10 魔術師 Ⅱ
午前中のリィリ共和国に現れた栩麗琇那は、目眩を感じた。僅かにふらついてしまう。
木の幹に手をかけ、まずいな、と胸中に呟いた。ここ三日、絶食に近い上に睡眠も殆どとっていなかった。思ったより身体が弱っている。闇範囲の術中でも比較的安易な瞬間移動で、この有り様では……
俺の結界も、比例して弱っていたかもしれない。
危険の溢れた大陸に妻が居たのに、屈託ばかりで配慮が足りなかった。
情けなさに栩麗琇那は唇を噛み締めた。が、今は反省している場合ではない。琴巳がどうしているか確かめなくてはならなかった。
瞬間移動の対の輪を置いたここは、蒼杜の医療所に近い。柴希の話では、琴巳は結婚前に住んでいた家に滞在中だ。
雪の残る森の中を、逸る心に反比例した覚束ない足で、六、七年前に通いつめた小さな家へ向かう。
何とか辿り着いて玄関を叩いたが、返事が無い。目眩から来る嘔吐感に耐えつつ、窓から屋内を覗いた。
カーテンが掛かっていて、よく見えなかった。薄暗く、しんとしている。気配も無い。
あっちだったか……?
医療所がある方角を見やる。雪面に琴巳のモノらしき足跡もあり、栩麗琇那はそれに沿ってよろよろと歩き出した。
途中、抑えきれずにもどした。胃液の酸味に顔をしかめ、白々と残る雪で口を濯ぐ。幾らかすっきりしたお蔭で、どうにか足を動かし続けた。
木立の合間に医療所の切妻屋根が見えてきた時、視界の端に黒っぽい色が映った。妻かと目を向ければ、医事者見習いだった。琉志央の髪は少し紺が混じったような色をしているが、紛らわしい。
落胆したものの、琴巳の所在を確認する上でも声をかけた。見習い青年は、菫色の目を流してくるなり、むすっとした。
「お前、新年早々何やってんだよ。わけ解んねぇことで琴巳をここに来させんな」
「……面目ない」
夜通しその柔肌に溺れた上に風邪をひかせ、子供に関して口論の挙句、みすみす家出された身では、言い返せる筈もなく。雪面に目を落とす。
そしてやはり、妻の結界を壊したのは琉志央ではないと判じた。判じて、問う。
「コトミの結界が消された。今、そっちに居るのか」
「な――!? 家じゃないのか」
「居なかった。医療所でもないのか」
琉志央は、知らん、と言い捨て、医療所へ向けて大股に歩き出した。
「俺は――サージソートの持ち家を大掃除して、腹減ったから帰ってきたとこだ」
栩麗琇那は不安がいや増した。魔術師が相手としたら、急襲された場合、蒼杜一人では不利だ。例えルウの皇族に近い術力の持ち主といっても、彼は医事者であって、攻撃魔術を使い慣れる環境に身を置いていない。
二人は雪を散らして医療所へ急いだ。
エンは、角灯を片手に提げ、ツバメと書庫の前に来ていた。
食卓を片づけ、歯を磨き終え、することが無くなって心細くなったところへ、実に丁度良くツバメは訪れた。
『父上ね、母上の所へ行ってるの』
エンが言うと、うん、とツバメは機嫌良く頷いた。
『こんな機会を逃すテはない。書庫へ行こう』
取り立てて他にすることも浮かばなかったので、エンは同意した。ひょっとしたら自分にも読める本があるかもしれないとも思ったから。
書庫は、二日前から扉が壊れたままだった。
ツバメはカタカタ揺れる扉を引き、苦笑した。
「父さんは馬鹿力だよなぁ。チョウツガイも壊れちゃってるや」
「父上、母上を一生懸命、捜してたから」
エンは暗い室内をそうっと覗いた。広さも縦長のところも、子供部屋と似ている。エンは、隅の空間に角灯を下ろした。「ここに置くよ?」
「そうだな。まぁ、月明かりでも何とか見えるから、そこでいい」
ツバメは早くも、本棚に並ぶ書物の題名を、手当たり次第に確かめ始めていた。「術書はどの辺だ――父さんのことだから、きっちりブンルイしてるに違いない」
「お話の本は、無いかなぁ」
エンは部屋を囲む棚を見上げながら、のんびりと言った。「母上の読んでくれる面白い本はハイ・エストのお勧めってヤツが多いから、リィリから借りてきてるのかもね」
「一冊見つかれば、周りもそのケイトウの筈」
「あ、そういえば、ここって系図があるんだよね。お祖父様とお祖母様の名前とか、そのまた父上の名前とか知りたいな」
「〝六暦六〇三年覚書〟――〝六〇四〟、〝六〇五〟――違う違う、こんなのに用は無い」
「えっと……〝ラル宮殿〟……? んー……んー、次が読めない」
まるで会話の噛み合わない、つまりは独り言を幼子二人は言い合っていた。
しばらくして、あったっ、とツバメが声をあげた。一際大きな声だったので、エンはちっとも読めずにいた本を棚に戻し、友達の傍に駆け寄った。
ツバメは、他より一回り小さ目で、けれど外側がしっかりした作りの本の、頁をせっせとめくっていた。
「封印の項は何処だ――」
「封印?」
エンは訊いたつもりだったが、独り言と見なしたのか、ツバメは答えてくれなかった。ひたすら頁をめくる。
ややして、ぴたっと手の動きが止まった。ツバメが息をひそめたのが判り、エンは無意識に己が口を手で塞ぐ。
「〝術力を封じる事〟――〝対象を覆う術力を放ち〟――違う、これはその場凌ぎだ――」
ツバメは口走ると、又、頁をめくった。「〝完全に術力を封じる事〟――これだっ。〝対象の術力がボウダイにつきセイギョフノウ、或いはショ事情につき、一時的に術者でなくしたい場合〟――」
エンは、ツバメの目がぎらぎらして見え、少々怖くなった。単に、角灯の明かりを反射している所為で、黒い筈の瞳が金色に輝いているからかもしれなかった。だが、魔術の本を、こうも喜々として読む姿は、いかにも不穏だった。
「ツバメ、誰かに術をかけるつもりなの……?」
「将来的には、かけるかもな。けど今は、かけられたのを解くのが先だ」
「誰か、困ってるんだ?」
「心底、困ってる」
そっか、とエンは口をつぐむ。幼馴染みは物凄い速さで目を動かしていた。真名だらけの文章でも、全部読めているのだろう。
エンの内心に応えるように、ツバメは所々を呟くように声に出して読んだ。
「〝封ずべきブイは六箇所〟……〝契約神パクトの御名におき、鍵なる各コトダマにて〟……〝術者以外によるカイジョは〟――〝ホンリュウにリュウイしつつ、封ぜられた者により、コトダマをソウサイ〟……?」
「惣菜?」
「ソウサイ」
ツバメはすかさず訂正し、再び始めから読み直すように文に目を落とす。落としつつ、呆れたように言った。「もう腹減ってるのかよ。夕飯、食べ足りなかったのか」
「ううん。お腹空いてるのは父上だよ、きっと」
エンは応じてから、近くに時計を探した。「今、何時だろ。父上、遅いな」
ツバメは、鼻で笑った。
「〝ちょっと〟って表現は曖昧だよな」
母さんに会いに行った父さんの〝ちょっと〟はかなり長いだろうな、とツバメは楽しそうに続ける。目当ての本が見つかったので、機嫌がいいのだろう。
エンは、とてもじゃないが、そんな心境になれなかった。
「父上、今晩、帰ってこなかったらどうしよう」
「却って好都合だ」
ツバメは、本を見ながら言った。「早速この〝鍵なる各コトダマ〟を判明させよう。〝各〟ということは六つあるんだろうな。ここにメイキされていないとなると、術者がそれぞれ思いつきで六つの言葉を鍵にするんだ」
父さんの浮かべた六つの言葉、とツバメが言い換えた時、微かに、誰かの声が聞こえた。廊下の方から。
父だと思って駆け出しかけたエンに、ばふっとツバメは持っていた本を押しつけた。エンが面食らった隙に、忽然と消える。
「あ、ず、狡いよぅ、ツバメ」
こんな時だけれど、鍵も壊れていたけれど、重要な物がしまってあると言われていた書庫に入ってしまったのだから、叱られるかもしれない。エンは焦って本を棚に戻した。何処に並んでいたのか知らなかったから、適当だ。
「誰かおらぬのかー」
はっきり聞こえてきた声は、父のモノではなかった。エンは益々慌てた。上着の隠しから大事な印章を取り出し、ぎゅっと手に持つ。
部屋の隅で角灯を手にしたところで、そこにおるのは誰だ、と低声が響いた。近くで耳にすると、聞いたことのある声だった。
エンがそっと部屋の中から顔を出すと、大君の大叔父がゆっくり歩み寄ってきていた。エンは、多少ほっとした。大叔父とは二、三度しか会っていないが、何となく安心できる人だったから。
「こんばんは、叔父上」
そなただったか、と大叔父はやんわり応じた。
「明かりの位置が低いわけだな」
言われて、エンは少し角灯を掲げる。大叔父は可笑しそうに喉を鳴らし、静かに屈んだ。「父上と母上は何処だ。三人でかくれんぼでもあるまい。明かりなど持っておっては、見つけてくれと言わんばかりだものな」
「かくれんぼじゃないの。母上はリィリで贈り物を作ってて、父上はちょっと会いに行ってマス」
明かりに照らされ、大叔父は父同様に整った顔をちょっぴり横に傾けた。
「こんな時刻に幼子一人を残して……? まぁ、わたしもザンムを放って抜け出してきたクチだが……」
「叔父上、お仕事じゃないの?」
ささやかにがっかりして、エンは握った手を開いた。「僕、父上の印章を捺せるのに」
大叔父は、たしか本当は深い青色の、今はさっきのツバメのように金色の目を見張った。
「おやおや。そなた、書庫の本に捺して遊んでいたのか」
「捺してないよぅ。だって、印章って、父上が、書いてあることを解った時と、それでいいよ、って時に捺すんでしょ?」
「その通りだ。よく解っておるな、エン。父上に教えてもらったのか」
「えへへ。そうなの」
エンは嬉しくなって顔をほころばせる。大叔父は一緒ににっこりしてから、ちらっと視線を書庫の扉に向けた。
「さて。この扉を壊したのは父上だな?」
「叔父上も見てたの?」
「いやいや。スイソクだ。母上は、父上を驚かせるシュコウで、突然に大陸へ行ったのかな?」
「〝スイソク〟って、〝見てた〟っていうのと、何処か違うの?」
「ははは。違うのだ。頭の中で、こうかなぁ、と考えるのだ。今は、たまたまそれが当たっていたのだな」
ふぅん、とエンは感心した。スイソクというのは、かっこいい。
大叔父は、印章を握るエンの手を、ぽんぽんと叩いた。
「そなたは父上に、この場を任されたわけだな。一人で大役に挑みたいだろうが、せっかく遊びに来てこのまま帰るのもつまらぬ故、しばらくわたしも居て良いかな?」
いいよ、とエンは頷いてから、ハタと気恥ずかしさにうつむいた。
「あの、あの、僕が、居て下さい、って言う方。僕、ホントは、印章捺そうかどうしようかは、決められるか不安だったの。叔父上が決めてくれたら、大君だもの、父上もそれでいいって言うよね」
「では、何か飲みながらカルタでもして、一緒に父上と母上が帰るまで待つとしよう」
「叔父上のスイソクだと、父上と母上、一緒に帰ってくる?」
「さてさて。そなたの父上は心配症だからなぁ。母上をそうそう一人にしてはおけまい」
エンの手から大叔父は角灯を取り、手を繋いでくれた。「母上の方は、父上と一緒に居たくてこの世界に来たのだ。いつまでも離れているのは我慢できまいて」
そっか、とエンは思う。大切だからという以外にも理由があって、両親は結婚したのだ。
エンは、父と母が並んでいる姿を無性に見たくなった。やっぱり、一緒に居る父母と、一緒に居たいと思った。




