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燕二人  作者: K+
六暦620
12/45

11 魔術師 Ⅲ

 琴巳(ことみ)は震えながら、広間の椅子にへたり込んでいた。

 三十分余りで色々なことが起こって、少々混乱している。

 (ゆか)を綺麗にしなきゃ。蒼杜(そうと)さんが起きた時、びっくりしちゃう。でも、それよりみんなにお茶を淹れるべき? でもでも、こんな時にお茶飲むって変? そういえば、あのお爺さん、大丈夫なの? 嗚呼、床だけじゃなくて玄関口も綺麗にしなきゃ――

 思考がループしているところへ、玄関が勢い良く開いた。

 琉志央(るしおう)が駆け込んできて、こちらを見るや肩から力を抜く。間を置かず、栩麗琇那(くりしゅうな)も走り込んできた。

「コトミ――」

 たった三日離れただけだったのに、低声がとても懐かしかった。琴巳は思わず立ち上がると夫に抱きつく。安堵が湧き上がった。

 頭上で、無事で良かった……と栩麗琇那が絞り出すように言った。

「この辺の血は誰のだ」

 琉志央が床を見ながら張り詰めた声で問い、それには奥の診療スペースから顔を覗かせた蒼杜の幼馴染みが応じた。

「君の知己らしいが……ここに居る。虫の息だ」

 千歳(ちとせ)――来てたのか、と言いながら琉志央は奥へ向かった。やっと休暇が取れたんだ、と青年はのんびり言う。

 徐々に落ち着いてきた琴巳の脳裏に、一連の事々が蘇ってきた。

 

 ノックも無しに玄関が開き、顔も服も血まみれの老人が立っていたのを見た時は仰天した。

 蒼杜が寝ていることを忘れて声をあげてしまった程、凄惨な姿だった。老人は紫に近い唇を小さく開き、隙間から間隔の短い呼吸をしていた。今にも倒れて昇天してしまいそうだった。

『は、ハイ・エストを呼んできます。どうぞ、楽に――座っててください』

 何とか言った琴巳の台詞を老人は無視した。そして、ぜいぜい云いながら尋ねてきた。

『琉志央・ラズリはおるか』

『え、あ、生憎出かけてますが、もうすぐ戻ると思います。取り敢えず、座ってた方が――』

『おぬし、ここの女か』

 老人は苦しげに肩で息をしながら、問を重ねた。『それとも、ラズリのか』

『わたしは友達です。琉志央が帰ってくるまで、お留守番をしてるだけなんです。あの、お身体の具合はハイ・エストに診てもらいましょう』

『黙れ』

 粘着質のある視線をこちらに向け、老人は独り言らしき、しわがれ声を洩らした。『今はともかく金じゃ』

 台詞が聞き取れた琴巳は、何故かぞくっとした。不吉な予感、という言葉がぴったり当て嵌まるような感覚だった。

 傍に居た氷の精霊女王(シャトリ)も同感のようだった。

《逃げよ――!》

 言われるまま階段へ駆け寄った背後で、ごうっと暴風の音が起こった。振り返れば、室内に吹雪が巻き起こっていた。が、どす黒い靄のような塊が吹雪を突き破った。重い音がして建物全体が震えた。

『シャトリさん――っ』

 階段の手摺に縋って呼んだ時、間近でビチバチッと電気的な音が起こった。身をすくめると、ぐうっ、とこもった声が耳に飛び込んだ。

 雪片が乱れ飛ぶ中、いつの間にか至近距離に迫っていた老人が、己が手を抱えるようにしていた。白い視界で、鮮やかに赤い血が、ぱたぱたっと床にしたたった。

 口を覆った琴巳を、老人が憎悪のこもった目で睨み上げてきた。

『おのれ、小癪な結界なぞ纏いおって――っ』

 ぐわっと老人の手が真っ黒に染まった。

『っ嫌――っ』

 琴巳は悲鳴をあげ、屈み込んだ。パンッ、と硬い物を割るような物音が耳元で大きく響いた。

 ゴッと冷気がよぎった。

『精霊の分際で邪魔をするなっ!』

 しわがれ声の怒号が轟いた次の瞬間、何かが一閃した。ぎゃっと老人が叫び、躍るように回転した。その枯れ木のような腕を掴んで、誰かが手際良くうつ伏せに組み伏せた。

 ぴたりと吹雪がやめば、鞘付の剣を老人の首根に当てた大君(おおきみ)皇子(みこ)、千歳が居た。

『何だ、この御仁は』

《青二才に無心に来たようじゃ》

『どうして家の中に雪室(ゆきむろ)を作っているのかと思ったよ』

 いささか呑気な発言をしてから、千歳は青と緑の稀有な双眸を細めた。『怪我は無い? 琴巳』

 はい、と琴巳がホッとしたのも束の間、千歳は体勢を崩した。老人が、夫と大差ない体格の彼を乗せたまま、身体を浮かび上がらせたのだ。

 血だらけで息を乱している高齢者の動きにしてはあまりに非現実的で、声も無く琴巳は瞠目した。はっきり言って、大の苦手のホラー映画さながらだった。

 な――とシャトリが声をあげ、千歳が老人から飛び降りて剣を構えた時、立とうとしていた老人は顔から床に突っ込んだ。

『そんな魔術師にまで優柔不断なのか、若』

 玄関口から響きのいい女性の声がした。『それともなぶっていたのか、趣味が悪い』

 長い銀髪の麗人が、立っていた。

 殺してしまったのか、と千歳が複雑そうに問いかけたら、バクを当てただけだ、と美女はグレイの半眼を閉じた。

『瀕死の状況でバクを受ければ、とどめに等しいかもしれないがな。わたしは魔術師相手に、何ら痛痒は覚えぬ』


 老人は医療所に来た時点でかなり傷を負っていたから、バクという術を受けた後は昏睡状態に陥ったようだった。

 取り敢えず千歳が老人を診療台に運んだ。

 どうやらルウの民らしい銀髪の美女が室内の雪をみるみる蒸発させていたら、蒼杜が(ゆか)で寝ているとシャトリが当惑顔で告げに来た。麗人は雪の処理を放り出し、様子を見に二階へ行った。

 その直後に、栩麗琇那と琉志央が飛び込んできたのだ。


 ヤリガ……と、奥から医事者見習いの声が無感動に聞こえてきた。

 千歳の声が、命帯(めいたい)はどうだ、と訊く。無理だろうな、と最近だいぶ見えるらしい見習い青年が応えた。

「この前、臨終間際の婆さんの所に連れてってもらったが、あの時見た光の強さと一緒だ。殆ど消えかけてる」

(かね)を欲しがっていて、ここに来た時にはもう、この怪我の殆どを負っていたようだ」

「……ヤミマケの火傷より、術戦でついたっぽい傷が多いな……つーか、どうやってここを、つきとめやがったんだ」

「さぁ……ただ、これほど懐に入れていて、まだ金が必要って、どういう状況なんだろうな」

 千歳が何か出したのか、かさかさと紙を開くような音がした。

 ややしてから、ちょっとロマに行ってくる、と琉志央が言った。死にかけているのに瞬間移動するのか、と千歳が問う。老人を運んで行こうとしているらしい。

 医事者見習いは、淡々と告げた。

「ここに転がしておいても、今日には死ぬ。こいつの死に目を見たがってた奴が居たから、見せてやる」

 そうか……と千歳が応じ、さほどせずに奥から一人で出てきた。琉志央はロマ公国へ行ったのだろう。

 琴巳がやる瀬無く見やると、千歳は肩をすくめた。

「そもそもあの怪我だったから、わたし達にはどうしようもなかったよ。呼んでもいないのに来たのは向こうだし、気に病まないでいい」

 はい……と琴巳は顎を引く。

 お茶でも淹れようか、と千歳は厨房へ行きかけたが、つと、足を止めた。

「ところで、(つばめ)は何処?」

 ハタとして琴巳は栩麗琇那を見上げる。夫は珍しく、明らかに狼狽した様相になった。

「そ、その、る、留守番を……」

「大変、急いで帰らないと――」

 袖を握ると、栩麗琇那は小刻みに頷く。

「すまない、千歳。今日の礼は又、いずれ改めて」

「なに、気にしなくていいよ」

 父親そっくりに、千歳は鷹揚に笑った。「早く帰ってあげるといい」

 すまない、と栩麗琇那が繰り返し、ありがとうございました、と琴巳は頭を下げる。

 そうして、夫妻は慌ただしく大陸を後にしたのだった。



 首都に住まう柴希(さいき)に顔を見せてから、皇帝夫妻はラル宮殿に帰り着いた。

 寝室近くの廊下に瞬間移動で降り立ち、暗闇の中、栩麗琇那は右手を上げ、発光させた。

 息子を残して宮殿を出た後、医療所に着いた頃に鐘結界が一度反応した。客が来た筈だ。燕は応対しただろうか。

 真っ直ぐの廊下は、静まり返っていた。薄暗い光景が見慣れないメタリックな輝きに包まれていて、栩麗琇那は視線を走らせた。

 誰かがこの空間に、皇帝のモノと重ねて鐘結界を張っている。訪れた客のしたことだろう。

「エン、お部屋かしら」

 琴巳の言で、栩麗琇那は足を向けた。皇帝が戻ったら判るように鐘結界を張り、客は一旦、帰ったかもしれない。

 琴巳は栩麗琇那の袖をちょっと持って、横に並んだ。心配そうに言う。

「わたしの所為で、夜に一人でお留守番なんて、可哀相なことをさせちゃったわ」

「流石に俺が出る時は心細そうな顔をしていたが、エンは順応が速いようだ。それなりに克服していそうだけど」

 応じた栩麗琇那は、角を曲がって現れた人影に気づいた。大君、枸紗名(くしゃな)が典雅な足取りでやって来る。

 今、改めて鐘が鳴らなかったのだから、先刻の客も重ねて鐘結界を張ったのも、大君ということになる。

 栩麗琇那ほど夜目が利かない琴巳は、前方に目を凝らすようにした。

「あの歩き方は――大君の叔父様かしら」

 あぁ、と栩麗琇那が答えると、琴巳は澄んだ声を通した。「こんばんは」

 枸紗名は黙って頷く。互いに歩み寄るうち、栩麗琇那は、大君が燕を背負っていると気づいた。琴巳も、ややして気がついた。

「わ、叔父様、ごめんなさい。エンと一緒に居てくださったのね」

 距離が縮まり、栩麗琇那が手の輝きを弱めると同時に、枸紗名が小声で言った。

「待ちくたびれてしもうたようだ」

 向けられた背中で、幼子がすやすやと眠っている。時刻は十時半を回っていた。栩麗琇那は、抱き受けながら言った。

「いつも、この時間はとうに寝ているので」

 琴巳は明かりが無くなった中で、月光を頼りに息子を見つめた。いたく愛しそうな顔をする。

 栩麗琇那は妬けてきた。寝せてくる、と踵を返す。

 妻は、渋らなかった。

「叔父様、お茶でも飲んでいってくださいね。来てくださってて助かりました」

 それは栩麗琇那に、ようやく普段通りの生活が戻ってきたと、知らせる台詞とも言えた。



 琉志央は、足元に横たわる金髪女をぼんやりと見た。

 血溜まりが、渇きかけている。

 首に致命的と思われる傷を負った女は、既にこと切れていた。

 砂漠の地下にあるロマ公国の暗い路地を、証書に記載されている場所へ、急いで来てみたものの。

 槍駕(やりが)は懐に、銀貨や金貨の小袋の他、紙きれを二枚入れていた。宅地と家の権利書。どちらもロマ公国の。

 つい先日、予魅(よみ)からそこに屋敷を二軒建てたと聞いたばかりで。

 嫌な感じがしたのだ。

 相弟子と言っても、別段、信頼関係があったわけではなかった。同じ屋敷に居たのは、僅かに二年程度。

 だから、放っておいても構わなかったが。

 運命神とやらの采配か……

 予魅の身体には首以外にも闇を当てられたような傷が幾つもあるから、十中八九、槍駕とやり合ったのだろう。

 勝算って、相討ちも含めてだったのかよ……

 見開いたままの黒眼は天井の一点に向くばかりで、もはや負けん気剥き出しで見上げてこない。

 どういう経緯(いきさつ)で自宅で殺し合ったのか、そして何を思って琉志央の居場所を漏洩したのか――無理に自白させられた可能性もあるが――いずれにせよ、知ることが叶わない。

 知ったところで鬱々となりそうだ。

 鼻で息をつき、琉志央はやはり足元に転がる老人を見た。瞬間移動は体力を食われるから死ぬかと思ったが、しぶとく生きている。

 もう、時間の問題だが。

 あちこちに血が飛び散り、壁や家具が抉れている部屋で、かつて同じ屋敷に在った三人の魔術師は邂逅し、完全に決別することとなった。



 実梨(みのり)は表現しがたい気分で、蒼杜の寝顔を見つめていた。

 殆ど十二年ぶりに近づけたのに、こうして目にしているのに、脳裏に別の人物がちらつく。

『とにかくも、お行きなさい。執務は僕がしておきますから』

 蒼杜の弟子が魔術師かどうか。医事者協会は弟子の存在を何処まで把握しているのか。確かめるつもりでリィリ共和国に送った光の精霊が、医療所内が吹雪いているとの奇天烈な急を告げに来た時、たまたま居合わせた夫候補はそう言った。

 何故、あんな台詞を吐けるのか。

 恋敵と言っていたくせに、引き合わせて、万一、蒼杜が求愛を受けたらどうするつもりなのだろう。枕を並べると口にする浮ついた言葉の数々は、口先だけだったのか。単に夫候補として、役割を果たしていただけか。

 惨めだ、と実梨は自己を評価した。

 この際、わたしも医事者見習いと称して、このまま居座ろうか……弟子入りするのだと主張すれば、蒼杜のことだ、許すかもしれない。

 結構いい考えだと、実梨は九割方本気で思った。

 十割その気になる前に、階下で男達の話し声がした。

 さっき覗きに来た千歳が、栩麗琇那が迎えに来て琴巳はメイフェス・コートへ戻ったと言っていた。蒼杜の弟子は例の老魔術師を連れて出たらしいが、それが戻ってきたのだろう。

 実梨は寝台で眠り続ける蒼杜に目をやってから立ち上がった。部屋を出て、階段を降りる。

 床の血痕を間に話す二人が、段を降りる毎に見えてくる。

「――じゃあ、水の精霊に清めを頼んでみるか」

 長袴の左右の隠しに指先を引っ掛けて佇む若者が言い、それがいいだろう、と千歳が同意した。

 実梨が段を降り切ると、若者は胡乱気にこちらを見た。いかにも軽薄そうである。忌まわしい魔術師というのが真実味を帯びてくる。

 千歳が、ティカ大公だよ、と紹介すると、ほぅ、と若者は紫の目を眇めた。

「ここはそのうち、ルウの民の産院になりそうだな」

 何の話か解らない。実梨は眉をひそめる。千歳もやや首を傾げた。

「身重で瞬間移動を繰り返すのは、あまり良くないだろうに……そんなに、ルウの妊婦が来ているのか」

 そんなにという程でもないが、と若者は片手の指を順繰りに三本立てた。

「琴巳、サイキ、それから、こいつ」

 え、と千歳が目を向けてくる。実梨は、ほけっとした。

 本当に? と千歳が若者に尋ねれば、厨房へ歩き出しかけていた弟子は億劫そうに髪を梳き上げた。

「命帯が腹にもう一つ見える。どちらも波打たない藤色だ」

 医事者見習いは厨房の入口で、そうそう、と振り返った。「蒼杜の台詞を思い出したぞ。つまり、母子共に健康デス、ってヤツな」



 角灯の火が大きく揺れた。

 大公殿(でん)に宛がわれた部屋で、弓月(ゆつき)は羽根筆を止める。

 目を上げれば、部屋の扉口に月光が差したように実梨が佇んでいた。

 何度見ても、あぁ、と感嘆が洩れそうになる。

 多分、一目惚れしてしまったのだろう。

 彼女も、かの医術師に一目で魅了されてしまったらしいとは、専らの噂だった。

 だから、この胸中に浮かび、広がるモノをどうしようもないことは解っていた。

 手に入れてしまえば興味は薄れるのかもしれないけれど、幾度となく夜に溶け合っても、薄まるどころか濃くなって。

 月が重なれば光は増すばかり。

「おかえりなさい」

 言ってから、弓月はほんの少し不思議な心地になった。

 意中の君に久しぶりに会えただろうに、帰ってきたのだな。

「まだ片付かないのか」

 大公は素っ気無く言って、歩み寄ってくる。

 貴女が居ないと終わりませんよ、と言いたくて、常ならとうに済んでいる筈の残務をだらだらとしていたのに。

 妬けつく心を抱えて眠れるわけもないから、もたもたと進めていたのに。

 机越しに頬へ手を伸ばされ、言葉が出てこなくなった。

 何だ、この状況は。新手の八つ当たりか。

「そなた、この先、我が夫になってくれるか……?」

 飛び出した台詞に、()(のち)、弓月は柔らかな掌へ頬をあずけた。

「僕、どうしてここに居るんでしょうね」

「仕方無く」

「代弁になってませんよ、月殿」

 顔を傾け掌に唇をうずめれば、されるがまま、実梨は初めて頼りなげな表情を見せた。

「夫になってくれるのか」

「……月殿が、僕の妻になってくれるなら」

 上目づかいに見やると、実梨はじっと見返してきた。

「なる」

「冗談だったら、僕も怒りますよ」

「それはわたしの台詞だ」

 淡々と実梨は続けた。「子が宿ったのだから」

 どう反応すればいいのか、しばらく判らなかった。

「いいんですか……?」

 情けなく声が掠れた。

 実梨は、照れ隠しが丸判りの渋面になった。

 月が、重なった。



 夜更けのラル宮殿、後宮。

 それまで唯一入れずにいた書庫で、月明かりを頼りに本を読みあさった。得られたのは、僅かな情報、僅かな満足。

 書庫を出て食堂方面へ足を向ける。角を曲がると、真っ直ぐ先に、ひと回り大きな扉が見える。

 音も無く扉前まで行き、一面に施された浮き彫りを斜めに見上げた。扉の向こう、執務宮にも書庫が在る。あちらの方が、蔵書量は多いと聞く。術書もあると思う。

 封印術について、もう少し知識が欲しかった。

 封印は、力量を平衡させるか凌駕させれば、実体の無いモノを抑えてしまえる。ならば、術力以外の対象を抑えることも可能ではなかろうか。

 例えば、もう一人の自分。

 初めに自意識を持ったのは、こちらなのだ。

 もう這うことができただの、あっと言う間に一人で立てただの、たったそれだけで母は喜んだ。本当は、もっと早くそれらは可能だった。

 今の皇子は〝本物〟より劣っている。

〝偽者〟は、のろのろと言葉や字を覚えていく。大陸の子供より数段速いそうだが、ルウの子供としては平均だ。実際は、皇族らしく、都の子供よりも先行できる筈なのに。

 きっと、十歳で一級医事者の資格を得たという、知神の申し子に匹敵しているのに。

『天才かもよ?』

 以前、母が笑顔でそう言った。

 言葉通りだったと知ったら、母はどう反応するだろう。

 境界の扉に寄りかかって、中庭へ目を流す。広い庭を挟み、向こう側の窓の奥に両親の部屋の扉がある。

 足元の絨毯を蹴った。

『――術力は――解放するとなると、かなりの反動が来る。今の体力と精神力では耐えられない』

 あれから二年経過しようとしている。一体、いつまで待てばいいのか。

 面白くない。

 今夜は、偽者を愛しそうに見つめた母の顔が、ちらつく。

 受けられる筈の眼差しが、ことごとく逸れている。

 感じられる筈の温かさが、全て遮断されている。

 廊下を駆け抜けた。書庫を過ぎ、子供部屋を過ぎ――

 全速力で走っても、偽者のように息が乱れない。

 最奥の部屋の前で立ち止まる。

 そっとそっと、把手を押す。暗い室内に滑り込む。

 せっかく幅広の寝台なのに、大抵、両親は真ん中でちんまりと寄り添っている。今宵もそう。

 父の腕に抱き込まれ、覗き込まないと母の顔は見られなかった。柔らかな寝顔。

 ゆったりと、二人の吐息の音がする。

 全速力デ走ッテモ、偽者ノヨウニ息ガ乱レナイ。

 音モ無ク――

「母さん、ツバメは本当に本物なんだろうか」

 父の腕が動き、一層母を抱き寄せた。

 腕が動いた時には背後に飛び退き、そのまま扉口まで後ずさる。

 父は、気づいているのか、いないのか、思わせぶりな行動をする。

 内心で舌打ちして、寝室を出た。

 出た途端、身体がぐいっと子供部屋へ引っ張られた。偽者のお目覚めが近いようだ。

 偽者の内へ直接行く時だけは、何故か瞬間移動ができる。

 実のところ、瞬間移動なのか、怪しい。

 ソレを考えるのは、恐ろしい。

 ――ツバメは燕の、想像の産物……?


 十代半ば程の、青味がかった黒髪の少年が宙に浮いていた。

 ラル宮殿の後宮、中庭付近の上空で。

「これは……驚いたな」

 そう少年は、独語した。

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