よりも仲良く二人で居るようになった。

 エンは、それで構わなかった。父のコトが解らなくなったら母に訊けばいいし、母のコトを知りたければ父に尋ねればいい。ちゃんと父母は教えてくれる。

 きゅっと目をつぶったままで、エンは己が頭をさするように洗ってくれる父に言った。

「今日の母上、大盤振る舞いじゃない? 僕、食後にあんなに色々食べたの初めてだよ」

 普段は、朝御飯の後には果物が出る。今日は、おやつに出てくるような生菓子が出てきた。それも、一口ずつだったが、何種類も。

 エンが平らげると、どれが一番好き? と母は問うた。

 全部、と答えたら、母は嬉しそうだったけれど、ちょっと困ったような顔もしていた。

羽衣(うい)がどれを気に入るか、判らないからだろう」

 エンの頭に、父の大きな手が乗った。「母上は羽衣と仲良くしたいから、自分のできる精一杯をしたいんだ」

 あぁ、とエンは合点する。本日、柴希(さいき)が一歳半になった娘を連れて来る。

 羽衣は昼間、祖父母と過ごしているが、このところ両親を恋しがるようになったらしい。それを聞いた母が、ここに連れて来ない? と提案したのだ。

 父の手が頭上で止まったのは、後は自分で洗ってみな、という意味だった。エンは目をつぶったままで、先ず大きな手に触れる。今までは最初から最後まで父がしてくれていたが、今月に入った頃から、仕上げをやらされるようになった。

「母上はタハーラに好かれてるから、誰でも仲良くしてくれるよねぇ」

 石鹸の泡が入って来るとしみるので、エンは一層目をつぶり、もさもさ髪をかき回す。そうだな、と少し可笑しそうに父の低声が応じた。

 エンがこわごわやっているうちに父は自分の髪を洗ってしまい、ゆすぐのはほぼ同時だ。流すぞ、と言う合図の後に頭上から湯がどんどん降ってくる。この時は口もしっかりつむっていないと、石鹸や精油の変てこな味を舐める羽目になる。

 今日は無事に済み、エンは目をしばたたかせながら再び口を開いた。

「もし仲良くしてくれなくても、タハーラってウル・ラ・カーの友達なんでしょ? オク・マールに頼めば、好きになってもらえるおまじないを教えてくれそうだよね」

「……いつの間に……随分と、神々に詳しくなったな」

 手拭いに石鹸をつけていた父は、こちらを見た。泡の付いた手をゆすぎ、水のしたたる前髪を撫で上げる。「蒼杜から借りた本にでも載ってたか」

 後半は独り言みたいで、エンはホッとした。

 確かに、母がハイ・エストから借りてくる本にも、世界を創った六の神や果ての地に住むという大陸神は出てくる。けれど、詳しくなったのは名前を出せない幼馴染みから聞いたからだ。

 ツバメはこの半年、不思議な言葉遊びに熱中している。

 初めに何か一つを挙げ、関連のある幾つかの言葉を、エンに探させる。謎々のような感じなのだが、エンのまるっきり知らない事々も多く、結局ツバメが一人で並べ立てる。関わりのある言葉は必ず六つあり、ツバメはいちいちエンに復唱させた。

 始めたての頃は、何も知らないことを馬鹿にされているようで全然面白くなかった。そのうち、繰り返す言葉についてツバメが何かしら教えてくれるのが楽しくなった。

 この頃は、飽きてきた。逸話無しで、大陸に在るらしい川や山の名を言うばかりになったので。早くツバメも飽きてくれないかな、とエンは思っている。

 エンは身体を洗いつつ、ツバメのコトは出さないように、慎重に言った。

「僕ね、神のコト知ってるのは、名前と(つかさ)だけだよ?」

「それでもいい。初級学舎に入ると習うことだし、今のうちから覚えておいて損はない」

 父はエンの背中を洗ってくれながら、エンの大好きな、穏やかな口調で言を継いだ。「よく覚えたな」

 父に褒めてもらえたから、エンはツバメのおかしな遊びに、もうしばらく付き合おうかなと思い直した。



 午後の定時を過ぎ、区切りのいいところで仕事を止めると、栩麗琇那(くりしゅうな)は執務室を出た。

 多くは皇帝と同じく終業で、執務宮の廊下は帰宅する宮勤めのざわめきに包まれている。

 栩麗琇那も、夏の日暮れどき独特の開放的な空気を感じつつ〝自宅〟へ向かった。通りすがる者が律義に示してくる礼に、軽く片手を上げて応じる。

 境界の扉まで来ると、境界役が席を立った。昨今の常套句プラス・アルファを口にする。

「柴希殿と羽衣嬢が滞在中です」

 御苦労だった、とこちらは常套句だけを返す。

 鐘結界の張り替えをし、これまた生真面目に一礼してくる境界役に片手を上げて応えると、栩麗琇那は扉を開けた。

 昼に戻ってきた時は、琴巳(ことみ)が柴希の娘を抱きかかえて出迎えてくれた。願い通りに打ち解けられたようで、昼食時に妻がした話は羽衣のことばかりだった。

 晩御飯も羽衣尽くしかな、と栩麗琇那は半ば覚悟して後宮の廊下を歩き出す。覚悟といっても、〝燕尽くし〟が〝羽衣尽くし〟に変わるだけだ。愛しい姿を見つめ愛しい声に耳を傾けるのは、やぶさかではない。

 廊下の小窓から、中庭を出る人影が見えた。

 一つ目の角を曲がった所で、燕に手を引かれて小走りに来る琴巳と目が合った。

 ん? と思う間に、おかえりなさぁい、と母親の手を放した燕にしがみつかれる。栩麗琇那は受け止め、抱き上げながら再び妻に目をやった。

 琴巳は微笑み、おかえりなさい、と可愛らしく言う。いつも通りであり、朝方より、昼より、素敵に見える。

「ただいま」

 言いつつ、気の所為か、と思う視界の先で、娘を抱えた柴希が黙礼した。

「眠っておりまして、無作法、お許しを」

「あぁ、全く構わない」

 栩麗琇那が幼子の気持ち良さそうな寝顔を見やる隣で、琴巳は名残惜しそうな顔をした。

「又、一緒に来て?」

 御意、と柴希はおどけた口振りで応じる。

「では又、日を決めて許可証を書こう」

 栩麗琇那が言葉を添えると、柴希は今一度恭しく辞儀をして後宮を出ていった。多分、娘の〝初出仕〟にそわそわしていた和斗と、宮の門前辺りで合流し、家族三人で帰るだろう。

 きゅっと首に抱きついてきた燕に土と芝と汗の混ざった臭いを嗅ぎ取り、栩麗琇那は琴巳を見た。

「そろそろ、二度、風呂に入れる季節かな」

「ん。いいかも」

 翠界の一般家庭では、明かりを使わずに済むよう、入浴は日のある内にする。皇帝一家は毎日朝食前に入っているが、日の長くなる夏場は夕食前にも入っていた。

「じゃ、用意する」

 栩麗琇那は燕を床に下ろし、小さな背中を押した。「母上を手伝いな」

「はぁい」

 燕は素直な返事をして、今度は母親の腕にしがみついた。琴巳は顔をほころばせ、厨房へ足を向ける。

 細い腕にべったりくっついて歩く息子にささやかな羨望を抱いてしまい、栩麗琇那は苦笑いすると浴室へ向かった。



 息子はリィリ共和国に居た生後ひと月の間だけ琴巳に入浴させてもらっていたが、その後、ラル宮殿に来てからは栩麗琇那がさせている。

 燕は日中の事々を、琴巳そっくりの言い回しで話した。夕闇で赤紫色に染め上げられた小窓の擦り硝子を眺め、栩麗琇那は相槌を打ちつつ浴槽に足をのばす。

 その昔は寮のように使われていた所為で、ラル宮殿の浴室は大きい。掃除は手間だが、広い湯船にゆったりつかれるのは格別だ。

 中庭にある土の更地に馬の絵を描いてみたとか、結局おやつは琴巳特製のプリンだった等のあらましを聞くうち、栩麗琇那はふと気づいた。

 客なんて久々だった筈だ。かっこうの話題だろうに――

 琴巳は昼の段階であれだけ話題に乗せた羽衣を、燕はまるで出してこない。

 栩麗琇那は、寛いでいた気分を改めた。

「エンは、今度いつ羽衣に来て欲しい?」

 隣で平泳ぎの手つきで湯をかいていた燕は、ぱしゃと背後に湯を払った。

 揺れた水面が、徐々に静まる。

 なお鳴いている蝉の声が、遠く聞こえてきた。

 栩麗琇那が別のことを言いかけると、先に燕がそれを口にした。

「もう羽衣には来てほしくない」

「…………」

「母上と柴希をとっちゃうんだもの」

 燕は口をすぼめた。「僕は嫉妬してるの。柴希はとられてもしょうがないけど、母上は僕の母上だもん」

 五歳未満で嫉妬を理解していることに驚いたが、表には出さない。栩麗琇那は、雫のつたう前髪を撫で上げた。

「羽衣はいつも、今日のエンと同じ気持ちだ。母上や、遊んでくれる人をとられてる。それは解ってるか」

 燕は下唇を噛む。栩麗琇那は両手を組むと半ば湯に沈め、ぴゅっと水鉄砲を飛ばした。「羽衣は一年半我慢した。エンもせめて一年半分、たまのことだ、母上を譲ったらどうだ――概算すると、残り五百回」

「……五百……?」

 情けなさそうな顔で繰り返し、燕は小さな手で真似をした。細く湯が飛び跳ねる。

 できた、と呟くように言う息子に、栩麗琇那は飛ばしてやった。ワァ、と燕は楽しそうに避ける。

「今度羽衣が来たら、水遊びしたらどうだ」

 頷いた幼子は、クスクス笑い出し、こちらに向けて湯を飛ばしてくる。まともにかけられ、栩麗琇那はぷるっと頭を振った。「こら――目と耳は狙うな」

 はぁい、と応じると、燕はばしゃばしゃと湯をかけてきた。栩麗琇那は、つい応酬する。

 浴室が薄暗くなり、二人共、大丈夫? と心配そうな琴巳の声がかかるまで、父子は湯のかけ合いを続けたものである。



 琴巳は、落ち込んでいた。

 原因は、自分から持ち出してしまった。

 それは、午後のことだ。母子ふた組計四人は、おやつ後、東の客間に移った。

 琴巳と柴希は一息ついて、長椅子に腰を下ろしていた。

 二人の前では、幼子達がせっせと積木を積んでいた。燕は何か作っているらしく、羽衣はとにかく積み上げる行為に夢中のようだった。

『ホントに可愛い』

 眺めるうちに浮かんだ感情を、琴巳はそのまま言葉にした。『羽衣ちゃん、ウチの子に欲しいなぁ』

『わたしはいつも、皇子(みこ)を息子に欲しいけど?』

 目を細めて燕を見る親友の台詞に、琴巳は嬉しくなった。

『日本ってね、昔は結婚相手を親が決めたりしてたの。親同士がお友達だったりして、両方に上手く男の子と女の子が生まれたら結婚させませんか、って感じで』

『それは、翠界には今でもあるわ』

 柴希は頬に細い指をあてた。『わたし達、丁度、男の子と女の子を産んだわね』

『二人が婚の儀をしてくれたら、わたし達、羽衣ちゃんとエンを〝ウチの子〟にできるよね』

『我が家にはこの上も無い名誉だけど、皇子がウチのじゃじゃ馬を引き受けてくださるかしら』

 肩をすくめて柴希は言った。『皇子は年々、父君に似てきてるもの。女性の好みもそうじゃない?』

『わたしみたいな女性を選ぶってコト? んー、羽衣ちゃんは、わたしじゃ及びもつかない美人になりそう』

『そうね。琴巳みたいに可愛く育ちそうにない』

 柴希が可笑しそうに言い、琴巳は唇をすぼめて息子を見た。羽衣と並んで積木遊びをしている微笑ましい姿を目にすると、諦めるのが惜しかった。

 琴巳は、試しに訊いてみた。

『ね、エン、将来、どんな女性(ひと)と婚の儀したい?』

 寸時考えた燕の、返してきた答が――

「父上、だって」

 寝室の出窓に腰かけ、グラスを両手で持った琴巳は拗ねた声で告げた。

 隣でアイスティーを含んでいた栩麗琇那は、吹き出しかけたのか、ワゴンにグラスを置いて胸元をさする。けほけほっと噎せた末、俺? と訝しげに問うた。

 琴巳は頷き、レモンティーを啜る。恨めしさを訴えたくて、上目づかいに夫を見た。

「ショック。訊く前に、せめてわたしが四割で残りの六割はサっちゃんと羽衣ちゃん、なんて期待してたのに。一割も入れてなかった男性(ひと)を出してくるんだもの」

 夏の夜の静かな風が、カーテンを揺らし、並ぶ二人の髪も揺らした。

 栩麗琇那は、流された前髪をかき上げ、苦笑をひらめかせた。

「まだエンは起きてるかもしれない。もう一度訊きに行ってみないか。今頃は十割〝母上〟になってる」

「どうかしら」

 琴巳は疑いの目を夫に向けた。「二人で、とーっても長風呂してたし」

 夕飯の準備がすっかり整っても出てこないから不安になって行ってみれば、栩麗琇那と燕はこれ見よがしに仲良く遊んでいたのだ。琴巳は追い打ちを食らった気分だった。

 つと、琴巳は栩麗琇那に髪を引かれた。風のように、ふわりと唇が重なってくる。

「俺は、この先もコトミに婚の誓いを申し出る。機嫌直しな」

 珍しくストレートに優しい台詞を言われ、琴巳はぽっと頬が熱くなった。

「わたし、機嫌悪そうだった……?」

「あぁ」

 栩麗琇那は、短く笑った。「コトミの場合は困ってるような顔にしか見えないから、判断が難しいけど」

「むー、それって何か馬鹿にされてる気分ー」

 そう? と、とぼけた口ぶりで言う夫の背を、琴巳はぽふぽふ叩く。

 じゃれるうちに、唇が再会した。

 口づけを交わす二人の居場所が窓辺からベッドに変わるまで、そう時間はかからなかった。

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